コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

正解の眼鏡人

 眼鏡を掛けるということは、おしゃれ効果を狙って伊達眼鏡を掛ける場合を除いて、視力の死刑宣告と同様の意味をもつ。漫画やゲーム、読書などの犯罪を何件も犯してしまった結果だ。

 私の視力が死刑宣告を受けてから8年ほど経つ。それまでに何回か眼鏡は変わっていき、レンズがどんどん大きくなっていった。スピッツのギターの人が毎年髪型を変えていて、髪型を見るとどの年代に撮られた映像・写真かが分かるように、私も眼鏡のレンズの大きさを見ることによって年代を特定することができる。

 つい最近まで、レンズが大きいほうが良い眼鏡、というイメージが私の中に付きまとっていた。おそらく、眼鏡が似合っている人の持っている眼鏡が大きいレンズだった事が原因である。これは本質なのだが、大きいレンズのほうが似合う人がちゃんとレンズの大きい眼鏡を掛けているからこそ好印象を抱くのであって、それを鵜呑みにすると失敗が訪ねてくることになる。

 1番新しい眼鏡を掛けた時、瞬間的には似合っていると感じたのだが、家に帰ってあらためて鏡で顔を見てみると、「無能なHIKAKIN」が鏡に映っていた。この頃はHIKAKINがまだ有名になりはじめた頃で、私はHIKAKINの顔を漠然としか覚えていなかった。後々改めてHIKAKINの顔を見てみると、新しい眼鏡を掛けた時の自分に全く似ておらず、ただの無能が鏡に映っていることになってしまった。想像上のHIKAKINと実際のHIKAKINの乖離である。

 あまり眼鏡が似合わない私にとって、眼鏡が似合う人はそれだけで羨望の対象になってしまう。しかし、最近眼鏡が似合うという概念のほかに、「正解の眼鏡人」という概念が頭の中で生まれるようになった。眼鏡人とは、眼鏡を掛けている人のことである。

 私の中で正解の眼鏡人は、 堀込高樹氏(1番目の写真)と穂村弘氏(2番目の写真)である。

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 堀込氏はKIRINJI(キリンジ)の中心人物で、穂村氏は歌人である。雰囲気のベクトルが2人とも似通っていると私は思う。

 「正解の眼鏡人」と「眼鏡が似合っている人」は違う。「眼鏡が似合っている人」はたくさん存在するが、「正解の眼鏡人」は私のなかでこの2人しか存在しない。

 1段落を使って正解の眼鏡人に関連する私の思考と行動を述べる。KIRINJI(キリンジ)は好きなアーティストで5本の指に入る。また、堀込氏のソロアルバムを探しに都内の中古CDショップを駆けまわったこともある。Amazonではかなり値段が高騰しているためだ。結局見つからず、あきらめて渋谷のTSUTAYAで借りてしまった。穂村氏の短歌は初めて見た時かなり衝撃を受けた。私の中にあった、短歌は古めかしい言葉を使った花や鳥を愛でる堅苦しい定型詩という偏見をぶち壊し、短歌って色々やっていいんだなと考えるきっかけになった。

 私は、正解の眼鏡人の世界観が好きなのだ。眼鏡が似合っている人は、眼鏡を掛けた姿が好きなのであり、世界観まで好きになることは無い。世界観を知る前に一生会わなくなることもしばしばだ。正解の眼鏡人は、眼鏡だけでなく、その人の世界観まで好きだからこそ正解なのだ。そして、世界観に眼鏡が似合っている。なんというか、眼鏡をかけていなかったら、私の好きな世界観ではなかった気がするのだ。

 みなさんにも正解の眼鏡人は存在するだろうか?

 

追伸 丸メガネをかけている人って、みんな趣味が一眼レフを使っての写真撮影と邦ロックを聴くことっぽい気がする。そういう世界観で生きている気がする。世界観の偏見だ。