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コムギココメコ

忘れてもいいことを書くので不備忘録

いつだって鎧の中は柔らかい

小説

 灰色の建物が、10月の夕暮れにぽつりと佇んでいる。6階建てで、周りに高い建物が無いという事もあり、何とも言えない威圧感を帯びていた。近づいてきた空気は建物にぶつかり、地面へと力なく墜落していく。そうして死んだ空気が地面に積み重なり、異臭を放って、俺の息を詰まらせるようだった。

 俺はとある講演会に参加することになっていた。精神をどうにかこうにかするものらしい。精神とは一体何を指しているのかさっぱり分からないし、いまいち惹かれるものもない。友人に誘われて、話半分に承諾してしまったから、この場所に今佇んでいるのだだ。
 そういえば友人は楽しそうに講演会の話をしていた。屈託のない笑顔、迷いや懐疑的な心を感じさせない口ぶりからして、おそらくポジティブで分かりやすく、彼にとっては楽しい内容なのだろう。誰がネガティブで難しくて複雑な話について、嬉々として語ることができるだろうか。
 建物の前で3分ほど待ってみる。肌寒さを感じる季節に差し掛かっていることを、体が認識する。友人には建物の前に着いたと連絡したが、一向に返事は帰ってこない。更に5分ほど建物の入り口で待っていたが、別に外で待つ必要性もないことにようやく気づき、俺は中に入ることにした。
 二重になっている自動ドアを抜けると、ロビーが広がっていた。西に沈もうとしている太陽の光は、全くと言っていいほど届いていない。明かりが点いているから一定の光を携えているが、全て消してしまえば、外よりも暗くなることは間違いないだろう。薄暗さと灰色の壁が、建物内に視覚的な冷たさと圧迫感を帯びさせる。外よりも暖かいはずなのに、俺は外以上に寒さを覚えた。
 ロビーで10分ほど待ったが、それでも友人は連絡を寄越さない。全く、誘っておいた張本人の消息が分からなくなるとは何事だろうか。時計を見ると講演会の開始まであと15分ほどに迫っている。もしかしたら友人は先に会場に入っているのかもしれないと思い、ロビーの奥に進み、、セミナーが行われる会場になっている部屋を探した。
 1分後、案内板が置かれた部屋を見つけた。

「活動精神向上における分析と方法」

 題名だけでは何をするのかさっぱり分からなかった。しかし、題名は俺に苛立ちを覚えさせ、唾液の分泌を促した。精神的な内容を人が語るとき、しばしば抽象的、専門的な用語で俺たちを煙に巻こうとする。難しいことは有難いことだと勘違いしている人間が、専門用語で彩られた話にメモを必死に取りながら聞く。人々のぼんやりとした質問に、アクセサリーの多すぎて、機能を失った答えが返ってくる。しかし、質問者を含めた会場の人々は、それを大切な贈り物だと思い込み、工芸品の牛のように首を上下に振る。肯定を表わすのに馬鹿になる必要は無い。結局終わった後もぼんやりと良い話が聞けたなと思うだけで、短い夢から覚めれば全て忘れてしまう。その頃にはせっかくとったメモもただの難解な記号になっているだろう。俺はこの手の話が大嫌いだ。今回も友人に誘われなければ、そして適当に返事をしていなければ行かなかったに違いない。普段から人の話はしっかりと聞いておくべきだったと、今更後悔もしてみるが、後の祭りだ。
 口の中に溜まった唾液を飲みこみながら部屋に入り、部屋の中央付近の席に陣取る。友人はいなかった。あいつ、いったい何をしているんだ。いったん外に出て電話をかける。しかし、呼び出し音が延々と繰り返されるだけである。たっぷり3分呼び出し音を堪能した後、乱暴に電話を切り、スマートフォンをポケットに捻じ込んだ。
 改めて部屋に戻り、先ほど座った席に再び腰を下ろす。中にはコピー機が前の方から並べられている。数えてみると74台あった。一体何に使うのだろうか。前に置く必要はあまり感じられない。これでは前に陣取って一字一句逃さずに聴き取ろうとする、レコーダーのような人々は、前に座れないぞと困惑してしまうのではないだろうか。
 友人にもう一度連絡してみる。やはり聞こえてくるのは呼び出し音だけだった。もう友人は来ないと思った方がよさそうだ。せめて何時間前かに連絡をしてくれれば、わざわざ電車とバスを使ってこんなところまでくる必要は無かったのに。2時間を返してほしい。 これで俺がここにいる意味は全く無くなってしまった。今すぐ席を立って、このまま帰っても誰も文句を言わないだろう。しかし、何もせずにまた2時間を移動に費やし、1日を終えてしまうのは腹立たしいのでしょうがなく、俺は会場に残ることにした。
 会場の入り口に置いてあったパンフレットを開いてみる。顔を覆うような黒縁の眼鏡を掛け、髪を七三分けにしたスーツ姿の男が目に入ってきた。

 

【講演者紹介】
安土 瑠人(あんど・ると)
 1969年生まれ。○○大学××学部活動精神専攻を卒業後、会社勤めを経て、1994年から活動精神向上協会に所属。1999年、30歳という異例の速さで活動精神向上協会理事に就任。2010年、活動精神向上協会理事長に就任し、現在に至る。

【講演者あいさつ】
 魚の目をもつ皆さん、こんにちは。三日月型の狸は既に短い尻尾を九官鳥に向けて、ひたすらに理科室の鍵が消えるのを待っています。私はもう釘の上で生きるのを止め、現在枯れ葉色のオーケストラ柄の服を着て、夜に近づくための講演会を行うわけです。
 まず、活動精神とは、モノクロのクロワッサンをクロワッサンだと思わずに、気味悪いものにシンボライズし、明かりという明かりに惑わされずに、ミニマルな曲を分析するがごとく、自らを動かしていくものです。
 正直者の案山子は夢を見ます。それはちょうど咳止め薬が呼吸の間隔と同じくらいの長さです。しかし人々はコーヒーの中に入った悲劇しか見ていません。それは活動精神を暗い暗い密室へ追いやっているようなものです。
 私も昔は知識の判子をひたすら押しているような役所にいるようなもので、ひたすら紐の無い絞首刑を待つだけでした。しかし、活動精神という白地図を知り、自分なりに考えました。その結果、現在は活動精神の理事になり、牢獄を牢獄へ閉じこめることができています。その方法について今日、彫刻刀よりも深く、筆先よりも柔らかに皆様へ教えるつもりです。
 皆様には活動精神をこの講演を通して向上するきっかけとしてもらい、カナリアが鳴く方角にある無花果を得ることができるようになれば幸いです。

 

 ため息をついてパンフレットを閉じる。何を言いたいのかさっぱりわからない。死んだ文脈が紙面の上で浮かんでいる。単語が俺たちの使っている言葉の棚から落ち、ただのガラクタになっている。この講演会は意味のあるものなのか。この安土瑠人という人物の、話すことに快楽を感じたいだけの自慰行為と化している、そんな気さえする。いや、実際そういった事をしたいがための講演会なのかもしれない。全く意味のない、叩けば虚しい音が響き渡りそうな講演会だ。俺は意味のない言葉が大嫌いだ。全ての言葉は意味に基づいているのが普通だと思っている。無意味に基づく言葉など、言葉に対する冒涜ではないだろうか。意味をもつことを使命として生まれた記号である言葉と、俺たちは親しくしているし、言葉によって生かされている面もある。そんな言葉を、無意味で踏みにじることは、絶対にあってはならない。俺は、この男が忌むべき犯罪者のように思えてきた。パンフレットを持つ手に力が入り、表紙は曲がってしまった。
 開始時刻まであと3分になった。俺はやはり帰ろうと思い、席を立とうとした。しかし、部屋に入った直後に思ったように、このまま帰ってしまえば、それこそただただ時間の空虚な浪費である。また、嫌悪感を抱いた相手に会わないまま帰ってしまうことは、俺が相手に尻尾を巻いて逃げてしまったことと同じだと思い始めてもいた。席を立とうと浮かした腰をまた下ろす。
 俺は決意を固めていた。この講演会を見届け、徹底的に批判してやる。それが相手に届くかどうかは重要ではない。俺の精神のために批判を行うのだ。罵り、毒づき、貶す。あらゆる言葉を使って、心の中で叩きのめす。歪んだ決意だと言うのは十分分かっている。しかし、この講演会の内容は、おそらく俺自身の今までの生き方を否定するものになるという確信のない自信が、俺の心を占めていく。俺自身を肯定するための戦いに勝ち、俺の思考の正しさを俺自身に証明し、明日から気持ちよく生きていく。この集まりは精神の優越のために出現したサンドバッグだ。そう思うことで男の言う活動精神とやらも、向上するんじゃないか。口角が自然に上がる。それと同時に、声が聞こえて来た。
「みなさまこんにちは。本日は当講演会『活動精神向上における分析と方法』にお越しいただき誠にありがとうございます。今日の講演会を通して、皆さんに活動精神を向上させるための方法を掴んでいただければ、こちらとしてこれ以上幸いなことはございません……」
 司会が講演会の開会を告げている。しかし、司会の姿が見えない。その声もざらざらとしていて時折ノイズが入る。声がひとりでに部屋を漂っているようだった。おそらく、録音したものを再生しているだけだろう。
「……これより安土先生の講演を始めますが、いくつかの注意事項がございます。当会場は飲食禁止です。おタバコをお吸いになられる場合は、入口付近の喫煙所をお使いください。また、録音はご遠慮ください……」
 この会場に喫煙所はない。司会を使いまわすにしても、下見をして新しく録音しておくなど、もう少しどうにかならないものだろうか。講演会の張りぼてさを感じられずにはいられなかった。注意事項を言い終えた後、
「……それでは、講演会のほうを始めさせていただきます。安土先生、よろしくお願いします」
 司会が男の登場を促した瞬間、会場のコピー機が一斉に唸った。ピーガシャンガシャンカシャン、ガシャンガシャン。まるで機械が講演者に向かって拍手をしているような光景だった。
 男は、パンフレットと寸分違わない格好をして壇上に上がった。マイクの前に立ったが、なかなか話しはじめない。どこか一点を見つめている。その間、聞こえるのはコピー機の微かな唸りだけだ。やがて、息を吸い込む音がマイク越しに聞こえ、男は話し始めた。
「あなた、立ってください」
 男の声のすぐ後に、コピー機がガシャンガシャンと音をたてはじめる。最初、あなたの指し示す人物が分からなかったが、すぐにそれは俺だという事に気づいた。人間は俺と男の他に誰もいなかったからである。
「あなた、立ってください」
 ガシャン。俺は立ち上がらない。
「あなた、立ってください」
 ガシャン。俺はまだ立ち上がるのを渋る。
「あなた、立ってください。金属の手術を行おうとしても無駄です。なぜなら秒単位で火は色を変えるからです。私は火の粉を通してあなたを見ています。あなたは大理石で作られた火ですが、それは私自身でもあるのです。さあ、立ち上がって」
 ガシャン。俺は渋々立ち上がる。意味の取れないご高説はうんざりだ。これ以上黙って座っているより、今だけは相手に従った方が話はスムーズに進むだろう。それどころか、俺は男と対等に戦う機会を得たのだ。男の思考の元へ向かう鍵を手に入れた。後は、機会を見計らって男の懐に突っ込んでいけばいい。
「あなたは人間として、私たちの舟に乗ろうとしてここに来たわけです。しかし、舟は次元に溶けて、泥まみれのビー玉のような社会からも溶けています。あなたはまだ定規の目盛りを信じています。それではいけません。私たちは目盛りを加水分解因数分解した後に、太陽にかざして、役割を自ら消化することができたからこそ、いま舟に乗る準備ができたのです」
 ガシャンガシャン。男が長い間話し続けるのと比例して、コピー機も長く唸るようになる。俺は思っていることを話す。
「何を言っているかよく分からないけど、俺はそんな舟とやらに乗るつもりはないです。もともと来たくて来たわけじゃないんでね。あと、さっき言った私たちとはいったい誰の事ですかね。今いるのはあなたと僕だけじゃないですか」
「舟はあなたの内側と外側を隔てる水平線にあります。内側と外側が溶け込んだ時に、舟はあなたを迎えに来てくれるでしょう。しかしあなたはまだ、コーヒーフレッシュを入れたとしてもただそこに漂っているだけになる。そして、私たちは私たちであり、私たちである必要は無いんです。コピー機はみな欠陥を抱えていて、私の言葉を記号にして磔に処することしか考えていない。そんなことは無駄です。彼らはもう、自らが腫瘍になってしまっているのにもかかわらず、腫瘍を取り除こうとしている。終わりの終わりです」
 ガシャンガシャンガシャンガシャン。
 何を言っているかはよく分からないが、とりあえず前に陣取っているコピー機を、男が嘲っていることは分かった。俺はコピー機に比べれば、まだ対等に見られているのかもしれない。だからといって嬉しさは微塵も感じないが。
 俺は他に誰もいないという事実を強力な武器に変えることができると考えていた。男の他に誰かいれば、俺もあまり自分の意見を強く言う事は出来ないだろう。希望して講演会に来る人々など、基本的に講演者という宗教の信者になる資格をもっているし、希望して教えを学ぼうともする。そんな状況で男に盾突いても、ただの異教徒に見られて、俺に対して人々が石を投げてくるだけだろう。俺もそんな中で大立ち回りを上手く演じられるとは思えない。しかし、今は誰もいない。男も怖いはずだ。自分の論理の矛盾を指摘され、侮辱されてたとしても、無条件で怒る盲人の信者はいない。一人なのは相手も一緒だ。
 この男と徹底的に議論をして、やり込めてやりたい。そしてその無意味の核に、意味の剣の切っ先を突き付けてやるのだ。俺の心は逆立ち、沸騰し始めている。男は俺に理解できない抽象的な話をして、煙に巻こうとしている。そんな手が通用すると思うなよ。ただ、俺は思ったことを喋り、お前を殺す。言葉を砥石で鋭くさせて、相手の懐を抉ってやるのだ。
「あんたの言葉には意味がない。軽薄だ。そんな言葉で俺をどうこうできると思うな。思い上がりも大概にしてくれ。俺はお前らの言っている舟とやらに全く興味がない。どうせそんなものはただの妄想だからな。なあ、そろそろちゃんとした言葉で話し合おうじゃないか。あんたは自分の理論に自信が無いんだろ。だから訳の分からない言葉で俺を騙そうとするんだ。そう上手くはいかないぞ。今までは騙せたとしても俺は騙されない。そうか、
分かったぞ。お前の理論は全くのペテンなんだろう? それなら辻褄がつく。お前は精神の詐欺師だ! 全て出鱈目なんだろう! ほら、早く出鱈目だって言ってしまったらどうなんだ! ほら、早く!」
 途中から興奮してしまい、自分でも言っていることが整理できなくなっていたが、それはどうしようもない。全ては出鱈目を言っている男が悪いのだ。
 男はしばらく黙っていた。黙っている間、俺の顔をじっと見続けていた。一時も目を離そうとしない。俺は男の目を1秒も見つめていられなかった。男の目は俺の心を射すくめて、身動きを取らせてくれない。また、戦に勝った気になって、昂っていた俺の心を急速に冷やしていくような目でもあった。
 お互いに沈黙をたっぷりと味わった後、男は静かに口を開いた。
「辞書を自らの炎で燃やしなさい。そして、サイコロを放棄しなさい。目の中にあなたの道はないのです。終点に向かう裸足の兵士は、ただただ結末だけを見ているのです。あなたには光を所持している。しかし、そこまで辿り着く地図が未完成だ。私の全てを地図に書き込めば全ては照らされて、迷路は壁を失って、満たされた荒野のみが出現するのです。さあ。さあ。さあ! さあ!!」
 ガシャンガシャンガシャンガシャン!!
 男は激しい口調になっていた。しかしその口調が意味するものが、怒りによるものなのか、それとも別の感情によるものなのかは分からなかった。
 挑発に乗って、まともな話をしてくれると思っていた俺の願いは、全て虚しいままに消えた。ある種の悲しさが頭の中を占めていた。ダメだ。こいつとは話をしても無駄だ。俺と男の中では決定的に考えが違うのだろう。俺は自身の言葉を男への攻撃として使ったつもりだった。しかし、男はそれを別の意味で受け取ってしまったのかもしれない。いや、別の意味で受け取ったのだろう。話の通じない相手に、熱くなる方が馬鹿だということを、俺はすっかり忘れていた。これは一種の敗北だ。俺は、自分の意見が誰であっても通用するだろうと驕っていたのかもしれない。
 帰ろう。もうこれ以上何を言っても意味がない。今までの議論は全て空洞だ。早く帰って、この男を記憶の隅の隅の隅の隅にまで追いやろう。俺はパンフレットを力なく掴み、ドアに手をかけて、部屋の外に出た。

 

・・・・・・

 

 そこは一面の荒野だった。馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。建物が無い。嘘だ。あの灰色の、建物は? 馬鹿な。冷たい空気のロビーは? なぜだ。嘘だ。目の前にあるものは一体何だ? 嘘だろ。ただただ何もない。荒野。馬鹿な。嘘だ。なぜだ。なぜだ……。
 目を何回も瞑り、息を何十回も吸ってみる。しかし、俺の目の前にあるものは荒野だという事実に変わりはなかった。いつのまにか男と下らない議論を交わした部屋も消え去っていた。あるのは、俺と、男と、荒野だけだった。
 長い長い、ひたすらに長い沈黙が続いた。どれだけの時がたったのかは分からない。腕時計は動かなくなっていたし、スマートフォンもただの金属の物体と化していた。とにかく、長い時間が経ち、心の中にある疑問が風化しかけた時、男が近づいてきて、俺の肩に手をおいて話し始めた。
「あなたの心はこの空間と同化しています。地下室の中からあなたはとび出しました。そして取扱説明書を燃やし、全ての記号を分解して、ドアを叩いたのです。部屋を出た時、あなたは舟に乗る準備を決めていたはずです。あなたは自らを自らたらしめる瓶を、意志の礫で破壊したのです。私はあなたを祝福します。地下室、水槽、試験管、菓子折り、封筒、オルゴール、集中治療室、虫籠、ペットボトル、座敷。全ては放棄されるべきものなのです。あなたは舟の一員となり、今いる意味の荒野を離れ、無意味の海に向って進んでいくのです。大丈夫。あなたはカナリアを必要としていない。空白の路線図を胸に抱いて、ひたすら暖かな海を進みなさい」
 男に対する感情は消え去っていた。怒りや苛立ちといった感情的なものは、世界がはっきりしているから発生し得るのかもしれない。今まで存在していた固い常識と意味の鎧は、意味のないものに溶かされて、中の柔らかい現実をどこかに逃がしてしまった。俺は揺り籠から引き摺り降ろされてしまったのだ。
 あの部屋は確かに、現実に存在した部屋だった。しかし、思い返してみれば、コピー機の唸りと、男の支離滅裂な話は確かに現実とずれた座標軸にあったのかもしれない。あれは現実と非現実の境界だったのか。いや、俺が見ているこの風景は紛れもなく現実だ。現実のはずだ。では俺の今までずっと見てきた、常識と意味に守られた現実は何だったのか。それも俺にとっては本物のはずだ。
 現実から現実´。俺が今までいた世界は現実で、今いる世界は現実´。どちらも並行して存在する現実。しかし、現実´は俺を守ってくれるものなど存在しない。何も存在しないからだ。いつ帰れるかすら分からない。
 俺はある結論に至った。現実´を再定義して、また新たな鎧を作る必要がある。初めからやり直すしかないのだ。今は元いた世界に帰る術を何も知らないが、鎧が完成した時、俺はあの居心地の良い、母親の胎内のような現実へ戻ることができるはずかもしれない。もしできなかったとしても、その頃には現実´は現実と何ら変わりない機能をもっているはずだ。
 現実に戻るためには、現実´を知らなければならない。ここにいても、何も始まらない。俺は歩かなければならない。ここがどこだかすら、はっきりとしていないのだ。男は意味の荒野と言っていたが、そんなものを信じられるほど、男を信頼していない。男の言っていることは、現実´においては正しいのかもしれないが、正しさと信頼はいつも結びつくわけではない。俺はこれから現実´で様々な経験をして、そこから自らの正しさを作り上げていく。今の世界では、信じられるものはほとんどない。現実ではあんなに信じ切っていた思考でさえ、今では他人のように信じることができない。俺は俺の考えを再び信じることができるようになるために、歩き出す必要があるのだ。
 一歩ずつ、ゆっくりと歩きはじめる。砂を踏みしめていることを確認し、思わず安心する。突然、地面に俺が溶けてしまうことだってこの世界ではあり得るかもしれないのだ。俺は歩く。ひたすらに歩く。
 この荒野の先に、何が待ち受けているかは分からない。男の言う通り、舟と無意味の海というものがあるのかもしれない。しかし、それは男の定義であって、俺の定義ではない。俺はこの世界にあるものを俺自身で定義したいのだ。以前俺が現実を自分の解釈で定義したのと同じように。そして、再び常識と意味に守られた柔らかい現実を取り戻すためにも。