コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

無駄話²

 午後4時ごろ。Aはファミレスへと向かった。Aは趣味で小説を書いている。次に書こうと思っている小説のアイデアがなかなか出てこないため、気分転換に外に出て、ファミレスへと辿り着いたのだ。

 ファミレスのドアを開け、店員の「何名様ですか」という問いかけに対し、Aは「1人」と答える。その後、「おタバコはお吸いになられますか」という問いに、「吸わない」と答えた。小さめのテーブル席へと案内され、Aは腰を下ろした。

 ファミレス内では子連れの母親たちのグループが数組と老人たちが何人かいるくらいで、空席が目立つ。Aはメニューを見始めた。

 Aがコーヒーをホットにするかアイスにするか迷っているとき、1組の男女が目についた。

 男女は大学生である。男は大学3年生で、白い襟付きのシャツにジーパンという出で立ちだ。女も大学3年生で、白のワンピースを着ている。少し大きめの眼鏡を掛けているが、顔の小ささも相まって、アンバランスな印象を受ける。

 Aは何か小説のネタになるかもしれないと思い、ホットコーヒーを頼んだ後、会話を聞くことにした。

「……猫で思い出した。あれは先週の事なんだけどさ、昼頃に家の近くを歩いていたんだ。大学に行くために。今君は、大学に行くなんて珍しいと思っただろう。その考えは正しい。僕が大学の出席があまり芳しくないことは何回も君に言っているからね。別に休むことに対する、ある種の自慢をしたいわけでもなければ、同情を欲しているわけでもないんだ。おっと、何の話をしてたんだっけ。そうだ、猫の話だ。道端で猫を見かけたんだ。正確にいうと、猫の尻尾だけを見かけた。別に猫の尻尾だけが落ちていたとか、そういう猟奇的な話をしたいんじゃない。猫の尻尾だけが、茂みから見えたんだ。それだけの話さ。その時の僕も大して気には留めなかった。でも、よくよく考えてみたら、猫の尻尾がついていた正体って、本当に猫だったんだろうか。もしかしたらネコでは無かったんじゃないか。考えれば考えるほど気になってきてさ、君はどう思う?」

「えっ」

 女は少し動揺している。質問されるとは思ってもいなかったらしい。

「だから、君はどう思う?」

「う、うーん、まあ、猫なんじゃない?」

 女はのんびりとした口調で答えた。男はその答え方が気に入らなかったらしく、尖りを帯びた声で話し始めた。

「そりゃあ普通に考えりゃ猫だろうよ。でも、見たのは猫の尻尾だけだ。ということは、猫の尻尾がついた、猫以外のものという可能性だってある。猫の尻尾がついた他の動物かもしれなかったし、もしかしたら、猫の尻尾がついた人間だったかも、いや、待てよ、猫の尻尾をもった怪物っていう可能性は、そうだよ、怪物だったのかも。怪物がいないなんて証拠はどこにも存在しない。もしそうだったら、僕は殺されていた……。猫の尻尾に近づいていたら、食われていたかも……」

「ねえ、何か頼んでいい?」

 しかし、女の声は男に届いていなかったらしく、男はブツブツと独り言を言い始めた。女は店員を呼び、チョコレートパフェを頼んだ。Aも話が途切れたのを見計らって、届いていたホットコーヒーにミルクと砂糖を入れ、飲み始めた。

 しばらくすると、隣のテーブルにパフェが届いた。女がスプーンをもって食べようとしていると、男は唐突に口を開いた。

スプーンのアイデンティティってなんだろうな?」

「え?」

「だから、スプーンのアイデンティティ

「そんなの考えたことないけど、まあ、何かを掬う事なんじゃないの?」

「それならスコップと一緒だ。スプーンだけのものとは言えないよ」

「うーん、じゃあ食べ物、食べ物を掬う」

「食べ物ねえ、うん、それもアイデンティティの1つだ。でも……」

「でも?」

「食べ物を掬うというアイデンティティは、あくまで食べ物を掬うために利用されているスプーンだけが持つものであって、違う目的で使用されるスプーンはそのアイデンティティを持ち合わせていないんじゃないか」

スプーンって、食べ物を掬う以外に用途があったっけ?」

 女はクリームの乗ったスプーンを見つめながら言った。

スプーン曲げだよ」

 男はスプーンを持ち、前後に振りながら答えた。

ユリ・ゲラーっていう自称超能力者がよく行っていた、まあ、手品みたいなものさ。この普通の人なら曲げられそうにないスプーンを、いとも簡単に曲げてしまうんだ。このスプーン曲げに使われるスプーンは、食べ物を掬うという本来の目的で使われることなく、ただ曲げられるために生まれてきたんだ。つまり、スプーン曲げで使われたスプーンは、君の言った食べ物を掬うというアイデンティティをもちあわせていない」

「それなら、曲がっていることがアイデンティティなんじゃないの?」

「うーむ、そうかもしれない、いや、違う。それは受動的なもので、スプーン自身が獲得したものじゃない。でも、そうすると、食べ物を掬うという行為もスプーンにとっては受動的な行為だから、アイデンティティとは言い難い。そうなると、スプーンがスプーンたらしめている物は何なんだ……」

 男がまた独り言を始めかけた時、女は何かに気づいたらしく、頭を上げ、男に向かって話し始めた。

「ねえ、そんな難しいことを考えなくても、スプーンはあの形をしているだけでスプーンなんじゃないかしら?」

 男は独り言を止め、女の方をしばらく見つめた。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。

「確かにそうかもしれないな、あの形をしているものはスプーンしかない。自身を証明できる1番の証拠だ。スプーンにもアイデンティティは確かに存在するな。君に納得させられるとは、少し悔しいな」

 女は少し乱暴にパフェをつついた。しばらく2人とも沈黙していたが、突然男が大声をあげた。

「待てよ、スプーンは能動的に考えるのか? 確かにあの形はスプーンであることの証明にはなるが、全く同じ形のものが世界中にいくつもあるわけだ。それは共通点じゃないか。というよりも、そもそもスプーンは自我を持っているのか? もしなければ、スプーンにはアイデンティティと言う概念が存在しないことになる。スプーンはおそらく自我をもっていない、いや、それは主観的な評価だ。本当は僕たちが知らないだけで、スプーンも自我を持っているかもしれない。そうなってくると……」

 男はまたブツブツと呟きはじめた。突然大声をあげたことに驚き、大きめの眼鏡にクリームをつけてしまった女のことなど眼中にないようだった。

 しばらく話が途切れ、女が注文したパフェの器とスプーンが触れ合う音のみが響いた。やがて、その音も消え、沈黙がファミレスを支配する頃、Aはコーヒーを飲み終え、トイレに向かった。

 Aがトイレから戻ってくると、男女はいなくなっていた。Aは男女が話している際にとったメモを見返したが、すぐにポケットへ乱暴に突っ込んだ。男の話はどれも突拍子の無いもので、到底小説のネタになりそうになかったらしい。

 Aはため息をついて、伝票を持ちレジへと向かった。

 時刻は、午後5時を回っていた。