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コムギココメコ

忘れてもいいことを書くので不備忘録

『好き好き大好き超愛してる。』を「好き好き大好き超愛してる。」

 小説にはジャンル分けされていることが多い。例えば、推理小説、ホラー小説、時代小説などだ。ジャンルは星の数ほど存在すると錯覚してしまうくらい、沢山存在する。
 小説が様々なジャンルを兼ねている場合も少なくない。○○大学経済学社会学医学理学工学部みたいな小説もある。ジャンルにピッタリはまる小説が世の中の大体数を占めているならともかく、ジャンル分けしにくい小説があふれかえっている現代、もはやジャンル分けは無意味な気もするのだが、好みを明確にするためにジャンルが役に立つのだろう。
 今から紹介する『好き好き大好き超愛してる。』は、ジャンル分けをするのなら、恋愛小説だ。ただし、テンプレート化した悲劇を主軸に置いた、よくある恋愛小説ではない。「恋愛」と「小説」について書いているから、恋愛小説なのだ。
 この小説を読んだのは今年の秋だった。筒井康隆の文章(何の文章だったかは失念)に、舞城王太郎という名前が出てきた。気になったので、ネットで調べると、惹きつけられるタイトルが多い。その中で一番惹きつけられた『好き好き大好き超愛してる。』を図書館で借りたのが始まりである。
 殴られた、ような衝撃だった。今までに読んだことのないようなタイプの小説だった。もう読み終わってから2、3カ月経ったが、頭の中に刺青を彫られたように、くっきりと衝撃が残っている。1回ブログで感想を書いているが、あまりにもあっさりとしたものになってしまったので、読んだ時の感想を改めて文章化しようと決意し、今ブログに書いている次第だ。
 これから書かれる文章は感想文である。何かを論じてやろうという魂胆は無い。『好き好き大好き超愛してる。』を「好き好き大好き超愛してる。」ことについて、書き連ねるだけである。論文並みのしっかりした考えと文章を期待しているのなら、他をあたったほうが良いだろう。
 注意しておくと、ネタバレが含まれている。嫌な人はここで帰路に着いてほしい。

 

【作品名について】
 まず、作品名が凄まじい。恋愛小説に『好き好き大好き超愛してる。』なんて普通だったら絶対付けない。あからさますぎて恋愛という文字が好きな人々に敬遠されそうだ。恋愛という文字が好きな人とは思わないが、石原慎太郎は第131回芥川賞の候補にこの作品がノミネートされたとき、作品名に関して「うんざりである」と述べている。仕方がないことだろう。あからさますぎるのだ。
 しかし、この作品には『好き好き大好き超愛してる。』というタイトルしか付けられないように思えてしまう。もし小綺麗な名前だったら、小説内で書かれている愚直なほどの愛は最大限の力を発揮できなかった気がする。愚直なほどストレートな想いを伝えるには、愚直なほどストレートなタイトルでなければならないのだろう。
 これほどストレートな想いがあふれ出ているようなタイトルだが、注意したいのは最後に付いている句点だ。想いがそのままなら、否応にも文章であることを意識してしまう句点は付けないと思う。溢れ出る愛する人への想いを、小説という型にピッタリはまるように加工されているのだ。つまり、タイトルに付いた句点は、愛することに対する気持ちを小説という文章に込めまくっているという意志の表明だと私は考えている。
 
【内容について】
 次に小説の内容について触れていく。『好き好き大好き超愛してる』は、【冒頭(「愛は祈りだ」で始まる部分)】【智依子】【柿緒Ⅰ】【佐々木妙子】【柿緒Ⅱ】【ニオモ】【柿緒Ⅲ】から成り立っている。【柿緒Ⅰ】【柿緒Ⅱ】【柿緒Ⅲ】は同一の世界である。
 冒頭を除いた全ての章で共通するのは「死」である。
 恋愛小説で死はつきものだ。死は当事者を悲劇のステージに上げる効果をもつ。小説内で出てくる主人公たちも愛する人の死に触れていて、読んでいる人々にとっては悲劇の主人公に映る。
 だが、愛する人の死はリアルな形で訪れるとは限らない。【ニオモ】がその例だ。この章を読んだとき、私たちはこの小説が現実に寄り添ったものではなく、虚構であることに否応なしに気づくことになる。
 恋愛小説は、現実と同じような世界観で表現されたものが多い。あまりにも現実とかけ離れていると、感情移入しにくいからだ。ドラマチックすぎる所はあるが、現実に即しているからこそ、人は小説に対して感情移入がしやすくなり、結果として結末で感動することが出来る。
 しかし、『好き好き大好き超愛してる』は小説という虚構の世界を隠したりはしない。私たちは女の子を操作して、神と戦うことは無いのだ。
 共通点をもう1つ挙げておくと、当たり前ではあるが、「主人公が誰かを愛している」ということである。
 しかし、ここでもリアルな形の愛ばかり書かれているのではないことに気づかされる。【佐々木妙子】では、主人公(ツトム)は夢を通じて、人を愛することになる。
 章ごとに話は全く違っているし、話が繋がっている【柿緒Ⅰ】【柿緒Ⅱ】【柿緒Ⅲ】は間に【佐々木妙子】【ニオモ】が挟まれているため、一時停止を繰り返す。それでも、バラバラな小説にならないのは、「死んでしまった(死の危機に瀕している)人を実直に愛している」というテーマが章の核として存在するからだろう。

【物語と愛するということ】
 先ほども書いたが、この小説は虚構であることを隠したりはしない。しかし、その中で書かれている想いへの想いは紛れもなく本物である。
 「愛は祈りだ。僕は祈る」という書き出しで小説は始まる。書き出しで、小説の中で出てくる愛について断定していて、私は凄まじさを感じる。更に、「祈りは言葉でできている」と書かれている。言葉の中には物語や小説も当然含まれる。「この祈りこそが奇跡を起こし、過去について希望を煌めかせる。ひょっとしたら、その願いを実現させることだってできる。物語や小説の中でなら」と書かれ、冒頭は幕を閉じる。
 愛することは、物語を紡ぐということだ。この小説の主人公たちは、愛する人の行動やその中にある考えを想像している。そして、想像を仮定して、あれこれと物語を想像してみたりする。物語を想像するという事は、自分だけの物語を紡ぐということである。物語を紡ぐということは、祈るということである。そして、祈ることは、愛するということなのだ。
 主人公たちは本気で物語を想像する。その時、主人公が本気で愛していることに気づかされる。そこに何かしらの打算は働かない。だからこそ、小説という虚構の中でも、愛しているということが本物として映しだされるのだ。虚構と本物が共存するからこそ、この小説は私に衝撃を与えたのだと思う。
 愛することに対して、この小説は愚直なほど肯定している。「僕は世界中の全ての人たちが好きだ」と言い切っている。だからこそ、それぞれの物語が虚構であるとはっきりと気づきながらも、私の胸を打つのだろう。
 
 私はこの小説が大好きだ。愛していることに対してこんなに実直に書けるのかと驚いてしまう。恋愛小説というジャンルを超えた、超恋愛小説的な恋愛小説。それこそが『好き好き大好き超愛してる。』だ。主人公たちの愛し方には及ばないが、『好き好き大好き超愛してる。』を「好き好き大好き超愛してる。」と私は言い切る。ネタバレを多少してしまったが、それでも読んでみたいと思っていただければ幸いである。