コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

ナイス害『フラッシュバックに勝つる』(2018年に読んだ本・冊子)

 人は良い思い出と嫌な思い出を混ぜこぜに積み上げながら生きていく。積み上げたものに光が差したとき、見えるのはいつも嫌な思い出である。

 良い思い出はふとした瞬間に思い出すことが無いように思える。ふわふわすべすべしていて、暖かい思い出たちは心に置いておくと、いつの間にか無くなったように感じる。これは、良い思い出が心地よいものであるため、異物として感じられないからだろう。

 反対に、嫌な思い出はふとした瞬間に蘇る。とげとげした嫌な思い出たちは、ふとした瞬間寝返りを打って、私たちの心に食い込んでくる。そして思い出してしまう。俗に言うフラッシュバックだ。

 どんなに規則正しく足を進ませていても、一度フラッシュバックを起こすと、途端に歩き方はおかしくなり、スピードも遅くなる。

 

ナイス害『フラッシュバックに勝つる』

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『フラッシュバックに勝つる』は、ナイス害(敬称略)による歌集である。作者はなんたる星と言うネットを活動の中心にしている短歌結社の一員であり、大喜利アサラトという民族楽器が好きらしい。一時期私は『大喜利PHP』というネット大喜利のサイトに出入りしていたのだが、そこで見かけたことがある。

 この歌集は去年秋に東京で行われた文学フリマで購入した。代金を渡すときにお金が袖の中に落ちてしまい、「マジシャンみたいですね」と言われたのを覚えている。ありがたいことに私を存じてくれていて、文フリの会場内で本人と挨拶をした。動揺してしまった私はあ行しか喋ることができなかった。

 その後、今年のゴールデンウィークに批評会も行われたのだが、当日は文学フリマがあり、参加できなかった。

 

 タイトルを見ていくと、『フラッシュバックに勝つる』の『勝つる』に目がいく。最近行われていた作者によるキャスでも触れられていたが、『勝つる』はネットスラングだ。しかも、少し前のものである。勝つるという単語を見た瞬間、2010年あたりのインターネットを少し思い出した。フラッシュバックと言う、突然過去のものを思い出す行為に、勝つるという過去のインターネットスラングを用いることで、意識を少しだけ過去に向けようとしているのかもしれない。

 表紙にも目を向けてみる。女性たちが裏表紙も含め総勢7人登場している。輪郭や髪形、服装ははっきりしているのに、顔は乱暴に塗りつぶされている。フラッシュバックに勝つためには、まずあの時の雰囲気を鮮明に再現してしまうであろう、相手の表情を記憶から塗り潰さなければならないのだろうか。

 本歌集では15の連作が載っている。そのうち最後の4つは少し実験的で、女性同士の会話を挟んでみたり、進化した単語を良い声で返す、お笑いコンビのコロコロチキチキペッパーズナダルが特技としている『ナダルリバースレボリューション』をやってみたり、音楽的手法のブレイクビーツを短歌で行ったりしている。作者のサービス精神の旺盛さと短歌で何か違うことをやってみようとする好奇心が見える。

 

 この歌集の中から好きだった歌を3つ取り出してみる。

 

【1】

逃げなさい思い出達よ逃げなさい素敵な人が現れたのよ

(『チュッパチャップスを上手に剥く人』) 

 

 1回読んで、「歌謡曲っぽいな」と感じた。こんな歌詞を誰か歌っていたような気がするが、気のせいだろう。

 主体が生活をしていると、どういった経路を通じてかは分からないが、素敵な人が現れる。素敵な人が現れた時に、一定の人は素敵な人という、前方にある存在にのみ視線が向くと思う。しかし、この主体は後ろを向く。そして後ろにいる思い出達に「逃げなさい」と呼びかける。

 この呼びかけは、言葉だけ見ると柔らかいが、実際はかなり切羽詰まっているのではないだろうか。逃げなさいと1回言う。思い出たちは逃げない。もう一度逃げなさいと言う。それでも思い出は逃げようとしない。最後のダメ押しで、「素敵な人が現れたのよ」と言う。もう思い出達 = 後ろを向いてしまう自分への説得、懇願のように見えてくる。何回も読んでいるうちに、主体が小さく、弱くなっていくように思える。

 

【2】

プロポーズふざけてされたもんだからあれからずっと空洞でした

(『害来たりなば』)

 

 プロポーズというのは、1人に対して基本的に1回しか使うことができない。だからこそ、人々は色々と頭を悩ませながら、プロポーズの最適解を探すことになる。

 主体もプロポーズを受けたらしい。しかし、主体にとってそのプロポーズは「ふざけてされた」ように感じた。相手のプロポーズがどんなものだったのかは分からないのが、この歌の1つめの良いところだ。読み手の頭の中に「ふざけたプロポーズ」を思い起こさせる。ここで、プロポーズをした相手を擁護しておくと、相手は最適解だと思ったのかもしれない。しかし、主体は「ふざけた」ものだと思ってしまった。プロポーズをする/される間柄なのに、とてつもない断絶が生じている。

 そして、「空洞」。空洞がかなり効いている。「最悪」や「灰色」ではなく、「空洞」、つまり何も主体に残っていないのだ。プロポーズをふざけてされたことによって、相手への信頼が自分の中から消えていく。すると主体は空洞になる。主体の中は相手で満たされていたことに気づく。しかし、それが満たされることは再び無いはずだ。とりかえしのつかない断絶が生じている。

 

【3】

 あぬえぬえ 歌はおまえの餌だから次の歌人のところへ行きな

(『害来たりなば』)

 

 あぬえぬえとは、ハワイ語で「虹」を指すらしい。この歌の横に、注釈としてその旨が書かれている。

 この歌は、実験的な連作に入る前の、最後の連作の一番後ろに配置されている。「おまえ」に対して、「次の歌人のところに行きな」と呼びかけている。主体は、もう「おまえ」にあげる歌が無くなったと言っている。

 この歌はこの歌集のタイトルに含まれている、「フラッシュバック」に勝てたかどうかの結末が記されているのではないだろうか。「おまえ」は「フラッシュバックする過去」のことを指していると、私は解釈した。フラッシュバックする過去に歌を投げて、投げて、投げるものが無くなった。そして両手を見せながら、「次の歌人のところへ行きな」と過去を諭す。

 ここで、主体は「フラッシュバックに勝ってないのでは」と思ってしまう。この読みだと、勝ったというより、フラッシュバックする過去に対して、もうあげられるものが無くなったというイメージが強い。それは勝ちなのだろうか? そのもやもやと対比する虹。この虹も、あぬえぬえと書かれているせいで、注釈を読まなければ虹と認識できない。主体の背中がぼやけていくような気がしてくる。

 

 

 ここでタイトルに戻る。『フラッシュバックに勝つる』。勝つるとは、勝利を確信したときのネットスラングだ。ここで注意したいのは、『勝つる』は勝ちを確信しただけで、勝ち切っていない。勝ち切ったなら、「勝つ」になるはずだ。

 この歌集は優しい歌が多い。思い出を題材にした歌の中に、自身の不全感を前面に出したものはほとんどないように思える。それは、作者のフラッシュバックへの戦い方がそうさせているのだとおもう。フラッシュバックを否定するのではなく、肯定して肯定して、フラッシュバックを発生させるもの = 過去を見る自分と和解することで、勝とうとする。優しい戦いの先で、フラッシュバックに与える餌、つまり歌が無くなったとき、作者はこう言うのだ。

「フラッシュバックに勝つる」。

 

 優しい戦いは終わらない。本当に勝てるかどうかは、まだ誰にも分からない。

アップルパイを初めて食べた

 私は一般の人々に比べて、食べたことの無いものが多いらしい。

 例えば、パスタだとつい半年前までミートソース(などを代表とするトマトソースを使用したもの)とナポリタンしか食べたことが無かった。半年前にやっとペペロンチーノを食べたが、まだカルボナーラは食べたことがない。

 以下にペペロンチーノを初めて食べた時の話を書いたので、よろしければどうぞ。

komugikokomeko.hatenablog.com

 基本的に自分がある程度美味しいと確信を持って言える食べ物以外の関心が薄く、新しく出てきた料理にはあまり興味がわかない。1日に基本3回しかないご飯の時間で、リスクを冒したくないという気持ちがある。

 社会に本格的に進出してからは、自分の食べたいものだけを食べていればいい、というわけにもいかなくなってきたので、結果自分では絶対頼まないような料理を食べることもしばしばある。

 こういった受動的なお食い初めはしばしばあったのだが、能動的なお食い初めはあまり無い。舌が安定志向に走っているためだ。

 しかし、最近能動的にお食い初めをしたものがある。それはアップルパイだ。

 

 元々、子どものころはリンゴが苦手だった。理由は今となってはよく分からない。給食でリンゴが出ることがあっても、大体は残していたように記憶している。しかし、高校に入ってから、母親が毎日弁当にリンゴを入れるようになった。世が世なら拷問である。無理やり拷問を受けていると、次第にあまり苦痛を感じなくなって、最後には食べられるようになった。これを労働に置き換えると、気分が悪くなるのでやめましょう。

 こうして、リンゴを食べられるようになったのだが、リンゴ界を代表する食べ物、アップルパイだけは食べずに過ごしてきた。リンゴを甘く煮たものは割と好きだったので、食べれば好意的な反応が身体で起こるとは思ったものの、食べる機会が無かった。アップルパイがあるお店では、大体それ以上に自分の好きな食べ物が存在するからだ。リンゴ煮で思い出したが、以前クックパッドに、「CCレモンでリンゴを煮ると美味しい」と書いてあったので、レシピ通り試したら全く美味しくなかった。悔しい。世が世ならクックパッド抵抗軍を作っていたと思う。テニスコートの誓いに似たものを、暇な皆さんと一緒にやりましょう。

tenniscoat_chikaitaina@gmail.com

 アップルパイを食べない生涯を送ってきたのだが、つい最近食べる機会があった。

 ある日、タリーズコーヒーに行った。いつもはココアを頼むのだが(ココアは美味しい。今回言いたいことはこれです)、その時は朝から何も食べていなかったので、食べ物を頼むことにした。

 時間帯がお昼過ぎだったためか、軽く食べられそうなものがアップルパイしかなかった。一回けじめをつけたほうが良いと思い、アップルパイを注文することにした。すると、「あたためますか?」と尋ねられた。アップルパイはあたためても美味しいらしい。ライフハックだ。

 せっかくだからあたためてもらうことにして、席を確保して少し待つ。アップルパイが運ばれてきた。ナイフとフォークもついてきた。アップルパイはナイフとフォークで食べるらしい。これまたライフハックだ。

 食べてみることにする。ナイフとフォークを握る。1回目はリンゴまで届かず、ただのパイだった。2回目もリンゴまで届かず、ただのパイだった。3回目こそはと思ったが、またもや届かず、ただのパイだった。

 そして4回目、やっとリンゴに届いた。そこで新たな事実を発見する。タリーズコーヒーのアップルパイにはキャラメル的なクリームが入っていた。リンゴとキャラメルとパイが手をつなぎながら、口へ入ってくる。

 美味しかった。

 

 良い体験をしてから数日後、街を歩いていると、急に無に全身を強く打ち付けられ、無になりかけていた。身体の輪郭が曖昧になっていたため、これはまずいと思い、急いで近くのパン屋に逃げ込んだ。

 どのパンを買おうか迷っていると、アップルパイと言う文字が目に入った。これしかないと思い、会計を済ませ、電車に揺られ、家に帰ってアップルパイを食べた。

 美味しかった。

 気が付くと輪郭は元に戻っていた。

 

 こうして、私の好物にアップルパイが追加された。アップルパイを食べたいので、暇な人々はアップルパイを各自で食べましょう。

 applepie_kakujidetabeyou@gmail.com

Nicolas Jaar『Sirens』(2018年に購入/レンタルしたアルバム)

Nicolas Jaar『Sirens』

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 2016年リリース。

 RA(Resident Advisor)という、エレクトロニックミュージックを取り扱う音楽メディア兼ウェブサイトが存在する。その中にアルバムのレビューがあり、丁寧なことにSoundcloudやBandcampのリンクが載っているものもある。それを視聴しながら、購入したいアルバムリストにアーティスト名とアルバム名を載せるという作業を日々繰り返している。アルバムのレビューの日本語訳が2016年でストップしていて、英語版を見るのだが、何が書いてあるのかよく分からない。こういう時に英語をしっかりやっておけばよかったと思う。何事も自分の経験という範囲に引っ張ってこないと、モチベーションは上がらないものだ。

 その中に今回紹介するアルバムもレビューされていた。曲が聴けるリンクなどは掲載されていなかったが、ジャケットに一目惚れして購入した。作者の父親がアーティストで、作品の1つである『A Logo for America』を引用しているとのことだった。しかし、作品はコインで傷つけられている。雨のように見えるが、雨よりも存在感が強い。

 

 結論から言うと、このアルバムは私が2018年に購入/レンタルしたアルバムの中でTOP3に入ってくるほど良かった。

 1曲目の『Killing Time』が出色で、11分という長めの曲だが、緊張感、終末感が持続する。ゴゴゴゴという小さい音で始まり、1分ほど経つとウインドチャイムとガラスが砕ける音、それを踏みつける音、そしてピアノが何度も繰り返される。それが終わると、ピアノの音だけが静かに残る。中盤でピアノの音に霊のように輪郭がはっきりしないボーカルが乗ると、まるで崩壊した都市を歩いているような気分になる。

 実際に、私の住んでいる土地で大雪が降ったとき夜に、この曲を聴きながら歩いたのだが、本当に曲と状況がマッチしていて、感動してしまった。

 日本版では2曲目にボーナストラックが入り、3曲目の『The Governer』に移行する。1曲目とは打って変わって、途中で激しいドラムの音が入り、その後からサックスとピアノが混ざる。ビートの無い『Leaves』を挟み、静と動を繰り返す『No』が始まる。歌というよりはスポークンワードに近い。ノイズやギターがコラージュのように挿入される。

 ドドタタというドラムが印象的な『Three Sides Of Nazareth』が終わると、最後の曲『History Lesson』が始まる。静かでゆったりとした曲だが、歌詞はかなり辛辣かつ悲観的なことを言っている。途中の一部分を引用して翻訳すると、『チャプター1:台無し、チャプター2:またしても台無し、またしても、またしても』である。

 曲の話からは逸れるが、ボーナストラックを2曲目にして、この曲が最後であることを保持できたため、時々洋楽の日本盤である、ボーナストラックがアルバムの雰囲気と合ってないため、余韻が薄れるといった事態は避けられている。

 

 視聴できるところを見つけられなかったため、購入するのはためらわれるかもしれないが、悲観的かつ終末的なこのアルバムを、夜に聴くことで、あなたも心を動かされるかもしれない。

 

同人誌『She Loves The Router』(2018年に読んだ本・冊子)

 家に大量の未読本がある。読む量と買う量が釣り合っていないためだ、3000円までだったら「おっ! お買い得じゃん」と思ってつい本やCDを購入してしまう。「本や」と打つと指がキーボードが踏み外して「ほにゃ」と打ってしまう。かわいらしい。

 本はその時売っていても、次に来た時には売っていないこともある。個人が発行している冊子ならなおさらだ。文学フリマなどで買いすぎてしまうのは、次に売っているのか分からないため、脳のブレーキが緩くなってしまうためでもある。

 今回紹介する同人誌も、去年の文学フリマ後に存在に気づき、ああやってしまったと思っていたところ、今年のゴールデンウィークで開催された文学フリマ東京で何とか見つけたものである。こういう幸運は何回も続くわけではない。

 

『She Loves The Router』

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 この冊子は歌人である谷川由里子氏と、堂園昌彦氏が「とにかく好きな人や作品を読みたい人を集めた一回きりの同人誌」というコンセプトで発行されたものである。タイトルは「猫がパソコンのルーターに乗っかっている」様子を描写したTwitterでの呟きが元になっている。

 表紙を見ると、何か圧倒されるものがある。猫がルーターに乗っているという微笑ましい光景には有り余るほどのエネルギーだ。ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の表紙を思い出した。

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 内容は短歌の連作が5つ、評が2つ、冒頭に30首の連作が掲載されている宇都宮敦氏のエッセイが1つである。連作に関しては、一番好きな歌を引用していきたい。

 

【短歌】

宇都宮敦『この星の夜』

みんなみんな酔っぱらってる明け方にいくつのあかり 誰の呼び捨て

 

 宇都宮さんの連作は歌の中で起こっている出来事の空気感がこちらまで届いていて、どれも読んでいて良かったのだが、その中でもこの歌が一番グッときた。

 酔っぱらっている人たちがいて、街のあかりといういくつもある光と、明け方という1つの光が共存する時間帯。そこから聞こえる誰かが誰かにした呼び捨て。四句と五句の間が一字空けしているのは、呼び捨てが酔っぱらったみんなの騒めきから呼び捨てが聞こえて、一瞬騒めきがおさまったことを表しているのだろうか。もう空気感が最高で、酔いも相まって多幸感がにじんでくる。

 

吉田奈津『戦い』

ふがいない名人ばかりが会いに来る こんなエールがひと夏続く

 

 ふがいない名人って一体何なんだろう? 名人なのにふがいないんだな、名人なのに声に自信がなさそうな気がする。「こんなエールがひと夏続く」ということは、誰かが(おそらく)主体にエールを送るのだけれども、なんか頼りない。励ましの言葉として良いものなんだけど、言う人がなんだかふやふやな感じ。手でつかみきれないけど、妙に腑に落ちる喩えだった。

 

武田穂佳『小さいおにぎり』

 

表情がはじめにわからなくなってぐんぐん遠のく白鳥ボート

 

 池を見ていると、白鳥ボートをこいでいる人がいる。その人たちが主体から遠ざかるにつれ、具体的な人間の特徴は消え、肌色と服の色だけになる。その時にはじめにわからなくなる(ぼやける)は確かに表情だよなあと思う。白鳥ボートはあまり早く進まないが、「ぐんぐん遠のく」 という言葉によって、白鳥ボートが具体物から抽象物になり、やがて点になって消えていくような感覚になる。

 余談だが、作者が大学短歌バトル大学短歌バトル2018で掲出していた歌がかなりグッときたので、それも引用したい。

 

生きてさえいれば 無人の円卓のラスクのざらめがはなさぬ光 (大学短歌バトル2018 1回戦中堅戦 題『ラスク』)

 

堂園昌彦『地図』

君に貸してすぐに返ってきた地図に夢の鉱山を書き加えること

 

 まず、地図に夢の鉱山を書き加えるという行為がひかりを帯びている。すぐに地図が返ってくるということは、目的地をすぐ把握したということだと思うのだが、そこに主体が夢の鉱山を書き加えることで、把握できない目的地が生まれる。最後が「こと」で終わるのも、そのまま歌が通り過ぎずに留まるような効果があるように感じられる。

 

谷川由里子『夏のクイーン』

公園は すごろくだったら上がりかな 梅雨の晴れ間にあらわれる公園

 

 初句と二句の間に一字空けがある。一見空けなくてもいいように見えるが、空けることによって、主体の沈黙と息づかいが見えてくるように思えたので、個人的にはこの一字空けは成功しているように思える。

「梅雨の晴れ間にあらわれる公園」は雨があがったことで、人々が公園で憩い出す、つまり人々が公園を思い出すことを、「あらわれる」と言ったのだろうか。

公園を「すごろくだったら上がりかな」と言っている主体の中で、「梅雨の晴れ間にあらわれる公園」は辿り着きたい、ひかりのような場所なのかもしれない。

 この連作は主体の息づかいが聞こえてくるようで面白かった。主体の息づかいや周りの空気感を感じられる歌は個人的にヒットすることが多い。

 

【評】

鈴木ちはね『夏のみぎり』

 筆者が歌会で出会った歌である、

 

夏のみぎり あなたにの頭にアロハシャツ投げて10年帰ってこない/谷川由里子

「ラインナップ」(『ヒドゥン・オーサーズ』惑星と口笛ブックス 2017.5.26所収)

 

 について論じている。「夏のみぎり」という言葉に立ち止まった筆者はなぜこの言葉が選ばれたのか、別の言葉に置き換えながら論じている。改作によって得るものと失われるものが提示されているため、丁寧だと感じた。その中で主観的な時間感覚というワードが出てくるのだが、私が感じた主体の息づかいも、歌の中で立ち上がる主観的な時間感覚によるものなのかもしれない。

 

谷川由里子『感覚の逆襲 歌会でみつけた素晴らしい短歌』

 この評では、筆者が歌会で出会った7つの歌について論じられている。筆者は、ある歌に感じたときめきを書き言葉にする際、そのときめきは失われると述べている。それでも、ときめきを不特定の読者に伝えるために書く。ときめきを伝えるときに取りこぼしてしまう何かについては、今年の5月に行われた、石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』批評会で服部真里子氏が似たような主旨の話をしていた。好きなものから感じ取った良さを伝えるのは嫌いなものから感じ取った嫌さを伝えることの数十倍難しい。

 それでも、筆者は歌から感じたときめきを書いていく。難しいとわかっていても書く。私は筆者と話したことはないが、実直なひとなのだろうなと思う。

 7つの短歌を紹介されて、私は以下の歌が一番心に残った。

 

菜の花を食べて胸から花の咲くようにすなおな身体だったら/山階基

(第0回 北赤羽歌会 2017.4.11)

 

  同人誌を読んでみて、谷川氏、堂園氏が好きな人や作品を読みたい人から作品が届いた時に感じたであろうときめきを、こちらも味わうことができた。一回きりのメンバーと銘打ってあるので、続編を望むことはできないが、続編が無いとわかっているからこそ、記憶に残る部分もあるのだろう。

 

 ちなみに、神保町にある古本屋、古書いろどりにて『She Loves The Router』は委託販売されているとのこと。売り切れている可能性もあるため、問い合わせたほうが確実かもしれない。通販も行っている。購入したい方は早めに行動したほうがいいだろう。

www.kosho.or.jp

石野卓球『ACID TEKNO DISKO BEATz』(2018年に購入/レンタルしたアルバム)

石野卓球『ACID TEKNO DISKO BEATz』

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 2017年リリース。電気グルーヴの結構ヤバい方、石野卓球の9枚目のアルバム。

 前作の『Lunatique』が官能的(音楽で官能的だと思えるもの、結構少ないと思う)でかなり良かったため、今回はどうだろうかと思いつつ春あたりに購入。

 ジャケットはスマイリーとピカチュウが溶け合って血を流しているというデザイン。ポップと悪趣味が融合したような感じだ。

 聴いてみると、名は体を表すという感じだった。アシッドで、テクノで、ディスコなビートである。基本は4つ打ちのテクノで、曲の至るところでウネウネとした音が聴こえて、アシッドだなと感じる。また、ディスコ特有の官能性もうっすら感じられる。前作が服がはだけたような、官能が前面に押し出されている感じだったが、今作は服を着ているけれども、エロティックな雰囲気を漂わせているといったところだろうか。また、前作よりも跳ねるような、楽しげな音が多くなっているような気がする。

 1曲目の『BambuDo』では、キンキンとした音が飛び跳ねながら、多幸感のあるメロディに、アシッド特有のウネウネが混ざる。4曲目の『JackTaro』はアシッド全開で、時々入るフィルインの後の指を鳴らすような音が気持ち良い。6曲目の『KittenHeal』は若干シリアスな曲。3rdアルバムの『throbbing disco cat』に似た質感。7曲目の『SunGarden』はシリアスを抜けて、晴れ間が差すようなメロディが現れる。一聴して、なぜかYMOの『開け心-磁性紀-』という曲を思い出した。そのまま光が差すような曲が続き、ラスト10曲目の『Toxic Love』できれいに着地する。

 個人的には前作のほうが好みだが、聴いてて重くならないので、普段使いに適している感じだった。

ランニングマシンに初めて乗った

 年々体力が無くなってきているような気がする。それに比例して、気力も失われている気がする。小説や短歌、もしくは何らかの文章を書こうと決心してから実行に移すまでには一定の気力が必要になるが、仕事などで疲れていると気力が足りず、実行しようとしても目の前に「きりょくが たりません!」と出てきてしまう。水、木曜日は特にその傾向が強い。

 体力をつける必要がある。定期的に議題に挙がるテーマなのだが、なかなか続かない。体力をつけるための体力が無いためだ。体力をつけるために一定の体力が必要だという事実は、いつも私の足を重たくさせる。今回こそはと思いつつ、やってみることにする。n回目の挑戦になる(n=任意の自然数)。

 

 私は普段おもしろフラッシュ倉庫で検品作業をして生計を立てている。ある休憩時間、運動不足に関する話をしていると、上司が近くにある市民体育館が便利だと言った。調べてみると、比較的安価でトレーニングルームを使えるらしい。トレーニングルームの写真は1つしかなかったが、そこにはランニングマシンが写っていた。ランニングマシン。なんか東京フレンドパークで見たことあるな。そういえば、ウォールクラッシュ(ジャンプして得点の書いてある壁に貼りつくアトラクション)のデモンストレーションをしていた人は、今美味しくご飯を食べることができているのだろうか。

 その後も行くか行かないか迷っていたのだが、ある日、同僚が偵察に行ったと話してくれた。同僚はホラー系フラッシュの検品作業を行っている。皆さんが安心して『赤い部屋』や『ウォーリーを探さないで』を不安げに視聴することができるのも、同僚の検品があってこそなのである。同僚の話だと、中履きが必要らしい。私は中履きを持っていなかった。

 ここである事実に気が付く。運動するのには初期投資が必要なのだ。走るのにお金を取られるトレーニングルームという施設、声を出すのにお金を取られるカラオケという施設並みに悪質だ。人間が行動をすると、お金が減っていく。

 まあ、お金をある程度出したほうがもったいないから強制力が出るだろうと思い、近所の靴屋で安いランニングシューズを買った。

 運動に適した服を何とか家から探し、いつトレーニングルームに行くか考えることにした。平日ど真ん中に行くと、おそらく走った後何もできなくなってしまう。休みの前の日、すなわち金曜日が適しているのではないか。そのあと泥のように眠れる。「泥のように眠る」という慣用句、泥サイドの視点が全くないため、本当に泥があんな感じで眠っているのかは分からない。

 労働を繰り返していくうちに、金曜日になった。靴と運動に適した服、タオルを袋に詰める。会社に持っていく荷物が多くなって困る。自転車で普段通勤しているのだが、カゴに荷物が入りきらず、肩にかけるが、なで肩なので落ちてくる。肩を上げる動作を何回もする必要があり、傍から見るとビートたけしの物まねをしているように見えたかもしれない。

 何とか倉庫にたどりつき、労働を終え、いよいよ市民体育館へと向かう。倉庫から自転車で10分程度のところに市民体育館はあった。中に入ると公共施設感がすごい。料金を支払い、更衣室で着替える。ロッカーが想像の0.7倍くらいしか無かったため、荷物を何とか押し込む。

 着替えが終わり、トレーニングルームへ向かう、ランニングマシンのほかに、エアロバイク、バランスボール、筋トレのためのマシンなどが揃っていた。ランニングマシンは何種類かあるらしい。私はとりあえず、一番入り口に近いランニングマシンを使うことにした。

 私はランニングマシンで絶対に聴こうと思ってたアルバムがある。それは、The Chemical Brothersの『Push the Button』である。なぜそれを聴きたいと思ったのかは分からない。なんとなく走るときに合いそうだからだ。料理を作るときになんとなく合いそうだからといってオリジナリティーを出すのは良くない。しかし、これはランニングなので許される。

 ランニングマシンに乗って、徐々にスピードを上げていく。時速何㎞で走ればいいのかが分からず、試行錯誤の末時速10kmくらいがちょうどいい強度だということを知る。何㎞走ったか、どれくらいのカロリーを消費したのかが一目でわかるのは優れものだが、走っても走っても景色が変わらないため、夢の中にいるみたいだった。また、走っている最中、走ればカロリーを消費するわけだから、その時に食べ物を食べれば実質カロリーゼロなのでは、という理論を思いついたが、ちょっと何言ってるか分からなかった。

 30分ほど走り、きつくなってきたのでやめることにする。降りたとたん少し気持ち悪くなる。走っているのに景色が動かないことと、ベルトコンベアの上でずっと走っていたこともあり、ランニングマシン酔いになってしまったのだろう。しかし、走ると底のほうで沈んでいたものがかき混ぜられるため、若干気分が晴れることが分かった。気力の最大値をある程度増やすためにも、休み前は走ってもいいのではないかと感じた。ちなみに私は、マラソン大会などを見ると「車を使えば楽なのに」と思ってしまうため、マラソンとウマが合わない。マラソンも私の事をそんなに好きではないと思う。

 

 満足したので、夜はラーメンの大盛りを食べた。

Not Waving『Good Luck』(2018年に購入/レンタルしたアルバム紹介)

Not Waving『Good Luck』

 

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 2017年リリース。

 一聴すると、無機質でゴツゴツした曲が多い。声が途中で挿入される曲がいくつかあるが、声が入ることで出る柔らかさを意識的に削ぎ落とされているように思える。声がカットアップされて、本来持つ柔らかさを感じる前に次へ次へ行ってしまうアルバムは時々あるが、このアルバムでは露骨なカットアップはされていない。声が冷たいというか、金属に触ったときに感じる冷たさを思いだす。妙に耳に残る。人間味の薄い声のサンプルが多いが、曲の終わりでライブ会場での観客の反応がサンプリングされているものもあり、ああ、人間がいるのだなという気持ちになる。

 ビートも質感が固い。人間らしさがあまり無いように思える。よく音楽のレビューサイトで用いられる言葉を使えば、インダストリアル(ざっくり個人的な解釈で説明すると、工業的、つまりゴツゴツした音楽)だ。ブリブリうねうねのベースが耳に残る『Me Me Me』、アシッド+無機質に繰り返される声のサンプルが特徴的な『Children Are The Phuture』、質感は変えずに落ち着いた雰囲気を醸し出す『Teach Me』などが気になった。

 分かる人だけに分かる説明になって申し訳ないが、Tzusingの『東方不敗』というアルバムが好きな方は、おそらくこのアルバムも好きだと思う。