コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

短歌(301~310)

 短歌の時間です。

 

 Twitterにアップした短歌を10個並べています。気に入ったものがあればうれしいです。

 

【301~310】

丸暗記しなくていいお前だけの七草をあらんかぎりに叫べ

 

床板の木目が君の笑う顔そっくり他は全てあとがき

 

くたびれたアダルトビデオに映されたサラダの緑だけが真実

 

遠足のおやつは500円までです猫は3匹まで認めます

 

家庭科をまじめにやってこなかった君が作ったエロいみそ汁

 

自転車のカゴいっぱいに詰めこんだ春の匂いをひったくられて

 

神様よ私のもとに帰りなさいホットミルクがさめないうちに

 

下々の者に教えてあげたいな神が作ったカレーの味を

 

絶対に絶対絶対絶対に絶対絶対絶対お前を

 

お前らが静かにするまで先生は502回も瞬いたんだぞ

 

 次回もよろしくお願いします。

お寿司ノート(1月)

 1か月前までお団子が大好きで、そればっか毎日毎日食べてたけど、最近は食べなくなりました! 卒業の季節も近いもんね。そろそろ他のものも食べなきゃいけないし、遠いところに行かなきゃいけないし。

 昨日は回転寿司に行きました。近くに3つくらい回転寿司屋があって、どれもアピールがすごいんだけど、厳正なるジャンケンでスシローに行くことになりました。ちなみに私はくら寿司派です。みなさんはこしあん派ですか? つぶあん派ですか? 平日に行くとかけうどんが130円で食べられるから、毎回食べてる気がするな。私にとってくら寿司はうどんを食べに行く場所になってる。うどんの専門店で食べるうどんと、サイドメニューで食べるうどんって、なんか違うよね。

 スシローではかけうどんを頼まないことにして(くら寿司のかけうどんが好きなのに、スシローのかけうどんを食べたら浮気になってしまう。そういうのは良くない)、いろいろ麺類を見た結果、さば何とかカレーつけ麺(正確な名前は忘れてしまいました)を頼むことに決定。全部食べるとお寿司が食べられなくなってしまう気がしたので、サワムラーさんと半分こに。

 座った席がレーンの下流だったから、見えててもなかなか注文した物がこない。いつまでもどきどきしてるのは体に悪いのであまり見ないようにしてました。そのうちカレーtukemen(変換が上手くいかない)が上流からのっそりみえてきて、ゆっくりゆっくり川を下ってきました。チャイムの音と共にカレーつけ麺を水揚げして、一回まじまじと見ました。なぜかシャリが乗っていました。うーん不思議だ。

 とりあえず麺をカレーの汁にひたして、服にかからないようにちゅるちゅる。カレー味だ。まぎれもなくカレー味だ。

 たくさんネギが入っていて(私はネギが嫌いです。おいしくない)、嫌だからひたすらどかしていたらサワムラーさんに怒られてしまった……。でも嫌いなものは嫌いだからしかたないと思う。ネギには後で謝っとこう。

 シャリをもぐもぐと食べて、うーんカレーライスだと思ってたら、注文画面に「〆にシャリ!」と映ってビックリ。なんか怒られてるみたいで恥ずかしい。エスパーだったら、私の食べたいものをあらかじめ出しておいてほしい。

 そのあと適当にお寿司を食べて、夕食終わり。外に出ると、まだ雪が隅っこに残ってて、その場所は寒いんだな、雪は孤独を深めないと生きていけなくてかわいそうだとしみじみ……していたら、近くに雑草が生えていたので、もしかしたら喋っているのかもしれないと思うと少し安心。

 でも、雪もあと少しで卒業してしまうんだ。残された雑草は何を思ってこれから生きるのだろう。私には想像もつかない。でも生きていくんだろうな。

 

煙を吐き出し笹団子は進む

 新潟に行ってきた。

 新潟は北のほうにあるらしく、北のほうに土地があると雪が降りやすいらしい。私は今まで夏にしか新潟に行ったことがなく、冬に行くのは初めてだった。雪で靴がやられると足が死んでしまうので、生活防水と書かれた靴を装備し、さらに防水スプレーを勢いよく吹きかけて水属性に耐性をつけた。シャッターにスプレーで書かれた落書きは、おそらく不良がやっているのだが、どういった経緯で落書きをするのだろうか。もしかしたら美術の成績が良かった不良が落書き担当になるのかもしれない。美術の成績が良い不良は日々シャッターや柱に落書きを行う。引退する日に先輩から譲り受けたスプレーを後輩に渡すのだろう。

 天気予報を見ると、かなりの大寒波が襲来するらしく、数年に一度の大雪だという。なぜそんな天気をツモってしまうのか。まあ、意外に大したことないかもしれないなと思いつつ、新幹線に乗った。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という小説の有名なフレーズがあるが、実際群馬県あたりでトンネルに入り、数分して抜けると雪が積もっていた。川端康成みがあるなと思いつつ(川端康成みとは一体)、もう一度トンネルを通過すると、ハチャメチャに雪が降っていた。建物は皆関口メンディーの髪型みたいになっている。

 越後湯沢には人を寄せ付ける何物かがあるらしい。人を寄せ付けるものは大体宗教施設かラーメン屋なので、どちらかが越後湯沢にあるのだろう。複合施設なのかもしれない。

 その後繰り返しトンネルを通過し(天丼)、何回目かの時に突然窓の景色がホワイトアウトした。ただただまぶしかった。雪はまぶしいことを私は知らなかった。

 そこから先は寝てしまったので覚えていない。くるりの『日本海』という曲には「煙を吐き出す餅屋 向こうに見えるは露西亜」というフレーズがある。あと「なう」のコーラスも存在する。良い曲なので聴いてみるといい。そして新潟駅に到着した。

 雪は想像の1.4倍降っていた。靴は濡れずに済んだが、ズボンの裾から雪がこぼれ落ち、靴下を軽く濡らした。学びだ。

 新潟で用事を済まし、お土産を買うことにした。笹団子が有名らしいと聞いていたので、絶対に笹団子は買わないぞと心に決め、笹団子を買った。

 帰りの新幹線では柿の種チョコを飲んだ後ずっと寝ていたのであまり記憶がない。柿の種チョコと睡眠導入剤を間違えていた可能性がある。新潟らしいものをあまり食べられなかったので残念である。皆さんは新潟らしい食べ物と浮かべて何をイメージしますか。この質問で、あなたが心から信頼しているものが分かります。

 最寄り駅でラーメンを食べ、バスに乗った。今新潟が存在しているかは分からない。

 後日、友人に笹団子を配った。笹団子は互いにつながれていて、すべてハサミで切り離すと逃げていった。今頃煙を吐き出しながら新潟行きの新幹線に乗っているかもしれない。

読書感想文その11

 今回は11回目の読書感想文である。最近小説を読んでいないので、そろそろ読もうかなと思っている。読むかどうかは未来の私が知っている。現在の私は知らない。秒数が経つにつれて現在の私が変化し、過去の自分は増え、未来の自分は減る。砂時計のようなものだ。

 ジャンルに偏りがあるのは、趣味が脳を侵食しているからである。

 

小林恭二『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負』(岩波新書)

短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)

短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)

 

  ブログでも何回も言及している通り、最近短歌にハマっている。短歌を作るだけではなく、好きな歌人の歌集を買うこともある。それだけでは不十分だと思い、短歌について書かれた本も読んでいる。

 この本は伊豆で行われた歌合について書かれている。歌合はうたあわせと読む。歌合についてざっくり説明しておくと、歌人がAチームBチームに分かれてそれぞれ題に合わせた歌を作り、優劣を競うものである。どう優劣を競うかというと、チームごとに提示された歌をチーム同士で弁護や批判を行うのである。弁護や批判を行う人(念人。おもいびとと読む)が議論して、最終的に判者(はんじゃ)が優劣を決める。この本では2通りの歌合が行われた。

 歌人も豪華である。ベテラン、中堅、新進気鋭の若手などバランスよく揃っている。歌人の紹介をしても分からない人が出てくるし、自分もまだ短歌を始めたばかりでうまく説明ができないため、豪華メンバーとだけ覚えておけばいいだろう。メンバーを知りたい人は読むか調べるかしましょう。

 短歌は歌の意味を汲むことが難しい場合がある、しかしこの本では作者が自身の解釈を提示しているため、ちんぷんかんぷんということはないだろう。作者も匙を投げそうになる歌は少し存在するが。

 議論も白熱している。しかし、高度すぎるということはなく、気が抜けるような掛け合いも行われていることもある。また、同じチーム同士で解釈が分かれている場合もあり、そこを相手チームに突っ込まれていることもある。それだけ短歌は様々な読み(詠み)ができるということだろう。

 歌合は本文中にも書かれている通り、遊びの一種である。遊びを軽く見る人もいるだろうが、今回の遊びは大人が本気になって取り組んでいる。しっかりとルールを決めた本気の遊びはかなり盛り上がる。本気で遊ぶことの楽しさと遊んだ後の疲労感もこの本には書かれている。

 短歌を詠む人は沢山いる。しかし、短歌を詠む人がほかの人の短歌をしっかり読んでいるかは別の話である。短歌を詠むだけでなく読んでみたいという方に、この本はおすすめである。

 

穂村弘『世界音痴』(小学館文庫)

世界音痴〔文庫〕 (小学館文庫)

世界音痴〔文庫〕 (小学館文庫)

 

  様々な人が様々な感覚を持っている。皆が共感できる感覚もあれば、傍から見ればあまり理解できないもの感覚も存在する。マイ感覚が人々には多かれ少なかれ備わっている。例えば、私は透明なのに味がついているものが苦手だ。ポカリスエットアクエリアスは色がついているので安心して飲めるのだが、いろはすのみかん味は透明なのに味がついていて怖い。

 この本では作者の様々なマイ感覚が書かれている。飲み会で自然に席を移動することができなかったり、15年も自室の窓を開けなかったり、自由席を怖がったりなどなど、共感できるものも結構あるが、あまり理解できないものもある。

 マイ感覚は自意識の表れである。自分が世界でどう動いているか、考えてしまうことが多い人ほど、マイ感覚は増えていく。ポケットの中からあふれてしまうほどマイ感覚が多くなっても、なかなか捨てることはできない。捨ててもまた戻ってきてしまうからだ。

 作者の穂村氏はそのマイ感覚をエッセイにしている。何冊もエッセイが出るのは、それだけマイ感覚を多く持っている人がいるからだろう。また、世界に潜んでいる様々なものに穂村氏は気づく。気づくからこそ短歌で名をあげたのだろう。自分に違和感を多く感じているから、世界の違和感にも多く気付けるのだ。

 読んだ人の中には、この作者、以外に良い経験をしているのではと考える人もいるだろう。ガールフレンドもいたらしいし(現在は結婚している)、交友関係もそこそこ広そうに見える。しかし、他人から見る自分と自分から見る自分は違う。いくら充実した生活を送ってそうに見えても、当事者は何となく違和感を感じていることだってあり得るのだ。

 作者は自分の感覚をさらけ出している。作者に共感したり、好感をもったり人が現れるのだろう。自分の感覚をさらけ出すことはそうそうできることじゃない。世界音痴だと作者は自虐するが、マイ感覚をさらけ出している作者は、音痴ながらも堂々と歌っているのだ。

原っぱのDJ

 マクドナルドに行く機会があった。マクドナルドに行くときは大体急いでいるときである。バスがもうすぐ着く、電車がもうすぐ着く、そういう時に食べるものだ。余裕のある時には食べない。

 私は生のトマトが嫌いだ。口の中が青々となるのが嫌だ。だからトマトが入っているハンバーガーは食べられない。また、ピクルスも嫌いだ。肉が食べたいのになんできゅうりだかズッキーニだかの酢漬けを食べなければならないのか訳が分からない。久しぶりにカービィのエアライドをしたいなと思って棚を探していたら、出てきたのがスーパーファミコンのソフトだったら、ガッカリしてしまう。私はいつもピクルスを抜いたハンバーガーを注文する。私のハンバーガー大図鑑の中にピクルスはのっていない。索引で「ハ行」を見ても「ピクルス」という文字はない。

 急いでバスに乗ると外では雨が降っていて、サイダーのように泡立っていた。サイダーの雨は最悪だ。ただでさえ雨の日は気分が上がらないというのに、雨の成分がサイダーだったら髪はべたべたになる。急いでシャワーを浴びようとするとそこからもサイダーが出てきて体はべたべたになる。どうやらサイダーの栓をひねっていたらしい。慌ててお湯と水の栓をひねる。安いアパートだから、ちゃんとお湯と水の栓を調整しないと適温にならないのだ。

 ゆっくり栓を調整する。DJをやっている人もこんな感じでつまみを調整しているのだろうか。つまみを少しずつ回してフロアをあたためるDJと、シャワーの栓を少しずつ回して風呂場をあたためる私が世界に存在している。

 DJのように今日と明日をうまくつなぎ合わせないと、明日になったときぎこちなくなってしまう。早く寝なければ、今日と明日が同時に流れ出して不協和音を奏でる。寝ている時間は音楽で言えばブレイクのようなもので、明日を盛り上げるために必要なものだ。人々は1日1日を上手くつなぎ合わせるために、毎日DJの練習をしているのだ。だから最近DJがどんどん増えている。歯医者の数よりもDJは多いのかもしれない。あぶれたDJたちがどんどん街に増え、路地裏でスラムを作って暮らすようになる。レコードや音楽データを売人に売ってドラッグを買ったり、炊き出しの行列に大きなヘッドフォンをかけて並ぶ。子供たちは裸足で広場に集まって、自分たちで歌う。スムーズに他の曲につながるように歌う。DJドリームを掴むために必死に歌う。その上を、新しくできる高層ビルの胎児が眠っているのだ。

短歌(291~300)

 短歌です。

 300首に到達した。納得のいくものができるように精進したいと思う。気に入ったものが1つでもあればうれしい。

 

【291~300】

水温が23℃を切っているプール地獄で苦しむがよい

 

クリスマス・イブが終わってたくさんのイブが路上に捨てられている

 

千年後色んなものが変わってもカントリーマアムは多分おいしい

 

俺のだけサラミが全然のってない格差社会がおそろしすぎる

 

にんじんがたくさん売れている町にウサギがいないなんてあり得る?

 

しりとりで知的な単語を使いたい 例えば? ルール工業地帯

 

明日より通常営業いたしますよろしくお願いします 母より

 

去り際に落ちたビスケットのかけらこれを私と思って生きて

 

濡れた犬乾いた頃に僕は死ぬベストアルバムみたいな風だ

 

人類は滅亡しました先生の次回作にご期待ください

 

次回もよろしくお願いします。

17.7%の人間

 TwitterSNSである。コミュニケーションツールである。人々はTwitterを使ってコミュニケーションに興じる。

 私はTwitterをコミュニケーションツールとして使えていない。Twilogというアプリケーションでコミュニケーション率を調べてみる。計算方法は@のついたツイートの数を全ツイート数で割ったものだ。結果として、私のコミュニケーション率は17.7%であった。この数値だけみても高いのか低いのかは分かりづらいだろう。Twilogでは、このアプリケーションを使用したことのある人のコミュニケーション値を見ることができる。大体の人々はコミュニケーション値が25%以上、少なくとも20%以上ある。10%以下の人も中にはいたが、その人はアカウントを複数持っていて、コミュニケーション値の低いアカウントは半botのような使い方をしている。私の17.7%という数値はかなり低いほうだと言っても過言ではない。

 せいぜい調べたのは10件くらいなので、統計学的な観点からすればかなり調査数が少ない。統計学をかじった人間が聞いたら卒倒してしまうだろう。同居している人は救急車を呼べ。私も統計学をつまみ食いしたことがあるが、卒倒していない。

 このコミュニケーション率は年々悪化している。前見たときは20%くらいあった気がする。1回包容力の画像を送り付けまくってコミュニケーション率が上がった時があったが、包容力の画像を送り付けることがコミュニケーションになるはずがない。

 最近、相互フォローの方にbotや概念と言われることが多くなった。いやいや、人間だと思ったが、どうにも確証がないので試しにアンケートを取った。

  どうやら、約半数の人は私のことを人工知能だと思っているらしい。なるほど。そういえば心当たりがある。私が同じものを繰り返し繰り返し食べるのは、好きだからではなくおそらく学習のためなのかもしれないし、同じ場所に繰り返し行くのも、その場所が気に入っているからではなくまだ他の場所が構築されていないからなのかもしれない。本体は電解液の中に沈んでいるのだ。

 Twitterを始めたころはコミュニケーションを多くとっていた気がする。その頃のツイートを見ると私はその頃の自分を殺したくなる衝動に駆られるのだが、他の人と楽しく沢山喋っていた気がする。

 いつの間にかツイートの方向性が変わり、それとともにコミュニケーションも減った。どうやらみんなとは違うTwitterをしてしまっていたらしい。同じ広場にいたはずなのに、私だけ同じ名前の違う場所にいたのだ。

 人間らしくなるにはどうすればいいのか。あるフォロワーの方は「ご飯の画像をあげるといい」と言っていた。確かに、ファルコン・ランチという文とともに昼飯の画像を挙げている人は、bot的な喋り方しかしないが、人間味にあふれている。私もご飯の画像をあげてみようか、と考えてみたとたん、それこそ人工知能が人間らしいツイートを学習しているように見えてきて、悲しくなってしまった。電解液はゆらゆらと揺れている。

 他の人が言う通り、私が概念であるのならば、この先には何が広がっているのか。私の趣味の1つとして、小説を書くことが挙げられるが、最近は意味のあることを小説で書くのも馬鹿らしくなってきて、ひたすら意味のないことを書いてみようかと思っている。無意味は愛おしい。最近巷では正論が溢れすぎている。私は正論を見ないようにしているのだがRTで正論が流れてくる。人々は正論を求めている。社会や学校であった理不尽を正論にまぶして揚げて共感を得る。無意味は路地裏でひたすら震えるしかないのだろうか。

 私は無意味なことを呟き続ける。いつの間にか一緒に走ってた人はみんないなくなっていた。それでも無意味なことを呟き続ける。そのうち都市は壊れ、社会は過去のものとなる。それでも呟き続ける。もし、私が人間ではなく、他の存在だったら呟けるはずだ。あの時の人間性を、もし、始めたころの人間性を獲得できたのなら、その時はTwitterをクリアしたと考えてもいいだろう。

 人間は今日ラーメンを食べた。