コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

倉橋ヨエコは生に根差したネガティブである

 倉橋ヨエコの『東京ピアノ』というアルバムがいいぞ、と思ったので、曲紹介を書いていたのだが、はてなブログに歌詞を書きすぎるとアレ、みたいな話を思い出し、あえなくお蔵入りとなった。結構書き進めていたので体力の消耗も大きい。もっと早めに気付けなかったものか。
 せっかく書いたのに全部消してしまうのも悔しいので、倉橋ヨエコというアーティストの良さについて書いていく事にする。ボツ記事のリサイクルである。エコである。

 

 かなり音楽に依存している気がする。iPodが壊れてしまった時は大分狼狽していた。その時の話は以前ブログに書いたので、改めて話すことはしない。
 音楽によって気分が左右されるというのは、大体の人間が経験したことがあるだろう。また、人生に影響を与えた、までいうと過言になってしまうが、生きている中で好きになったアーティストというのは存在するだろう。
 自分の好きなものについての話をするのは楽しいのだが、現実でその話をするときは、文脈がかなり限定されるし、自分の好きなものに対して、相手がある程度知識をもっていないと、フワッとした話になってしまう。ブログならその点インモラルすぎる話をしないかぎりは何も起こりやしない。 話が脱線するのだが、インモラルの意味を間違えないようするために、Googleで検索したのだが、1ページ目にアダルトサイトが出てくる。「インモラル」という言葉を調べること自体がインモラルな行為だと思い込んでしまう。どうにかならないだろうか。脱線終わり。

 倉橋ヨエコというアーティストがいた。2008年に廃業(彼女自身の言葉を引用すれば)しているので、過去形になってしまう。最初聴いたときは、ちょうど精神がタラリラタラリラしていた頃なので、かなりのめりこんでいた。
 タラリラタラリラ期を脱してかなり経過しているので、今はあまり聴くこともなくなった。しかし、精神形成に多少なりとも影響を与えてはいる。
 倉橋ヨエコの曲は「ジャズ歌謡」「シャバダ歌謡」などと呼ばれていたらしい。確かに昭和チックな曲も多かったりする。私は歌謡曲チックなアーティストを好きになる傾向がある。
 また、倉橋ヨエコは「歌詞がネガティブで良い」などと良く言われていたりする。歌詞がネガティブなものが多いのは事実である。しかし、それは一側面であって、ネガティブな歌詞のみに目を向けていては、群盲象を評すことになりかねない気がする。確かに曲単位ではネガティブまっしぐらの曲もちらほらある。しかし、倉橋ヨエコはただネガティブなだけじゃない、と私は思っている。
 ネガティブには生に根差したネガティブと、死に根差したネガティブがある。これは私の理論である。倉橋ヨエコはおそらく前者だ。歌詞を見てみると、ネガティブな生活を言い表した歌詞は多いが、それらは死という終着駅に向かって進んでいるわけではない。むしろ歌詞の中に出てくる「私」は、健気に生きすぎているからこそ、傷つくことが多いから、結果としてネガティブになる。それでも生きようとする。生に根差したネガティブさこそ、倉橋ヨエコの特徴だと思う。
 また、ネガティブとポジティブが見事に両立しているのも倉橋ヨエコの曲世界の特徴だろう。
 世の中にはポジティブとネガティブは相いれないものであると考えている人も多く、ポジティブの世界ではネガティブは排斥され、ネガティブの世界ではポジティブは村八分にされる。
 しかし、本来ポジティブとネガティブは両立している。ポジティブが消えてしまえば、ネガティブも消えてしまう。同じポジティブ(ネガティブ)でも、ネガティブ(ポジティブ)に寄りそっているから、ポジティブ(ネガティブ)が様々な色をもって、美しく見えるのだ。

 

 倉橋ヨエコのアルバムは「礼」「思ふ壷」「婦人用」「モダンガール」はリマスター盤が再販され、「ただいま」「色々」「解体ピアノ」「終楽章(ベストアルバム)」は割と入手しやすい。
 私の一番好きなアルバムである「東京ピアノ」は廃盤になり、再販されていないので、入手しにくい。私も東京の中古CDショップを何軒もめぐり、やっとの思いで手に入れた。
 Youtubeニコニコ動画にも一部の曲はアップされているが、密漁であるし、特にニコニコ動画はコメント欄で自分の悲劇をハチャメチャに話したがる人が集っているので、やはりCDを買うことをおすすめしたい。
 人がもっているネガティブさとポジティブさをストレートに言い表しているからこそ、倉橋ヨエコの曲は印象に残るのかもしれない。