コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

大きいサツマイモへの嫉妬

 世界には沢山の表現であふれていて、おそらく星より圧倒的に多く存在する。日本語というカテゴリーだけにしても、まだまだ星より多いだろう。色々な事がやり尽されている世の中で、まだまだ日本語を使った表現は尽きそうにない。誰かが「もう尽きただろう」と言っている横で溢れ出たりしている。

 そんな沢山の表現であふれかえっている世界に生きていると、おのずと自分の心に刺さる表現が現れる。それはテレビを見ている時かもしれないし、本を読んでいる時かもしれない。友人と喋っている時だってあり得るし、誰とも喋っていない時に、不意にどこかから聞こえる事もある。勝手に自家鋳造されることもたまにある。

 自分の心に刺さる表現を目にすると、こんな表現があるのかと一種の感動を覚える。前々から欲しかったけど絶盤で手に入りにくいCDが中古ショップで見つかった時の感動とは違うものだ。あっちはあっちで良いものがあるけれど。表現に感動した人々は誰かに言いたくなったり、ノートや心に書き留めたりする。Twitterで名言集やポエムが人気になり、沢山の人々がRTやお気に入りをするのと同じことである。

 私も自分の心に刺さる、新しい表現に出会うと感動を覚える。語彙力は少なくなる。本当に感動した時に語彙力が少なくなるのは、自分の説明できるキャパシティを超えているのと、いくら自分の語彙力を駆使して説明したところで、その感動を相手にそのまま伝えることができないためだろう。一人一人表現に対する感動のストライクゾーンは違うからだ。

 とてつもない表現に遭遇する。感動を覚える。すごいとしか言えなくなる。しかし同時に、私の心の中では別の感情が芽生える。

「悔しい」

 感動がドアを開ける時、同時に嫉妬も部屋に入ってくるのだ。同じ日本語を使っている人間なのだから、自分が先に見つけることも可能だったのではと思うのだ。先に財宝を掘り当てられたような気分になる。私はサツマイモとじゃがいもしか掘った事がない。

 掘り当てた大きいサツマイモを持っている人を遠くから眺めながら、やられたなあ悔しいなあ先に掘り当てたかったなあとひとしきり悔しがった後、でもすごい表現だよなと感心する。背反する2つの感情。どっちが本物なのか。おそらくどっちも同居可能だろう。

 最近の事例を紹介する。短歌をイラスト付きで紹介するツイートを見ていた時に、素晴らしい短歌に遭遇した。

 

 縦書きの国に生まれて雨降りは物語だと存じています(飯田和馬)

 

 とてつもなく大きいサツマイモだ。感動を覚えると同時に「やられた!」とも思う。雨降り、縦、物語、ああああああ。何で早く気が付かなかったんだろう。逃したさつまいもはとてつもなく大きく、押しつぶされてしまいそうだ。

 他にも好きな歌の「喉ぼとけ鳴らす音程」、フォロワーが何の気に無しに呟いた(戸思われる)「スズランテープみたいな咳」など、大きいサツマイモはそこかしこで収穫されていった。それを見ながら私は、自分のカゴに入っているサツマイモを見る。何と小さなサツマイモだろうか。

 変な対抗意識だとは自分でも思っている。素直に感動すれば良いと思っている。しかし、負けず嫌いな性格であるため、直すことは到底不可能な気がする。私も大きいサツマイモを手に入れたいと思う。

 

 今日も大きいサツマイモを掘り当てた人がいないかビクビクしながら、私は畑を掘り進めるのである。