コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

鉄塊を食べる

 ゴールデンウィーク、みなさんは何をしましたか。私は動いていました。皆さんは動いていますか? なぜ私たちは動くかわかりますか? そういう罰を受けているからです。

 まず、高速バスをつかって東京に向かった。普段はできるだけ安いバスに乗ろうとするのだが、バスを探し始めたのが遅かったため、やや値段の高いものしか残っていなかった。しかたなく、普段より数千円高いバスを使うことにした。数千円高いこともあって、いつも使っている4列のものではなく、3列独立シートだった。席は真ん中しか残っておらず、これは辛い辛い戦いになるな、高速バスで尻の肉が取れた人がいるらしいが、そういう場合どの病院に行くのが適切なのかなどと考えていたが、実際は思っていたよりも広々としていた。4列シートがみりん風調味料だとしたら、3列独立シートは本みりんである。こうして早朝、本みりんに乗って東京を目指した。

 数時間後東京に着いた。まずラーメンを食べることにし、適当に調べてお店に入った。ゴールデンウィークということもあり(もしくは人気店ということもあり)、そこそこ並んでいた。その店はざるチャーシューというつけ麺的なものが有名らしく、私もそれを頼むことにした。メニューで個性は出せないので、みなさん食べたいものを食べましょう。

 待つこと数分、ざるチャーシューがカウンターから現れた。つけ汁には想像の1.9倍ほどのチャーシューが盛られている。チャーシューというにはあまりにも大きすぎた。大きく、分厚く、重く、そして大雑把過ぎた。それは、正に鉄塊だった。

 鉄塊が邪魔をして麺の入る余地がないため、麺の入った皿に1つどかす。それでも皿は満員だったため、鉄塊を1口食べる。しっかり噛みごたえのある、王道の鉄塊である。つぎに麺をスープに浸して食べる。酸味が効いているサッパリしている。どんどん食べていくことにする。

 数分後、あまり麺が減っていないことに気付く。黙々と食べ続けるが、その間に大量のチャーシューを食べなければいけないため、双方からダメージを受ける。おそらく、デフォルトで麺が多いタイプの店なのだろう。以前の私なら大盛りにしていたが、今回は思いとどまった。戦うごとに成長している。

 死闘10数分、なんとか全て平らげることに成功した。もうラーメンはいいかなと考える。この考えは、ほとんどの場合覆されている。チャーシューも沢山あると暴力になるのだなと思う。暴力はチャーシューにはならないので、必要十分条件ではない。不思議なものである。

 その後ディスクユニオンをはしごし、13枚中古のCDを購入した。いくつか掘り出し物があったので来たかいがあった。さらにTSUTAYAに行きCDを10枚借りた。欲しいCDはあと70枚ほどあり、毎日少しずつ増えている。このまま増え続けると、欲しいCDを全て買うのにどれだけ時間がかかるのだろう。サグラダ・ファミリアができる頃、欲しいCDがもう無くなっているだろうか。私は生きているのだろうか。お前は生きているのだろうか。

サザエさんが消えた日

 私の実家では大体テレビがかかっている。実家に帰省するたびに、何らかの番組がリビングを賑やかしている。休日になると時代劇がずっと流れていて、大体1時間置きに誰かが斬られ、主人公たちが立ち上がり、悪を成敗している。

 ここ1,2年で若干実家のテレビ事情に変化が現れた。「サザエさん」を見なくなったのだ。実家暮らしをしていたときは、毎週必ずサザエさんが流れていた。しかし、ある時を境にサザエさんはリビングで流れなくなった。

 長年見ていた番組を急にやめてしまうこと理由が気になり、父に尋ねてみた。すると父は「同じパターンの繰り返しで飽きた」と言っていた。サザエさんってそういうものじゃないのか。そういうものが売りではないのか。

 確かにサザエさんは同じようなパターンになることが多い。更に数年間見続けていると、「あれ? この題材去年もやっていたな」と思うようになる。例えば、8月の後半の日曜日は大体カツオが宿題に追われている。変化に乏しい。

 しかし、その「変化の無さ」が「安定感」として、見る人々を安心させているのではないか。サザエがカツオを殺したり、タマが車に轢かれて死んだり、アナゴさんが突然ステップアップを求めて他の企業に転職したりすることは無い。無いと分かりきっているからこそ安心してみていられるのだ。そういうありえない展開はネットのパロディSSくらいで十分だ。

 サザエさんに変化を求めるのは酷である。パスタ専門店に来てパスタしかねえのか、ラーメンを食べさせろと言っているようなものだ。パスタ専門店はパスタが売りなのだから、フォークを使ってパスタを食べているのがあるべき姿なのである。

 よくよく考えてみれば時代劇も「変化の無さ」を指摘することができる。ある程度話のフォーマットは決まっているのが時代劇である。特にシリーズ物は顕著である。水戸黄門は代表例で、水戸光圀ご一行が人と出会い、人が持っている問題に直面し、解決しつつ悪を成敗して印籠を出すというパターンが繰り返されている。しかし、それらは見るものに余計な不安を感じさせない効果がある。

 サザエさんと時代劇、どちらも変化が少ないという弱点があるのに、どうして一方を好んで一方を嫌うのか、なぜ差別は生まれるのか、なぜ人は争うのか、なぜ我々は生きているのか、そして我々はどこに向かうのか。こういった疑問は数え切れないほどある。

 本棚に大量に積んだ疑問が全て解決し終わったとき、我々はどうなっているのだろうか。多分死んでんだろうな。そしてカツオはまた宿題をやらずに遊びに出かけて、波平に叱られているんだろうな。

地方都市の暮らし

 引っ越してから大体2か月が過ぎた、引っ越しの前後は胃腸がぐちゃぐちゃになり困り果てたものの、最近は生活にも慣れ、土地勘も増えたがその反面、遠くに行こうと思うことは少し減った。引っ越した直後は意味もなく遠いところに行ってみたりする。どこを行っても世界は新規で、実態はただの地方都市なのに輝いているように見える。しかし、日々を過ごすにつれて魔法は解けるので遠くまで行っても地方都市と町が続いているのが分かってしまう。その結果、行動範囲は狭くなる。

 それでも休日になるとどこかに出かけたくなる時がある。何かしら行く理由をつけて電車やバスに乗る。車は持っていない。家計が種火の車なので生活が苦しいということはないが、車を買うほどのお金はない。1か月ほど前に自転車を買ったことで、車はしばらく買わない、買えないという意思表示を自分でしてしまったのだ。可能性をどんどん狭めていくぞ。

 休日には近くのショッピングモールに行く。ショッピングモールやスーパーマーケットで流れる謎のインスト音楽にこのころ執着していて、あれは何のために生きているのだろうか、気づかれてなくてもいけないし気づかれすぎてもいけない音楽だけど、ブライアン・イーノの音楽などと違って高尚なものでもない。ああいうどこで生まれてどこで死んでいくのかわからない音楽は非常に気になる。

 高校生の時、休日をショッピングモールで過ごす人間はどれだけやることがないのだろうか、などと思っていたが、年をとった結果馬鹿にしていた人間になってしまった。高校生の時の私よ、お前は地方都市を転々としているぞ。地方都市について短歌の連作を作ってみたい。

 ショッピングモールで眼鏡を購入した。普段仕事用と休日用で眼鏡を分けているのだが、休日用の眼鏡が古くなったので、購入する機会をうかがっていた。眼鏡を1つだけ買ってそれを延々と使っている人のほうが多いかもしれないが、私は何個か所持したいと思っている。眼鏡をどんどん増やしていき、最終的に毎日変えられるくらいのバリエーションが欲しい。そういった話をすると怪訝な顔をされるが、服は毎日違うものを着るのにどうして眼鏡は一緒でいいのだろうか。もしかしたら、眼鏡をたくさん所持してどれが正解かを探しているのかもしれない。正解は堀込高樹(KIRINJI)と穂村弘とPUNPEEとtofubeatsしかいない。他はみんな不正解だ。世界には不正解の人間がたくさん歩いているし、私の部屋の中には不正解の人間が暮らしている。不正解の人間が地方都市を作っているのだ。

 家に帰宅してから、カレーライスを作った。私はドロドロのカレーライスが好きなので、ひたすら執拗にしつこくぐつぐつとドロドロになるまでカレーを煮込み続ける。大体n分(nは自然数)くらい煮込む。基本的に日々は制限されるので、カレーライスくらい自由に作らせてほしい。

短歌(321~330)

 最近作った短歌のコーナーです。

 Twitterやネットの短歌投稿サイトにしか短歌を設置していないので、もう少し他の場所にも設置したいなと考えている。しかし、やりたいことは多く、読書もしたければ曲つくりにも挑戦してみたいし、イラストも描いてみたい。やりたいことにそれぞれ別方向から体を引っ張られるせいで、見る見るうちに体は分解し、今は左腕でブログを書きつつ足でチャーハンを作り、右腕はお風呂に入っている。

 最近作った短歌のコーナーです。

 Twitterに設置した短歌10首である。気に入ったものがあったらうれしい。

 最近作った短歌のコーナーです。

 

【321~330】

悪性の恋が発見されました既に3か所転移してます

 

第3位「ワンワンワワンワンワワン」 なるほどこれは許せませんね

 

シースルーの餅をまとった丸見えの餡子が夜と交じるのを見る

 

海鳴りを迎えに行こう沢山の青い果実を心に詰めて

 

まだ2歳なのに賢いお子さんねバイトリーダー間違いなしよ

 

毒リンゴ食べてしまった姫たちよ残業時間を気にせず眠れ

 

我々の未来を担う桃の子がテトラポッドに阻まれて死ぬ

 

死ぬためのタイムカードは押されたがまだ出ないまま朝礼がくる

 

いい気味だ世界がみんなまるくなりひなたぼっこなんかしてやがる

 

僕たちはニコニコ動画に捨てられたコメントに似たスピードで死ぬ

 

 

 次回もよろしくお願いします。

『Death Peak』から下山して(Clark『Death Peak』レビュー)

 音楽を聴くことが好きな人々の大半には、1番好きなアーティストという概念が存在している。

 そのアーティストが新しいアルバムをリリースしたとなれば、早くCDを買うなりどこかで借りるなりして聴こうと落ち着かなくなることもあるだろう。今回はどんな曲を聴かせてくれるのか、どう変わったのか、様々な期待が脳を駆け巡る。しかし、1番好きなアーティストとだけあって、もしリリースされたアルバムが自身の音楽的ツボにはまらなかったらどうしようかという一抹の不安もある。そうした期待と不安の中で我々はCDを開封し、最初の音を出すのである。 

 私が最も好きなアーティスト、Clarkが4月7日にアルバム『Death Peak』をリリースした。通算8枚目のアルバムである。

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 Clarkはイギリスのミュージシャンである。ジャンルで言うならばエレクトロニカになるだろう。Warp Recordsという、エレクトロニカ・テクノ界隈ではもっとも有名なレーベルに所属している。

 この男のすごいところは、アルバムごとに作風をどんどん変化させていくところであうる。ファーストアルバムの『Clarence Park』では美しい音と無邪気なビートが両立されていて、『Empty The Bones Of You』では無邪気さは抑え気味だったが緻密な電子音で我々を魅了し、『Body Riddle』では生音と電子音の融合を行った。

 4thアルバムである『Turning Dragon』では一転して攻撃的なダンストラックを並べ、『Totems Flare』では素直に踊れないビートと忙しないメロディを我々に叩き込んだ。6thアルバムである『Iradelphic』はまた作風を変え、生音を再び全面的に導入し、ノスタルジーと悪夢の間を我々に見せた。7thアルバムの『Clark』では、今までのアルバムの総決算的な内容とドラマチックさを持って我々の耳に飛び込んだ。Clarkは常に予想を裏切り、超えていくアーティストであった。

 そして、8thアルバムである『Death Peak』である。Clarkはどんな手を使って我々の予想を裏切ってくるのか。ネットにアップされた記事などを見ていると、『声』を全面的に使っているらしい。Clarkはインタビューで人の声を「もっとも完璧なシンセ」と評している。声を素材にした曲は今までに存在したが、今回Clarkは声を「シンセ」と評している。どういったことなのか。手に入れるまで謎は深まるばかりだった。

 私は、手に入れる前にどういったアルバムなのか予想することにした。自らの顔がくしゃくしゃになったジャケット。「顔の加工」という点では、前作の「Clark」と似ている。

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 こちらが前作『Clark』のジャケットである。

 そして、先行公開された"Peak Magnetic"を聴く。前作とは音の質感が異なるが、4つ打ちのビートの曲である。私は、『Death Peak』が前作の発展的なアルバムではないかと予想した。

 そうして4月10日、リリース日から遅れて3日後にアルバムは届いたのだ。

  急いでCDを取り出し、パソコンに入れ、聴いてみる。どんな音を出すだろうか……。

"Spring But Dark"は、1分程度の、アルバムのオープニングを告げる曲である。おお、最初に短い曲を持ってくるのは前作と同じだな、などと思いながら次の曲"Butterfly Prowler"に入る。ここで、声がどのように使われているか、Clarkが何を言いたかったのか、おぼろげながら分かってくる。言語やループ素材、アクセントとしての声ではない。4つ打ちのビートが敷かれた上を、声が音を纏って溶け込んでくるのだ。"Peak Magnetic"ではダイナミックなメロディと声が我々を覆う。

 一転して4曲目の"Hoova"、5曲目の"Slap Drones”では不穏な雰囲気の中、ときおり攻撃的な音が嵐のように我々に襲い掛かる。その嵐が静まり、一瞬の穏やかさのようなアンビエント曲"Aftermath"が流れる。それが終わるといよいよアルバムも終盤である。"Catastrophe Anthem"、"Living Fantasy"が荘厳さを持った声とともに現れ、クライマックスが近いことを知らせる。

 そして、最後の曲"Un U.K."に到達する瞬間、我々は死の山頂の最も近いところを登っていることに気が付く。初めは4つ打ちのビートとともに比較的穏やかに進むが、徐々にメロディが我々の周りをうねり始める。そして、何かがきしむような音を境にして、突如死の山頂は荒れ、音の風が鼓膜の中を、全てを破壊するかのように吹きすさんでいく。一瞬の静寂が訪れたのも束の間、再び死が音となって、我々を食らい尽そうとする。その中を1秒、1秒と進んでいくと、不意に音が途切れる。それ『Death Peak』に辿り着いたことを意味する。その瞬間、荘厳な音が光とともに現れるのだ。その時の音こそ、『Death Peak』から見える風景を表していると言っていいだろう。

 輸入盤はそこで終わるが、日本盤にはボーナストラックがついている。正直、ボーナストラックは最後の荘厳さを吹き飛ばしかねないので、無くてもいいかなと思った。それほど"Un U.K."は素晴らしい曲である。10分を超える曲だが飽きを感じさせない。

 

 個人的に好みの曲が多いアルバムは『Totems Flare』である。これは『Death Peak』を聴いても変わらない。しかし、アルバム全体としての完成度は『Death Peak』が1番だと個人的に思う。このアルバムにはClark史上、最も壮大で荘厳な展開が存在している。見事に予想は裏切られた。

 さて、このアルバムの後、Clarkはどのようなアルバムをリリースしてくれるのだろか。それが1年後か、3年後か5年後か、それとももっと先かは分からない。それでも、次のアルバムが、また我々の予想を大きく超えるものになることは容易に予想がつく。それまで我々は、アルバムといういくつもの山を何度も登ることになるだろう。

fugitive

 好きだからこそ、ひたすらに待つ。もう会わなくなる最後の最後まで、ただただ待ち続ける。

 私は高校3年間の間、好きな人がこの場所に来るのを待っていた。正門から校舎へ向かう道を少しずれたところにある、昔の卒業生たちが記念に植えた桜の木の下。そこで3年間、学校のある時は待ち続けた。

 好きな人とは1年生と3年生の時に同じクラスだった。彼はクラスで目立つタイプではなかったけど、私には彼がとても特別な人のような気がした。いつ誰と話しても落ち着いた語り口で、穏やかに笑っている。そんな彼が持つ暖色の明かりのような雰囲気を、私は好きになった。

 彼は吹奏楽部でトロンボーンを担当していた。私はトロンボーンについてほとんど分からないし、彼がトロンボーンを吹いている姿を見たことはないけれど、彼が吹いているのだからきっと良い音色を聴かせてくれるのだろうし、吹いている姿だって恰好良いのだろう。

 そんな彼と、私はほとんど喋ったことがない。彼の仕草に惹かれれば惹かれるほど、私は近づくのが怖くなってしまった。ふらふらと火に近づけば、きっと私は焼き殺されてしまう。そんな気がしていた。彼と一緒になろうと行動を起こす気になんてなれなかった。

 だから私は偶然に運命を委ねることにした。桜の木の下で彼が来るのを待ち続けて、彼がここを通りかかったときに想いを伝えることにした。その事を決意してから、私は学校のある日は必ず木の下で彼を待っていた。授業が始まる前と昼休みと放課後、ひたすらに私は待ち続けた。普段あまり人が通らないところだったけど、たまに通った生徒や先生は、桜の下でたたずんでいる私のことを不審そうに見ていた。友達に、休み時間どこに行ってるのと尋ねられたりもしたが、私は適当にごまかした。もう止めようかなと何度も思ったけど、もし明日彼がこの木の下を通ったらと考えると、止めることはできなかった。

 そうして桜の下で待ち続けて、とうとう卒業の日になった。卒業式を終え、クラスで写真を撮ったり、高校生活最後のたわいないお喋りを続ける中、私は桜の木の下に急いだ。桜の下に着いた直後、彼が遠くから歩いてくるのが見えた。ついに、彼が桜の木ににやってくる。夢にまで待ちわびた瞬間が、最後の最後で私を迎えに来てくれたのだ。彼は友達と少しずつ少しずつ、こちらに向かってきて、そして、立ち止まった。私まであと30m。彼は何かを思い出したような顔をして、元来た道を引き返してしまった。彼は少しずつ点になって消えていった。

 その後、校舎から活気が消えて、外が薄暗くなるまで待っていたが、彼が来ることはなかった。街灯の明かりが灯った時、私は全てが終わったことを理解した。

 家に帰る途中、街灯の周りを虫が1匹、必死に飛び回っているのを見た。私は制服のスカーフが重くなっていくのを感じながら、家路を急いだ。

fugitive

 引っ越しというイベントを皆さんはご存知であろうか。土地勘Aのセーブデータを消去して、新しいセーブデータでプレイするゲームのことを指す。

 先日、引っ越しを行った。引っ越しには様々な理由があり、進学、就職、転勤、前の土地で嫌なことがあった、夜逃げ、罪からの逃亡、指名手配を受けているため土地を転々としなければならないなどが主なものとして挙げられる。

 今回の引っ越しによりやっとこさ海のある県に行くことができた。生まれは海なし県、その後引っ越した県も海なし県と、島国日本にあるまじき移動具合であった。海に入るまでに20年ほど時間がかかったのも、両親が海の存在を知らなかったためである。

 そんな海とは無縁の私であったが、引っ越しにより自転車で20分弱のところに海が存在するようになった。ちなみに日本海である。くるりの『THE PIER』というアルバムに、『日本海』という曲がある。アルバムの2曲目であり、1曲目の『2034』の打ち込みサウンドを上手く引き継いだ、デジタル歌謡曲といった趣のある曲である。ぜひ借りたり買ったりするといいと思う。

 引っ越し自体は知らない土地をうろちょろできるので良いイベントなのだが、肉体的にはかなりの負担になるらしく、引っ越しの前後では体調が悪くなる。前回は1か月ほど頭痛に悩まされた。今回は腹痛である。

 引っ越しの1週間前ほどから時々お腹が痛むようになった。引っ越し前に体調を崩しては大変だと思い、大事を取って私は二郎系ラーメンを食べに行くことにした。その結果、翌日下痢気味になった。胃腸の調子が悪い時に二郎系のラーメンは食べるべきではない。勉強になった。

 その数日後、麻雀の大会を行った。不思議とマージャンに集中している間はおなかの調子も良かった。回復傾向にあっても油断をしてはいけないと思い、その夜アルコールと大量の唐揚げを摂取した。その結果、翌日胃腸は滅茶苦茶になった。トイレに出たり入ったり出たり入ったりする羽目になった。胃腸の調子が悪い時にアルコールと油ものは食べるべきでない。勉強になった。

 引っ越しが近づくにつれトイレも近くなり、胃腸の調子はぐちゃぐちゃになった。引っ越し当日が1番最悪で、まず朝起きてトイレに行き、最寄り駅についてトイレに行き、新幹線のある駅に着いてトイレに行き、新幹線の中でもトイレに行きと、休符のごとくトイレに行った。引っ越し先につくと多少胃腸の調子は良くなったが、それでも頻繁にトイレに行っていた。引っ越した後も色々忙しいのにこの体調ではどうにもならない、どうにかしなければ、そう思って翌日、私は友人と居酒屋に行ってアルコールを摂取し、馬の生レバーを食べた。その結果、胃腸の調子はどんどん回復し、今はなんともない。

 何でだよ。