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コムギココメコ

忘れてもいいことを書くので不備忘録

灰色の賭け

 目を開けてみると、知らない部屋だった。
 昨日までの出来事が全て正しければ、俺は会社から帰った後風呂に入り、夕食を食べ、すぐに床に就いたはずである。起きるのはもちろん、自分の部屋の布団で横になった状態である。しかし、今は知らない部屋に立っている。
 夢だ、しかもこれは俗に言う明晰夢だ。俺は頬をつねってみた。痛い。夢ではないみたいだ。それならどうしてこんなところにいるのだろうか。昨日は酒を飲んでいない。記憶も確かだ。
 様々な考えが頭の中に浮かぶ直前、どこからか声が聞こえてきた。
「こんにちは! ここではとある賭けに挑戦してもらいます。後ろをご覧ください」
 後ろを振り向くと、何かが地面に置いてあった。はっきりとは見えないが、白くて、四角い物体……
 豆腐だ。
「この豆腐を使った賭けに挑戦してもらいます。ルールは簡単。線の外側から豆腐を見てもらい、木綿豆腐か絹豆腐かを判断してもらうだけです。制限時間はなし。木綿豆腐もしくは絹豆腐と声を発したとき、それを解答とみなします。それでは楽しんでどうぞ!」
 声が途切れた。どうやら俺は豆腐の種類を当てなければならなくなったようだ。淡々と考えているように見えるが、人間はあまりに突拍子の無い出来事に直面すると、かえって冷静になってしまうらしい。
 部屋を見渡してみる。部屋は小学校の教室くらいの大きさで、常夜灯ほどの明るさしかない。床は木目のフローリングで、壁と天井は白色である。ドアや窓は無く、今俺がどこにいるのかは全く見当がつかない。時計も見当たらないため、時間さえも分からない。俺は寝るときに腕時計をしておけばよかったと少し思ったが、的外れな考えだとすぐに思い直し、頭からかき消した。
 改めて豆腐を見る。見たところ一般的な豆腐である。木綿か絹かを確認しようと目を凝らしたが、微妙に輪郭がぼやけてしまう。もう少し明るければはっきりと見えるのだが、明かりを調節できるスイッチも見当たらなかった。豆腐の半径3mには線が引かれている。中に入ろうかと思ったが、ルールを破った場合どうなるかは分からない。どうしても脚を動かす気になれなかった。
 俺は壁に寄り掛かった。頭の中で様々な考えが駆け巡った。この賭けに負けたら俺はどうなってしまうのだろうか。殺されるか、どこかに連れ去られるか。それとも何も起こらないのか。また賭けに成功したとしても、戻れる保証もない。アナウンスや部屋から全くヒントを掴めないため、均等な大きさの考えが主張を繰り返していて収拾がつかない。そもそも豆腐を賭けに使う理由も謎だ。
 いずれにせよ、俺は現実世界に戻らなければならない。今朝は朝一番で会議がある。そのためには、現実時間の午前6時までに賭けの決着を付けねばならない。こんな不条理な世界でも、現実を考えなければならない自分に嫌気がさすが、俺の生きていた世界は現実世界であり、これから生きねばならない世界も現実世界なのだ。
 俺は部屋の隅を歩き回ることにした。じっとしているとこの部屋の雰囲気に飲まれてしまう気がしたし、少しの間不条理を詰め込みすぎた頭を空っぽにしたかったからだ。部屋を回り続けていたが、そのうち頭が行動に意味を求めるようになってしまい、ちょうど20周したところで床に座り込んだ。不条理を詰め込んだ頭は、歩き回ることによってかえって混ぜ合わさり、1つの巨大な不条理になったようだった。これではいけない、何か次の行動を起こさなければと思った瞬間、壁に目が留まった。
 白い壁に1つだけ、染みのようなものがある。ただの染みであればそのまま見過ごしていたかもしれないが、目は違和感を逃さなかった。染みが人の顔をしているのだ。しかも、顔のように見えるといった漠然としたものではなく、かなり写実的な顔をした染みであった。私はしばらく染みを見続けていた。そして体内時計で何分か――実際には何秒かもしれないし、何時間かもしれないが――見続けていると、人の顔をした染みは目を開けたのだ。俺は驚いて後ろにのけ反った。更に驚いたのは染みが話しかけてきたことだった。穏やかな声だった。俺は驚きのあまり、床に肘を強かに打ちつけてしまった。
「人が来るとは珍しいね。君も賭けに参加させられたのだろう?」
 俺はしばらく黙っていた。当たり前である、かつて俺は一度も染みと話したことが無かったからだ。
「警戒する必要は無いよ。僕も君と同じく、もともとは人間だからね」
「え?」
「始まりは君と同じだよ。眠っていたと思ったら、いつの間にかこの部屋にいた。アナウンスが聞こえてきて、木綿豆腐か絹豆腐を当てろと言う。それで僕は絹だと答えたのさ。そしたら壁の染みになっていた」
 俺の中に冷たい何かが広がる感覚がした。きっとこの男は賭けに負けたに違いない。それで染みになってしまったのだ。穏やかな口調なのは、長い間染みになっているため、狂ってしまったためだろう。
「あんたは、賭けに負けたんだろう?」
「それは分からない。この賭けの結果は誰も教えてくれないんだ。ただ、染みになったという結果だけが残る」
「でも、元の世界に戻れないばかりか、人間でもなくなってしまった。それをどうして負けだと思わないんだ。壁の染みになることが勝ちだったら、負けは何だ?床の木目にでもなるのか?」
「まあ君の言いたいことは分かる。僕も最初は負けたのだろうと思ったよ。でも、それは初めのほうだけだった」
「初めのほうだけ?」
「今の状態は勝った結果だという事さ。君の言いたいことは分かるよ。僕を狂っているとでも言いたいのだろう。けど、今の状態は幸福に包まれている。何も考えなくていいんだ。ただ、染みであり続ければいい。人は何かを考え続けなければ人でなくなるかもしれないけど、染みにはそんな使命もない。楽なんだよ」
 話を聞いている間、俺の顔は嘲笑で満ちていたに違いない。何が勝ちだというのだ。染みになったことが勝ったというならば、死はおそらく完全な勝利だろう。あの染みは物理的な死よりも酷い死に方、精神的な死を引き起こしたのだ。物理的な死というものは、精神的な死を伴っていると思われがちだが、俺はそうは思わない。精神は思考を中断しただけで、決して死んではいない。だがあの染みは、考えることを放棄している。そしてそれを認めている。思考を放棄したことを認めた時、精神的な死は訪れるのだ。
「確かにお前は勝ったんだろうよ。でも、一生そこで考えることを止めて、何をしているか分からないまま、死に続けなければならないんだ。お前が勝ち取ったのは虚無だ。何も実体もなければ実感もない。哀れだよ。」
「哀れだって?」
 染みの声が低くなり、穏やかさが消えた。
「君に何が分かる。考えないことは死んだも同然だと言ったな? 馬鹿馬鹿しい。思考は足枷と同じさ。この足枷のせいで、人間はありのままに生きることができないんだ。それを人間が神から与えられたものだと勘違いして、誇りに思っている。君は一生足枷を自慢して、生きていくがいいさ。僕はもう何も考えたくないんだ。失礼するよ」
染みは吐き捨てたきり、何も喋らなくなった。
 考えることが足枷だと? そんなことがあるものか。人間は考え続けたことで自らを発展させてきたのだ。考えることを止めた人間など、人間ではない。
 頭ではそう思うものの、染みの言葉が頭から離れなかった。掻き消そうと他の事に思考を巡らせれば巡らせるほど、白色の絵の具に落とされた黒色の絵の具のように、染みの言葉が俺の思考に混ざってくる。私は考えることに疲れて、いや、ここで疲れを認めてしまうと、染みの思う壺であるような気がして、必死に考え続けていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。
 俺は夢を見た。
 公園の中にいて、ベンチで座っている。ふと前を見ると、数十メートル先に、女が立っているのが見える。綺麗な長い黒髪で、すらりと細い身体は、なめらかなガラス細工を思わせる。俺は近づいてみたくなり、女の元へ歩いていく。しかし、数歩歩くと急に足が止まり、前のめりになって倒れる。足枷がついていたのだ。俺はどうしても女に近づかなければいけないような気がして、芋虫のように体を這わせ、前へ進んでいく。進んでいくほど、足枷は締まり、俺は思わず叫び声を上げた。女は俺に顔を向いた。どこか悲しげな雰囲気を漂わせていた。女は遠くへ走って行ってしまった。俺は足の痛みに耐えながら、必死に小さくなっていく女に向かって這っていた。疲れ果て、這うのを止めて周りを見渡すと、周りにも私と同じような芋虫がたくさんいることに気が付いた。俺は叫び声をあげて……
 目が覚めた。夢の中にまで足枷が出てきて、うんざりした気持ちになった。それと同時に無意識の中でも染みの言葉が侵入しているような気がした。
 もし、運良く元の世界に戻れたとして、俺は「思考は足枷である」という考えを忘れることができるだろうか。無理な話に思えた。染みは既に、俺に足枷をはめてしまったのだ。俺が元の世界で何かを考えるたびに、足枷は自らを主張し、俺を苦しめる。そんな世界で、俺は今まで通り暮らしていけるだろうか。
 夢の女は足枷をしていなかった。俺はそれを追いかけて、芋虫のように這った。もし足枷が無ければ、女に辿り着くことができただろう。なぜあれほどまでに必死だったのだろう。今は答えを出すことができなかった。
 改めて豆腐と向き合う。豆腐は依然としてぼんやりとしたシルエットを保っている。すぐにでも結論を出して、言ってしまいたい衝動に駆られるが、言った途端、列車のレールが最悪の結末へとポイントを変える気がして、声を出す気力がなくなる。このまま結論を出さずにひたすら黙っていようとさえ考え始めていた。しかしそれは、処刑を待ち続ける死刑囚となんら変わりは無かった。
 苦悩が苦悩を呼び、決断を遅らせる。俺は染みを恨めしく思った。こんなものさえ見つけなければ、俺はさっさと答えを決め、言ってしまったに違いない。そして今頃、結末はどうであれ、解放されていたはずだ。そう思う反面、染みに対して劣等感を覚え始めていた。染みは答えを出している。自ら考え、答えを選択した結果、染みになったのだ。俺はまだ答えを出していない。考えてはいるが、答えを出し、先に進むための思考ではなく、ただ自分を正当化するために行っているものと化している。そんなものに意味があるのだろうか。一度相手に劣等感を抱いてしまうと、全てが劣っているような気がしてしまう。俺は、染みに対する劣等感が身体中に広まっていくのを感じた。
 ダメだ! このままでは思考を放棄してしまう。染みへの敗北を認めてしまうことになる。なんとしてでも答えを出さなければならない。たとえ答えた瞬間に最悪の結果へとポイントを変えたとしても、俺は言わなければならない。萎みかけた染みへの反抗心が再び膨らみ、劣等感を塗りつぶそうと必死に抗っている。
 俺は三度、豆腐と向き合った。俺の思考が目まぐるしく変わっていくのと対照的に、豆腐は最初から何も変わっていなかった。俺は豆腐を見つめ続けた。瞬きを忘れ、汗が目に入るまで俺は一時も豆腐から目を離さなかった。
 汗を手で拭い、俺は息を吸った。一瞬動きが止まる。そして、勢いよく声を吐き出した。
「木綿豆腐!」
 その瞬間、目の前が真っ白になり、俺は気を失った。

 

 目を開けると、見慣れた部屋だった。服や本が乱雑に詰まれ、机に昨日の夕食の皿が置いてある。まぎれもなく俺の部屋だった。体を触ってみる。確かに俺の体だ。染みや壁の木目にはなっていない。
 一息ついた瞬間、俺の頭の中に様々な考えが浮かんできた。俺は再び横になった。
 賭けに勝ったかどうか、俺は知る事が出来なかった。