コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

円周率と朝

【1日目】
 どうでもいい事ほど、答えが分からないと気になってしまう。今、俺はまさにその状況下におかれていた。
 3.14159……。9の次がどうしても思い出せないのだ。特に数学の勉強をしているわけでもない。ただ、少し頭の中を円周率がかすめ、思い出そうとしたがすぐに数字がぼやけ、結果として気になって仕方なくなっているだけだ。
 俺は、隣に座っているBに話しかけた。
「なあ、3.14159の次の数字ってなんだっけ?」
「どうしたんだよ急に」
 Bがそう思うのも無理はない。人は突拍子の無いことを言われると、もう一度繰り返して、言葉を噛み砕かないと理解が追い付かないことが多い。
「いや、急に気になってさ」
「特に意味は無いわけだな。えーと3.14159……。あれ、思い出せないな」
 Bも少しの間考えていたが、結局答えを出すのをあきらめたようだった。
それほど大した事でもない。おそらく2人ともど忘れしているだけだろう。その後話題は変わり、Bはバイトがあるからと、大学のラウンジを後にした。
 俺も円周率の事をすっかり忘れ、その後の1日を過ごした。

 

【2日目】
 どうでもいい事ほど、答えが分からないと気になってしまう。その答えがつい最近まで記憶していた事だったらなおさらだ。今、俺はまさにその状況下におかれていた。
 3.1415……。5の次がどうしても思い出せないのだ。朝起きた後急に頭を円周率がかすめ、思い出そうとしたがすぐに数字がぼやけ、思い出せない。昨日は次の数字まで覚えていたはずだ。しかし、思い出そうとすればするほど頭の中の10個の数字は一斉に俺だ俺だと主張して、結局結論を出せない。
 俺は大学に向かい、教室でBの姿を見るや否やなだれ込むように話しかけた。
「なあ、3.1415の次の数字ってなんだっけ?」
「昨日の話か。3.1415の次はな、えーと、あれ、思い出せない」
「お前も覚えてないのか! 2人同時に同じ部分を忘れるなんて、おかしくないか? 偶然にしてはちょっと出来すぎだ」
「熱くなるなよ、ただの偶然だろ」
 Bは笑いながら言った。本当に偶然だろうか。二人同時に昨日覚えていたことを忘れてしまうのは、あまり経験が無い。しかし、偶然だというBの言葉に反論できるだけの証拠もない。スマートフォンを使って調べようと思ったが、ちょうど講義が始まるタイミングなので思いとどまった。
 講義で居眠りをした際に円周率の事が頭から抜け落ちたようで、その日は思い出すこともなく1日を過ごした。

 

【3日目】
 朝、大学の正門近くを歩いていると後ろからBが青ざめた顔をして向かってきた。
「お前!ちょっと円周率を言ってみろよ」
 俺は少しあっけにとられながら、円周率を唱えようとした。
「3,141…… 3,141……」
 次が思い出せない。昨日までは確かにもう1つ後の数字まで覚えていたはずだ。
「俺もそこから言えないんだよ。お前の言う通り、ちょっとおかしいぞ」
 やはり昨日の事も偶然ではなかったようだ。
 2人でしばらく顔を突き合わせていた。数分後、俺は思い出したようにスマートフォンを取り出した。なんだ、スマートフォンで調べればいいだけじゃないか。これで調べれば一発……。ない。どこのページを見ても、3.141の先がない。おかしい。ここ数日で俺らを残して世界の常識が変わったということなのか。そんな馬鹿げた話はないだろう。しかし、画面に映し出されている数字は実際に起こったことであり、事実として認めなくてはならない。認めたくなくても世界が変わってしまったのだから、その事実を目の前で突きつけられた今、認知しなくてはならない。それでもおかしい。ただただおかしい。
 Bも俺の困惑した表情を見て、状況を察したらしい。しかし、状況は分かっても理由が全く分からない。理由を推測することすらできない。買ったペットボトルのジュースが汗をかいていき、気づけば教室へと向かう大学生はほとんどいなくなっていた。
講義を受ける気にもなれず、俺たちは図書館で円周率について書いてある本を見ていくことにした。しかし、どれも書いてあることは一緒だった。友人たちにも聞いてみたが、怪訝な顔をされるだけで全くの無駄足に終わった。
 特に手がかりを得ることもなく日は沈み、俺たちはそれぞれ帰路に着き、その日を終えるのだった。

 

【4日目】
 朝起きる。円周率を唱えてみる。3.14……。3,14……。
 やはり1桁数字を忘れている。寝てしまうと忘れてしまうのだろうか。スマートフォンで円周率について調べてみたが、どこも3.14と表示されていた。理由が分からないまま、日常が変化していく。置いてきぼりをくらったような感じがして、身体を冷たい何かが這いずり回るような感覚に陥る。
 しばらく考えていたが、俺の結論は違う方向へと向かっていた。円周率の桁数が減っていくことによって、俺たちは何か損害を受けていただろうか。ただただ状況が飲みこめず焦っていただけで、何か被害を被ったわけではない。ならば、この現実を受け入れてしまってもいいじゃないか。俺たちがこの状況を食い止めることはできないし、真実を他の人に伝えても怪訝な顔をされるか気が狂っていると思われるのが関の山だ。俺たちはこの現実に適応しなければならないのだ。例え、それが頭では全く納得のいってないものだったとしても。一度脳に焼き付けば、後はなにも感じず、思う事もなくいつも通りの日常を送ることができるのだ。忘れよう。今が常識なのだ。
 大学に行き、Bにその旨を話した。Bは一晩中考えていたようで、焦点も定まっていなかったが顔をしていたが、話をきくと納得した顔をして、
「そうだよな……考えていても意味ないもんな。忘れよう」
と言った。
 その後は円周率が消える前と同じ生活を過ごした。頭の中を円周率がかすめることが何度かあったが、その都度振り払った。

 

【5日目】
 朝、いつもと同じように起きた。やはり今までと同じように円周率は1桁消え、3.1になっていた。しかし、考えるだけ無駄だ。それ以上考えるのを止めて、1日を過ごした。

 

【6日目】
 朝は必ずやってくる。インターネットで円周率と打ち込むと、「3」という結果が返ってきた。
 いよいよ明日、円周率が消える。先人が発見し、高性能のコンピュータが何千何万と奥深くまで桁数を潜ってきた円周率が、明日、跡形もなく消える。直接関係は無いのだが、なぜか感傷的な気持ちにさせられる。このまま歴史の無縁仏に入れてもいいものなのか。いや、良くないだろう。
 それならば、円周率が消えるのを俺たちだけでも見てみよう。円周率も誰にも気づかれないで消えてしまうのは悲しいはずだ。せめて、最後は見届けてやりたい。
 俺はBに連絡し、一緒に円周率の消失を見届けようと誘った。Bも誘いに応じた。大「円周率を見届ける会」は俺の家で行われることになった。
 俺はその日の午後、大きめのスーパーに出かけ寿司やピザ、酒などを大量に購入した。誕生日などに豪勢な食事を購入して、誰かと食べるのはさほど珍しくないが、何かが消えるという時にまるで祝い事かのように準備をするのはいささか妙な気分であった。
 夜になり、Bが家にやってきた。Bも菓子を大量に持ってきた。
 そして、「円周率を見届ける会」は始まった。会話はほとんどなく、ひたすらに飲み食いをし続けた。そして、食べ物が付きかけた頃Bはぽつりと呟いた。
「まだ実感が湧いてないんだよな。円周率が消えるなんて今まで考えたことが無かったからさ」
 Bの言う通りである。世間の常識だったものが人知れず消えるとき、こんなにあっけないものなのだろうか。人類の歴史もある日を境に大きく変わったりするが、いつも多数の生き証人が存在した。円周率が消えるという事も、歴史の大きな変化だと思うが、俺たち以外に事実を知る者がいないという事が、ただただ虚しい。
 しばらく沈黙が続いた。何の気なしに時計を見ると、もう日付が変わっていた。俺は円周率を思い出してみる。しかし、何も浮かばなかった。
 円周率は完全に消えたのだ。跡形もなく。

 

【7日目】
 どうやらいつの間にか寝ていたみたいだ。Bも部屋の隅で眠っている。そういえば本当に円周率は消えたのだろうか。俺は円周率を一応、調べてみることにした。スマートフォンを開いた数十秒後、俺は目を疑った。
 円周率が復活している。それだけでない。様々な円周率ができている。更に調べてみると、沢山の信じがたい情報が入ってきた。
 マイ円周率と言う概念があり、人々は自分だけの円周率が作れるという事。女子に人気の円周率、モテる円周率などという奇妙なものが存在すること。街に、運を呼び込む円周率を教える、胡散臭い人々が増えつつあるということ。年配の人は縁起が悪いから4を円周率の中に入れないという事……
 まるで円周率が1つの大衆文化になっている。寝ている間に何があったのだろうか。また俺たちは取り残されてしまったのか。
 身体を冷たい何かが這いずり回り、全身の力が抜けていくのを感じた。


 外は、いつも通りの青空だった。