コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

無意味を意味から守る

 お元気ですか?
 個人的に好きな事を、楽しそうにやっていると、よく「意味のないことをやってるね」と言われたりする。相手側からしてみれば、意味のないことに熱中したり、楽しみを見出しているのを見ると、何がそんなに楽しいのか怪訝に思うのだろう。まあ、これは別に大したことではない。
 まれにそのような行為に対して、嘲笑したり、場合によっては怒ったりする輩も存在する。一度きりしかない人生、無意味な事に熱中したってしょうがないだろう。もっと有意義なことをやらなければ、君の人生は価値のないものになってしまうだろう。それを更生してやってるんだからありがたく思えよ。そんな意図を感じ取った時、私の中の湯沸かし器は、急速に沸騰しはじめる。勘違いをしないでもらうために初めに言っておくと、今から話題にするのは能動的な無意味である。自分の意図によって発生する無意味だ。無意味に能動的も受動的もないと思っている人もいると思うが、ここではその疑問をタンスにでもしまってもらい、次に進んでもらいたい。
 大体、無意味な事の何がいけないのだろうか。意味のないところが悪いのか。余計なお世話である。まず、意味の有り無しを自分の物差しで決めつけているところが気に入らない。相手の意味差しが真っすぐであるからと言って、私の意味差しがまっすぐであるとは限らないのだ。それから、嘲笑をする必要性がない。怒る輩はこの際どこかに放っておく。嘲笑をするということは、大体の場合、相手を見下している。無意味を笑い、自らの優位性、存在意義を確保しようとしているのかとすら勘ぐってしまう。嘲笑している相手側が本当に意味のある行為をしているかは定かではない。
 最近、無意味な行為を意味で殺そうとする事案が多すぎるように感じる。Twitterを例に取りあげても、例が多すぎて机の上に並べきれないほどである。Aという全く主張もない適当なツイートを誰かがして、RTが伸びると、Aに対して真面目くさって自らの意見を押しつけてきたり、文章上の不備をいちいち指摘したりする輩が、もうわんさかわんさかと発生する。キリがないし、考えただけでも湯沸かし器は再沸騰しそうだ。こういう無意味を、自らの意味で殺そうとする行為から生まれる利益は何一つ存在しないし、あるのはただどうしようもない怒りである。反論をすると、相手側は嬉々として反論に対して反論を行い、泥沼へと陥ってしまう。
 無意味を保護しようとする社会運動は起こっていないし、起こしてもいけないだろう。運動が付いた時点で意味が発生してしまい、矛盾に陥ってしまう。せめて、無意味を発見した時に、黙っているということさえしてくれれば、誰も傷つかずにすむのだ。傷つけていると自覚しておらず、善意さえ抱いている人は、善意にはいつも無意識の殺意が含まれていることを知っておく必要がある。そもそも、無意味に意味をぶつけること自体が無意味である可能性が高いという事に気付かなければならない。
 そもそも、意味しかない生活はあり得ない。意味と無意味はコインとの裏表と同じで、どちらかが存在して、どちらかが存在しないという事はないのだ。その無意味を、貶したり一周したりせず、愛でてやることも時には必要なのではないだろうか。私は無意味を愛する。無意味万歳。無意味フォーエバー。