コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

芸術家タイプなんてごまかさずに社会不適合者と正直に言ってくれ

 地方都市で生きている人間からすると、東京は全てがある場所のように見えてしまう。地方都市には最低限が存在するが、それ以上は見つからない。何かを見つけるためには、東京に行くしかない。なんだかんだ言って、東京が1番良いに決まっている。地方都市についての短歌の連作を作ろうと考え始めている。

 先週東京に行く用事があった。私の仕事はブログを読んでいればお分かりのように、食パン専門の耳鼻科である。学会が東京で行われるため、新幹線で東京へ向かった。

 学会に出席し、偉い人の話を半永久的に聞いた後、懇親会に参加する。食パン専門の神経科なども将来作られるかもしれませんねなどと適当に喋り、その後ビジネスホテルに泊まる。ビジネスホテルでは眠るまで通販番組を見ている。通販番組ほど何も考えずに見ることのできる番組はない。最近は青汁がすごいらしい。人間もすごいんだぞ。

 翌日はタワレコに行った。気になっているアルバムを買った。特に話す相手はいない。

 その後渋谷の中古CDショップに行った。大量のCDが所狭しと並べられていて、思わず圧倒されてしまう。何時間も掘り続けないといけないなと思ったが、友人と一緒だったので急いで欲しいアルバムを5枚ほど見つけて購入する。今後何回か通わなければいけないなと感じた。欲しいCDを掘り当てるのは楽しい。いつまでも時間をつぶすことができるだろう。

 その後は高円寺あたりをふらふらしていた。根がサブカルなので、そういう場所をふらふらするのは楽しい。そういった空気感で一生生活できればと思うのだが、お金が無いとどうにもこうにもならないので、好きな空間で深呼吸をしたあと、息を止めて働く。環境には不満がないが、仕事や社会という概念と適合しないのでどうにもならない。適職診断でずっと芸術家タイプと言われた人間の成れの果てだ。芸術家タイプの皆さん、一緒に村を作りませんか?

 友人たちとお酒を飲む機会があった。そこで「宗教にはまりそう」と言われてしまう。確かにと思ってしまう。常に救われたいと思っているし、救われるために何かに取り組んでいる。最近は短歌だ。単価が宗教に置き換わってしまうことだってあり得る。というよりも、短歌を宗教として崇めているのかもしれない。なんとなく救われたいという気持ちを抱きながら、短歌を作ったり文章を書いたりTwitterで無意味を生み出したりしている。生活が終わっているわけでもないのに救われたいのは甘えなのだろうか。弱い人間である。なんとなく救われたい人、一緒に宗教を立ち上げませんか? あ、最近大川隆法に似た人を街中で見かけました。

短歌(341~350)

 今年はシンプルに暴力が流行る。

 短歌の時間です。心に引っかかるものがあれば幸いである。暴力まんじゅうとか暴力をモチーフにしたゆるキャラ、ボウちゃんとか、色々考えている。

 今年こそ暴力が流行る。

 

【341~350】

お化粧と色とりどりの服を着て美しいまま捨てられるゴミ

 

ゴミ袋を抱えてどこまでも逃げる正しい星に居場所などない

 

青春の死にぞこないが僕たちをイオンモールに連れていく夏

 

アパートの隅に転がる死にたいを今日こそ捨てに行く たぶん行く

 

猫背にも異なる種類があることを教えるために行くブックオフ

 

スーパーの半額になったパック寿司だけが人生全てなんだよ

 

暮れていった奴にさよならを送ろう タバコはきっと夜でも吸える

 

きっと俺は東京スカイツリーラインという名前を許せずに死ぬ

 

ものすごい先輩風で髪型がおかしくなって笑ったふたり

 

暮れなずんでばかりの町を逃げ出す日 夜は夜だから好きになれない

 

 

 次回もよろしくお願いします。

読書感想文その13

 本を最近また読み始めた。1日の大半を水中で過ごしているので、たまに外に顔を出したくなる。その役目を担っているのが趣味であり、読書なのだ。

 色々な知識を頬張って、何かしらにアウトプットすればいずれ救われるかもしれない。そんなことを思いながら日々生きている。私は短歌や小説を時々詠んだり書いたりしているのだが、それらを作る大きな理由の1つとして、一生に一度くらいはものすごいものができて、その時魂は救われるのではないかと考えているからだ。社会に不満は抱いていないけれど、何かしらのぼんやりとした不安がいつもつきまとっている。そういう不安に打ち勝つために、何かしら訳のわからないものを作っているのだ。

 前置きが長くなったが、読書感想文のコーナーである。

 

石黒圭『語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング』 (光文社新書

語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング (光文社新書)

語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング (光文社新書)

 

 皆さんは自分のことを語彙力があると思いますか? 私はあれがやばいのでこれになってしまう。さすがにこれになるのはやばいと思い、なんか紙束がいっぱい売ってるところでそれを買って読むことにした。結果、やばいことが書いてありやばいと思った。

 著者の石黒氏は語彙力を、語彙の量(豊富な語彙知識)×語彙の質(精度の高い語彙運用)と定義していて、どちらに偏ってもいけないと述べている。確かに語彙力を鍛えようとしてたくさん言葉を覚えたとしても、使い方が悪ければ宝の持ち腐れになってしまう。時と場所と状況を考えた使い方をしなければならない。

 また、書き言葉と話し言葉の違いについて書かれていた部分は興味をそそられた。これは語彙の質にかかわってくるだろう。確かに、書き言葉には適しているが、話し言葉には適さないものもたくさんある。

 石黒氏は語彙を様々な切り口から紹介している。語彙を増やすためにはどうすればいいか、言葉を使うときどこに気を付ければいいかなど、日本語をしっかり使うためのヒントを我々に与えてくれている。最近の社会的背景と語彙を照らし合わせている場面もある。

 この本を読んだからと言って、語彙力が豊富になるわけではない。しかし、語彙力と日本語について考える良い機会になる。この本を読み、語彙について意識して書く/話すだけでもかなり違うと思う。私自身も語彙力があるほうではないので、これから語彙力を適したやり方で鍛えていきたいと思う。やみくもに鍛えてもあまり効果がない。これは筋トレと同じだと思う。

 

穂村弘『整形前夜』(講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)

 

 サバンナのぞうのうんこに心情を吐露することでおなじみ、穂村氏によるエッセイである。ちなみにタイトルになっている『整形前夜』 は、「整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながらウサギの尻に挿すアスピリン」という短歌が元らしい。ノーマ・ジーンとは20世紀を代表するセックスシンボルである、マリリン・モンローの本名である。

 穂村氏のエッセイは、自意識と世界のズレを書いたものが多い。理想の自分に憧れつつも、なかなか行動に移せない、それでも理想を捨てられずに生きる人間の叫びのようなものだ。結果として、短歌で成功した(成功とは何か?)ので、自意識はある程度報われているし、結婚もしている。自意識過剰な人間は私も含めてこの世にたくさんいるが、何か行動しないと報われないのだ。これは報われた先輩のエッセイである。先輩に続け。

 この本の1番興味深い部分は、穂村氏の考え(思想)がはっきりと主張されているところである。我々は世界を「生き延びる」必要があり、「生き延びる」ためには「用」「役に立つ」「なくては困る」ものに目を向けていなければならない。しかし、穂村氏は「不要」「役に立たない」「なくても困らない」ものの重要性を説き、それらに目や耳が向かなければ「生きている意味がない」と感じている。

 意味だらけの世界は疲れるし、できれば私も無意味をとことん愛したい。しかし、社会は無意味を認めてくれない。意味に必死にしがみつきながら、半ば社会に対する反抗として、意味のないツイートをしてみたり、短歌やブログを書いたりする。こういうことをやっていると適性検査などで「芸術家タイプ」と書かれ、社会に適合しないことが示される。

 また、もう1つ興味深かったのが「共感」と「驚異」について書かれた3つのエッセイである。穂村氏は詩や俳句や短歌が読まれづらい理由として、「わからない」からだと述べている。そして、今の読者は「わからない」という「驚異」よりも、「泣ける」「笑える」という「共感」を求めていると主張する。よくあるパターンとして、若い表現者は「驚異」を求めるが、年をとるにつれ過去の重みが増し、「驚異」から「共感」に移行する。しかし、最近は若者たちが「共感」よりにシフトしている。「ありのままでいい」「しあわせは自分の心が決める」など、普遍的な言葉が若い人々の共感を読んでいる。その世界を穂村氏は危惧している。

 「共感」とは意味ではないか、と私は考える。意味のある言葉たちが沢山の人々の心を掴む。一目で意味が分かるものが好まれている結果、分からないものは分からないまま処理されているのではないか。個人的には、今の人々は分からないものを「シュール」という言葉にとりあえずカテゴライズしているような気がする。そういった使いやすい言葉に分からないものを詰め込んだ結果、その引き出しは壊れ、永遠に開けることができなくなるのではと、私は恐れを抱いている。

 私にとって『整形前夜』は、読んでクスリとできるエッセイというよりも、意味との闘いに立ち上がらせてくれるための気つけ薬のように思えるのだ。

須藤元気の近況について教えてください

 こんにちは。皆さんは元気ですか。元気ですか。元気なのは良いことです。そういえば最近須藤元気って何をしてるんですかね? 全国375人の須藤元気ファンの皆さん、須藤元気の最近について教えてください。

 

 最近風邪(?)を引いた。風邪かどうかは病院に行っていないのでわからない。しかし、体調がハチャメチャになっていたので、何らかの病気になっていた可能性は高い。あんな病気やこんな病気、さまざまな病気が考えられる。一人一人オリジナルの病気を付けて、私をおかしな状態にしていきましょう。

 金曜日くらいからリアルタイムで体調が悪くなっていった。久しぶりに立っているのも辛い状態になってしまったので、缶蹴りをしている人々の缶を中身が入った状態にする仕事もままならない。それでも歩合制なので、近所の公園を回っては缶蹴りの缶を中身入りに変えていった。その後会社に戻り、日報と今日すり替えた缶の数を上司に報告したが声を出すのも厳しい状態だった。

 なんとか自宅まで帰り、そのままウォークインスリープを行った。しかし熱があったため寝つきが悪く2、3時間くらいで起きてしまう。くらくらしながら冷蔵庫を開けて石油を飲んでもう1回寝る。そして2、3時間で起きてしまう。それを繰り返しながら朝を迎える。

 

暗がりを走る 君が見てるから

でもいない君も僕も

 

最終バス乗り過ごしてもう君に会えない

あんなに近づいたのに遠くなってゆく

だけどこんなに胸が痛むのは

何の花に例えられましょう

ジンジャーエール買って飲んだ

こんな味だったっけな

ジンジャーエール買って飲んだ

こんな味だったっけな

安心な僕らは旅に出ようぜ

思い切り泣いたり笑ったりしようぜ

 

 

 

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 このくだり前にもやったことがあるぞ。

 朝になっても全く症状は改善されず、ボロボロの状態のまま、雨の街を歩いていく。会社の会議があったからだ。缶のすり替え方に関してもっと効率化できないかという話し合いだった。朦朧としながら話を聞く。指を無限に詰めることができる「無限エンコ」というおもちゃがあったら、ヴィレッジヴァンガードとかでそこそこ売れるのではなどと考えながらなんとか会議を終えそのまま家に帰る。

 適当にネットサーフィンをしていたが頭がウーになったのでそのまま寝る。やはり2、3時間で起きてしまい仕方なくプリンとポカリスエットを飲む。寝る。すぐ起きる。ポカリを飲む。寝る。すぐ起きる。なぜか途中から肩こりがひどくなる。なぜ死にそうな思いをしてまで寝なければならないのか。もう2日間で合計20時間近く寝ている。もう寝れない。しかし寝なければ体調がよくならない。こういったもやもやでうなされながら朝を迎える。

 

暗がりを走る 君が見てるから

 

 2回目なのでカットすることができる。8時くらいに起きると、なぜか全てが救われたような気がした。体も軽い。肩こりもない。熱も出ていない。救われたのだ。救われたので冷蔵庫を開けてプリンを食べた。プリンは救われていても救われていなくてもおいしい。

 人間、体調を崩したら睡眠をひたすらとるしかない。それか宗教だ。

短歌(331~340)

 不定期でお送りする短歌の時間です。今回もTwitterに投稿した10首の短歌が並べられていきます。好きなものがあると嬉しいです。うれしいです。ウレシイデス。嬉しいとは一体……?

 

【331~340】

サラダバー 嫌いなものをご自由に取れだと俺に死ねと言うのか

 

しりとりの続きはりんご僕たちはおんなじ未来しか話せない

 

この俺の生きた軌跡がいくつかのフリー素材で再現される

 

僕がただ過ごしてしまった今日でさえ1秒ごとに動く点P

 

あさぼらけ地方都市にはゴミの日とそれを忘れる僕だけがいる

 

僕だけのオーケストラが奏で出すメジャーコードの行けたら行くわ

 

隠された上履きが倉庫の隅で抱き合いながら眠る夕暮れ

 

最高のメンバーを紹介するぜ! まず俺次に俺そして俺だ!!

 

真夜中を背負って帰る電気代が全く増えない人に幸あれ

 

いつだって死ねるんだからもう少し、不燃ごみの日までは生きよう

 

 

 

 次回もよろしくお願いします。

鉄塊を食べる

 ゴールデンウィーク、みなさんは何をしましたか。私は動いていました。皆さんは動いていますか? なぜ私たちは動くかわかりますか? そういう罰を受けているからです。

 まず、高速バスをつかって東京に向かった。普段はできるだけ安いバスに乗ろうとするのだが、バスを探し始めたのが遅かったため、やや値段の高いものしか残っていなかった。しかたなく、普段より数千円高いバスを使うことにした。数千円高いこともあって、いつも使っている4列のものではなく、3列独立シートだった。席は真ん中しか残っておらず、これは辛い辛い戦いになるな、高速バスで尻の肉が取れた人がいるらしいが、そういう場合どの病院に行くのが適切なのかなどと考えていたが、実際は思っていたよりも広々としていた。4列シートがみりん風調味料だとしたら、3列独立シートは本みりんである。こうして早朝、本みりんに乗って東京を目指した。

 数時間後東京に着いた。まずラーメンを食べることにし、適当に調べてお店に入った。ゴールデンウィークということもあり(もしくは人気店ということもあり)、そこそこ並んでいた。その店はざるチャーシューというつけ麺的なものが有名らしく、私もそれを頼むことにした。メニューで個性は出せないので、みなさん食べたいものを食べましょう。

 待つこと数分、ざるチャーシューがカウンターから現れた。つけ汁には想像の1.9倍ほどのチャーシューが盛られている。チャーシューというにはあまりにも大きすぎた。大きく、分厚く、重く、そして大雑把過ぎた。それは、正に鉄塊だった。

 鉄塊が邪魔をして麺の入る余地がないため、麺の入った皿に1つどかす。それでも皿は満員だったため、鉄塊を1口食べる。しっかり噛みごたえのある、王道の鉄塊である。つぎに麺をスープに浸して食べる。酸味が効いているサッパリしている。どんどん食べていくことにする。

 数分後、あまり麺が減っていないことに気付く。黙々と食べ続けるが、その間に大量のチャーシューを食べなければいけないため、双方からダメージを受ける。おそらく、デフォルトで麺が多いタイプの店なのだろう。以前の私なら大盛りにしていたが、今回は思いとどまった。戦うごとに成長している。

 死闘10数分、なんとか全て平らげることに成功した。もうラーメンはいいかなと考える。この考えは、ほとんどの場合覆されている。チャーシューも沢山あると暴力になるのだなと思う。暴力はチャーシューにはならないので、必要十分条件ではない。不思議なものである。

 その後ディスクユニオンをはしごし、13枚中古のCDを購入した。いくつか掘り出し物があったので来たかいがあった。さらにTSUTAYAに行きCDを10枚借りた。欲しいCDはあと70枚ほどあり、毎日少しずつ増えている。このまま増え続けると、欲しいCDを全て買うのにどれだけ時間がかかるのだろう。サグラダ・ファミリアができる頃、欲しいCDがもう無くなっているだろうか。私は生きているのだろうか。お前は生きているのだろうか。

サザエさんが消えた日

 私の実家では大体テレビがかかっている。実家に帰省するたびに、何らかの番組がリビングを賑やかしている。休日になると時代劇がずっと流れていて、大体1時間置きに誰かが斬られ、主人公たちが立ち上がり、悪を成敗している。

 ここ1,2年で若干実家のテレビ事情に変化が現れた。「サザエさん」を見なくなったのだ。実家暮らしをしていたときは、毎週必ずサザエさんが流れていた。しかし、ある時を境にサザエさんはリビングで流れなくなった。

 長年見ていた番組を急にやめてしまうこと理由が気になり、父に尋ねてみた。すると父は「同じパターンの繰り返しで飽きた」と言っていた。サザエさんってそういうものじゃないのか。そういうものが売りではないのか。

 確かにサザエさんは同じようなパターンになることが多い。更に数年間見続けていると、「あれ? この題材去年もやっていたな」と思うようになる。例えば、8月の後半の日曜日は大体カツオが宿題に追われている。変化に乏しい。

 しかし、その「変化の無さ」が「安定感」として、見る人々を安心させているのではないか。サザエがカツオを殺したり、タマが車に轢かれて死んだり、アナゴさんが突然ステップアップを求めて他の企業に転職したりすることは無い。無いと分かりきっているからこそ安心してみていられるのだ。そういうありえない展開はネットのパロディSSくらいで十分だ。

 サザエさんに変化を求めるのは酷である。パスタ専門店に来てパスタしかねえのか、ラーメンを食べさせろと言っているようなものだ。パスタ専門店はパスタが売りなのだから、フォークを使ってパスタを食べているのがあるべき姿なのである。

 よくよく考えてみれば時代劇も「変化の無さ」を指摘することができる。ある程度話のフォーマットは決まっているのが時代劇である。特にシリーズ物は顕著である。水戸黄門は代表例で、水戸光圀ご一行が人と出会い、人が持っている問題に直面し、解決しつつ悪を成敗して印籠を出すというパターンが繰り返されている。しかし、それらは見るものに余計な不安を感じさせない効果がある。

 サザエさんと時代劇、どちらも変化が少ないという弱点があるのに、どうして一方を好んで一方を嫌うのか、なぜ差別は生まれるのか、なぜ人は争うのか、なぜ我々は生きているのか、そして我々はどこに向かうのか。こういった疑問は数え切れないほどある。

 本棚に大量に積んだ疑問が全て解決し終わったとき、我々はどうなっているのだろうか。多分死んでんだろうな。そしてカツオはまた宿題をやらずに遊びに出かけて、波平に叱られているんだろうな。