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備忘録と不備忘録を行ったり来たり

桃太郎概論

 では、はじめます。先週は桃太郎がどういう話かを皆さんに知ってもらいました。あ、先週いなかった人は前にプリントがありますので、取りに来てください。そこに大体のあらすじが書いてありますので、素早く読んでおくように。内容が分かっていないと今日の話はちんぷんかんぷんだと思います。では気を取り直して講義をはじめましょう。桃太郎に関して今日は物語の時系列に沿って、解説のほうをしていきたいとおもいます。現在主流になっている桃太郎に関する考え方も交えるつもりです。最初はおじいさんとおばあさんがいるという前提のもと物語は始まります。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行くわけです。ここで重要になってくるのは、おじいさんは「芝刈り」ではなく、「柴刈り」に行ったということです。これは1976年に高橋龍一郎という人物によって提唱されました。彼の主張はこうです。「芝を刈るというのはあり得ない。それでは、おじいさんの住んでいる家はサッカーコートにでもあることになってしまう。柴が妥当だろう」と。彼の説は当時の桃太郎研究に衝撃をあたえました。今では「柴刈り」が主流になっています。ここは重要ですよ。重要だという私が口を酸っぱくして言っているということは、分かりますね? はい、次にいきます。

 次に川を洗濯しているおばあさんは、川上から桃が流れてくるのを発見します。ここで出てくる桃に関しては、様々な議論がされてきました。一番議論にあがりやすいのが、「本当に桃なのか」というところです。この川上から流れている物体の正体に関して、文献はいまだに発見されていません。現在では桃派と西瓜派で分かれています。桃派の流れを汲む人々は斉藤学派と呼ばれていますし、西瓜派の流れを汲む人々は西村学派と呼ばれているわけです。斉藤学派は「人が入るほどの大きさがある桃は存在しないだろう」という批判、西村学派は「西瓜の場合、桃太郎という題名と矛盾してしまうのでは」という批判をそれぞれ受けています。まあ、私は桃太郎という題名通り、桃が流れてきた方が自然だろうと思いますね。そして、桃、ここでは斉藤学派の主張である桃にします。おばあさんが桃を持ち帰り、家で桃を切ります。そこから桃太郎が出てくるわけですね。ここまでで何か質問はありますか。はい、そこの君。名前を言ってから質問をお願いします。

「太田です。桃太郎は桃から生まれてという話ですけども、桃に人間の女性と同じように子宮などが存在していたとは考えにくいのですが。どうやって子供を産んだのでしょうか」

 なるほど。確かに桃に人間のように生殖機能が付いているとは考えにくいですね。良い質問だ。実は、太田君みたいな疑問をもった人が実は他にも存在していたりするんですよ。伊藤健三郎と言う人がとある説を1982年に発表しています。それは「桃は、実は人間のメタファーであった」という説です。もし、桃が人間のメタファーであった場合、桃から人間が産まれるというのも考えられる話ですね。つじつまは合っています。しかし、この説は当時の学界では批判されました。「川から妊婦が流れてくるのはあり得ない」と。しかし、伊藤健三郎も「桃から人間が生まれることのほうがあり得ないだろう」と反論しています。この議論はいまだに解決には至っていません。だから、この質問にははっきりとした答えは出せないわけです。今回は太田君の疑問を学説として提唱した人がいるということで、申し訳ないが、それで大丈夫ですかね。伊藤健三郎についてもっと知りたければ、来週にでも1冊本を持ってきましょう。では、次に進みます。

 桃太郎は成長して、鬼ヶ島へ鬼退治に出かけます。その時におじいさんとおばあさんからきび団子を貰うわけです。ここもある疑問が浮かびます。どうして、桃太郎にきび団子だけしか食糧を渡さなかったのかということです。普通長旅になるならもっと食糧を渡すはずでしょう。下手したら、桃太郎が飢えに苦しみ、近くの村を襲うようになるかもしれない。そうしたら、桃太郎が鬼になってしまうわけです。この場面では2つの説が提唱されています。まず、鬼ヶ島が日帰りで行けるような距離しかないという説。1日に人が歩ける距離は大体30~40キロです。おそらく鬼ヶ島が桃太郎の家かそれくらいの距離だったのかもしれないですね。それならばきび団子だけ持たせる理由も分かりあます。もう1つの説は、おじいさんとおばあさんにとって、桃太郎は邪魔な存在だったということです。鬼退治というのは建前で、実際は穀潰しの桃太郎を追い出すことが本当の目的だったということです。食糧もほとんど持たせなかったのは、桃太郎ごときに大事な食糧を渡す必要がなかったという解釈ですね。この2つの説はいまだに論争の種になっていて、解決していません。まあ、この桃太郎学というのはまだ新しい学問で、皆が手探りでやっているからこういう解釈の多様化というのは避けようがないのかもしれませんね。

 そして、桃太郎は鬼退治の途中、犬、猿、キジを仲間にします。この仲間については来週から数時間かけて講義で取り扱うことにするから、今回は飛ばすことにします。ここはあまり駆け足でやってしまうと、かえって君たちが混乱しかねないですからね。

 鬼との決戦に関しては桃太郎の仲間についての講義が終わってから行うことにするので、今回は触りだけやって、本質的な部分は、大体1ヶ月後あたりに行う予定です。鬼と桃太郎の対決の構図は、研究者たちによって様々な解釈が試みられています。社会学、心理学、哲学など、色々な方面からアプローチが行われていたりするけれど、この講義ではあくまで鬼は鬼、桃太郎は桃太郎として考えていきます。つまり、何かのメタファーとしては考えないということです。これはシラバスにも書きましたが、まあ誰も見ていないと思うので一応言っておきます。

 鬼を退治した桃太郎は、宝物を持っておじいさんとおばあさんのいる所に帰るわけです。この宝物は、鬼を退治して、今までの悪行のお詫びとして貰ったものという解釈が主流です。まあ、勝手に取っていったとなると、見方によっては桃太郎のほうがよっぽど鬼のような所業をしていますからね。そうなると正義的視点で書かれてきた桃太郎の行動に反して、物語の辻褄が合わなくなってしまう。これで桃太郎の話は終わりを迎えるわけです。ここまで何か質問はありますか。はい、じゃあ君。

「若林です。鬼たちが隠し持っていた宝は、具体的には何ですか」

 なるほど。鬼たちが持っていた宝は何かについてですね。まあこれは金や銀でしょう。この時代に株券や電子マネーがあったとは考えにくいですからね。あと、戸田美香子という桃太郎学者が「鬼と人間の価値観ははたして同じなのだろうか」という疑問を提示し、宝物は鬼にとっては大切なものだったが、人間にはそれほど大切ではないかもしれないという説を提唱しましたが、まあおじいさんやおばあさんは宝物を見ると喜んだらしいので、おそらく価値観は似ているでしょうね。結論を言うと、人間が喜び、かつ宝物と形容されるものだから、おそらく宝物は金や銀などと考えるのが妥当だと思います。こんな感じで大丈夫かな。うん。大丈夫そうだね。

 じゃあ今日の講義はこのへんで終わりにします。来週からは桃太郎の仲間に対する解釈の変遷と、現在主流の解釈を説明していきたいと思います。来週も休まないように。