コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

視線を抜くとき、抜いた視線はどこに捨てればいいのだろうか

 電車に乗るという事は、不特定多数の人間と箱に入り、外から遮蔽されるという事である。

 最近、電車に多く乗るようになった。つい先月あたりまで電車に乗る回数は1ヵ月に1回も無いくらいだった。しかし、今月はすでに十数回乗ったのだ。

 急激な変化は体に毒なので、最初は電車に乗るだけで疲れ切ってしまうこともしばしばだった。鉄の箱に揺られているだけであって、実際に自分自身が足を使って数十キロも歩いているわけではない。それでも疲れてしまうのは、おそらく人の多さだろう。

 朝は東京に向かおうとすると大量の人との遭遇は避けられない。しかし、夕方になると、東京から離れようとするだけで、大量の人々が付随することになる。人が近くにいるだけで、余所行きの状態をずっと保たなければいけなくなる。疲れるのも当たり前だと思う。

 しかし、何日かすると慣れて来て、あまり電車で寝ることも少なくなった。すると、電車の中も見渡せるようになる。様々な人々が同じ箱の中で揺られている。仮に1つの車両に30人いたとしたら、基本的に60本の脚があり、60個の目がある。そして、1人1人違う視点を何かにぶつけている。

 中には眠っている、もしくはただ単に目をつむっているだけの人もいる。その場合は自分自身に視点をぶつけているのだろう。

 目をつむっていない人は何をしているのか。ほとんどの場合。本やスマートフォン、もしくは話し相手に視線をぶつけている。他人に対して視線をぶつけている人はあまりみられない。

 見ず知らずの他人から見られているという気付きは、大体不快感を引き連れてやってくる。見られているという事は、ほんの1秒たりとも余所行きの姿勢を崩せないという事だ。不特定多数の人物が一緒の空間にいる時、もっともしてはいけない行為は、その空間と結びつかない行為だ。例えば電車の中で肩をぐるぐる回してみる。おそらく、数秒のうちに沢山の視線が体に突き刺さるだろう。刺さった視線の1つ1つを体から抜いている間に、視線を送った人物たちは思い思いの行動に出る。中にはTwitterなどのSNSに空間と結びつかない行為を嘲笑と共に投稿する人物もいるだろう。ちょっとした監視社会だ。

 空間に結び付かない行為をすると、視線をぶつけられると書いたが、視線をぶつけるという行為自体も、不特定多数の人物がいる空間ではあまり好まれない。「何かあの人じろじろ私の事見てきて気持ち悪い」とか投稿される未来が見える。とんだ監視社会だ。

 視線を必要以上にぶつけないために、我々は電車でする事がなければ目をつむるのだ。目をつむっていれば、誰かに視線をぶつけることもない。誰かに視線をとやかく言われることもない。目をつむることは、自らを守る事なのだ。

 

 先日郊外の電車に乗っていると、女子高生が電車に飲みこまれてきて、吊り革に傘をぶら下げて座った。これは、あまり人が乗っていないからできる行為である。吊革につかまった傘は、電車の揺れと共に、調子の悪いメトロノームのように不規則にテンポを刻み続ける。

 メトロノームはテンポを狂いなく刻むのがアイデンティティであると一般的には見られている。しかし、メトロノーム側の意見は聞いた事がない。もしかしたらメトロノームはシャイな奴が多いのかもしれない。たまにはテンポを少し崩したいかもしれないし、テンポが遅い(早い)のが好きなのに、逆のテンポを強いられている可能性も否定できない。

 傘は不規則なリズムを刻む。プログレでも演奏しているのだろうか。傘の柄はしっかりと吊り革を掴んでいる。じっと見ていると、傘の柄が手に見えなくもない。あまりにも白すぎる手である。

 そんなことを考えていると腹が痛くなってきた。電車に乗る前にラーメンを少々食べすぎたせいだ。適当な駅で降りることを決意する。電車の唸り声は依然高いままで、早く唸りをやめて駅に着いてほしいと願うばかりであった。