コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

20??020512134

 あいつは突然、何の連絡も無しにやってきた。
 仕事から帰った俺を、あいつは部屋の中で待っていた。あいつは白い襟付きのシャツとジーパンを履いて、俺の姿を認めると軽く手を上げた。
 あいつと会うのは今日が初めてだった。顔も見たことがないし、名前すら知らない。奇妙な奴で、警戒感と安心感をあわせ持っているように思えた。古くからの懐かしい友達と、存在だけはぼんやりと知っていた他人が同じパレットの中で混ざったような、と評するのが一番しっくりくる。
「どうした、ずいぶん遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」
 あいつは妙になれなれしい口調で話してきた。
「来るんだったら前もって言ってくれよ。急に来る奴だとは思っていたけれど、本当に急なんだな」
 名前も知らないような奴だが、俺はフランクに話しかけるのが一番合っていると思っていた。自分でも驚いている。
 普段の生活で数限りない初対面の人間と話す。電話口におそらくいるはずの取引先の社員、「温めますか?」と聞いてくるコンビニの店員、その他様々な場面で、俺たちは知らない人々と会話を交わすことになる。そのほとんどは、敬語のような、鎧をまとった言葉を使うことになる。しかし、あいつには到底敬語を使う気になれなかった。古い友人のような気分に浸ってしまうのだ。
「急に来るのがいいんじゃないか。この日に来るからってあらかじめ決めちゃ、何も面白くないんだよ。突然ってのが重要なんだ」
「……まあ、分からなくもないか。お前はたしかに突然来るのが似合ってる」
「分かってくれればいいんだよ。じゃあ、そろそろ行こうか」
「また急だな。別に明日でもいいんじゃないか?」
 明日でもいい。そうだ。別に今日行く必要はない。その気になれば明日でも、明後日でも、数十年後でも構わない。あいつと出掛けるのはいつだっていい。しかし、あいつは言った。
「明日じゃダメなんだ。今日行かないと。今日行く事はもう最初から決まっているんだ。誰にも変えられない。自分だって変えることができない。もちろんお前にもだ」
 あいつの言っていることは、全てが正しくて、全てが間違っているように聴こえた。未だかつて破られたことのない、張りぼての城。薄っぺらい紙のような鉄。実際のところ、単純に全てが正しくて、全てが間違っているのかもしれない。
「分かったよ。行こうか」
 俺とあいつは立ち上がって、玄関に向かう。ふと、レンタルしていたDVDがあったことを思い出す。俺はあいつに尋ねる。
「おい、DVDを返してから行ってもいいか?」
「別にもうここには来ないんだ。返さなくったて構わないさ」
 それもそうだな、と俺は思う。俺はこの家に、いや、この街に戻ることはもう二度とない。
「ところで、一体どこに行くんだ?」
 家の前の道を歩きながら、俺は尋ねた。
「こっから少し歩いたところにある、広い道路の交差点だよ」
「そこなら俺も知ってるぞ。後10分くらいで着くな。何か適当に楽しい話でもしようか」

 

 10分後、星が瞬く夜空の中を、大きく鈍い音が通りぬけて行った。