コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

読書感想文その13

 本を最近また読み始めた。1日の大半を水中で過ごしているので、たまに外に顔を出したくなる。その役目を担っているのが趣味であり、読書なのだ。

 色々な知識を頬張って、何かしらにアウトプットすればいずれ救われるかもしれない。そんなことを思いながら日々生きている。私は短歌や小説を時々詠んだり書いたりしているのだが、それらを作る大きな理由の1つとして、一生に一度くらいはものすごいものができて、その時魂は救われるのではないかと考えているからだ。社会に不満は抱いていないけれど、何かしらのぼんやりとした不安がいつもつきまとっている。そういう不安に打ち勝つために、何かしら訳のわからないものを作っているのだ。

 前置きが長くなったが、読書感想文のコーナーである。

 

石黒圭『語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング』 (光文社新書

語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング (光文社新書)

語彙力を鍛える 量と質を高めるトレーニング (光文社新書)

 

 皆さんは自分のことを語彙力があると思いますか? 私はあれがやばいのでこれになってしまう。さすがにこれになるのはやばいと思い、なんか紙束がいっぱい売ってるところでそれを買って読むことにした。結果、やばいことが書いてありやばいと思った。

 著者の石黒氏は語彙力を、語彙の量(豊富な語彙知識)×語彙の質(精度の高い語彙運用)と定義していて、どちらに偏ってもいけないと述べている。確かに語彙力を鍛えようとしてたくさん言葉を覚えたとしても、使い方が悪ければ宝の持ち腐れになってしまう。時と場所と状況を考えた使い方をしなければならない。

 また、書き言葉と話し言葉の違いについて書かれていた部分は興味をそそられた。これは語彙の質にかかわってくるだろう。確かに、書き言葉には適しているが、話し言葉には適さないものもたくさんある。

 石黒氏は語彙を様々な切り口から紹介している。語彙を増やすためにはどうすればいいか、言葉を使うときどこに気を付ければいいかなど、日本語をしっかり使うためのヒントを我々に与えてくれている。最近の社会的背景と語彙を照らし合わせている場面もある。

 この本を読んだからと言って、語彙力が豊富になるわけではない。しかし、語彙力と日本語について考える良い機会になる。この本を読み、語彙について意識して書く/話すだけでもかなり違うと思う。私自身も語彙力があるほうではないので、これから語彙力を適したやり方で鍛えていきたいと思う。やみくもに鍛えてもあまり効果がない。これは筋トレと同じだと思う。

 

穂村弘『整形前夜』(講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)

整形前夜 (講談社文庫)

 

 サバンナのぞうのうんこに心情を吐露することでおなじみ、穂村氏によるエッセイである。ちなみにタイトルになっている『整形前夜』 は、「整形前夜ノーマ・ジーンが泣きながらウサギの尻に挿すアスピリン」という短歌が元らしい。ノーマ・ジーンとは20世紀を代表するセックスシンボルである、マリリン・モンローの本名である。

 穂村氏のエッセイは、自意識と世界のズレを書いたものが多い。理想の自分に憧れつつも、なかなか行動に移せない、それでも理想を捨てられずに生きる人間の叫びのようなものだ。結果として、短歌で成功した(成功とは何か?)ので、自意識はある程度報われているし、結婚もしている。自意識過剰な人間は私も含めてこの世にたくさんいるが、何か行動しないと報われないのだ。これは報われた先輩のエッセイである。先輩に続け。

 この本の1番興味深い部分は、穂村氏の考え(思想)がはっきりと主張されているところである。我々は世界を「生き延びる」必要があり、「生き延びる」ためには「用」「役に立つ」「なくては困る」ものに目を向けていなければならない。しかし、穂村氏は「不要」「役に立たない」「なくても困らない」ものの重要性を説き、それらに目や耳が向かなければ「生きている意味がない」と感じている。

 意味だらけの世界は疲れるし、できれば私も無意味をとことん愛したい。しかし、社会は無意味を認めてくれない。意味に必死にしがみつきながら、半ば社会に対する反抗として、意味のないツイートをしてみたり、短歌やブログを書いたりする。こういうことをやっていると適性検査などで「芸術家タイプ」と書かれ、社会に適合しないことが示される。

 また、もう1つ興味深かったのが「共感」と「驚異」について書かれた3つのエッセイである。穂村氏は詩や俳句や短歌が読まれづらい理由として、「わからない」からだと述べている。そして、今の読者は「わからない」という「驚異」よりも、「泣ける」「笑える」という「共感」を求めていると主張する。よくあるパターンとして、若い表現者は「驚異」を求めるが、年をとるにつれ過去の重みが増し、「驚異」から「共感」に移行する。しかし、最近は若者たちが「共感」よりにシフトしている。「ありのままでいい」「しあわせは自分の心が決める」など、普遍的な言葉が若い人々の共感を読んでいる。その世界を穂村氏は危惧している。

 「共感」とは意味ではないか、と私は考える。意味のある言葉たちが沢山の人々の心を掴む。一目で意味が分かるものが好まれている結果、分からないものは分からないまま処理されているのではないか。個人的には、今の人々は分からないものを「シュール」という言葉にとりあえずカテゴライズしているような気がする。そういった使いやすい言葉に分からないものを詰め込んだ結果、その引き出しは壊れ、永遠に開けることができなくなるのではと、私は恐れを抱いている。

 私にとって『整形前夜』は、読んでクスリとできるエッセイというよりも、意味との闘いに立ち上がらせてくれるための気つけ薬のように思えるのだ。