コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

【好きな短歌④】ボウリングだっつってんのになぜサンダル 靴下はある あるの じゃいいや/宇都宮敦

ボウリングだっつってんのになぜサンダル 靴下はある あるの じゃいいや

宇都宮敦『ギブン・ソングス』(ねむらない樹 vol.1,2018)

 

 人によって、好きな短歌、心を動かされる短歌の基準になるものが多少なりともあると思う。数十年にわたり一貫している人もいるだろうし、数か月、数週間、数日毎に変化する人もいるだろう。どちらも自分が納得できていれば良いと思う。

 私にとっては心を動かされる短歌は、簡潔に言うと「空気が動いている短歌」である。上の歌はまさに「空気が動いている短歌」だと思う。

 主体はボウリング場にいる。何人で来ているのかはこの歌の中では分からないが、その中の1人に視点は向いている。その人はボウリングをするのにも関わらずサンダルで来ている。つまり、靴下を履いていなかったのだ。

 主体はいま、遊びが成立しないという危ない状態に立たされている。その人がサンダルを履いてきてしまったばっかりに。遊びが成立しないと、別の遊びを一から考え直すか、遊び自体を無しにするかの二択になる。どちらを選んだとしても少し面倒だし、もうボウリングの気持ちでいるのにもかかわらず、やっぱり無しと言うのではもやもやが残る。

 その危機は、「だっつってんのに」という苛立ちを隠し切れない口調からも感じ取れる。促音が多用されるため、「だっつってんのに」の「だ」「つ」「て」に力が入り、口調が強くなる。

 遊びが成立しないという危機的状況を迎えた主体。しかし、サンダルの人は靴下を持っていた。靴下を持っていたことにより、危機は引き潮のように去っていく。そして、サンダルは主体の中では急速な無関心なものと化していく。

 それが下句の投げやりな口調につながっていく。「靴下はある」でボウリングが成立することがほぼ確定する。「あるの」でダメ押しをして、「じゃいいや」で、今まで歌の中で出ていた苛立ちや危機感は全て消える。日常の小さな危機から解き放たれるたとき、もうそれはどうでもいいものになる。

 ボウリングでの一幕を話し言葉で書ききる。状況を分かりやすくしようと試みれば試みるほど、話し言葉からは遠ざかっていくものだが。この歌は状況を掴みやすいのに話し言葉を失っていない。この2つを両立させることは物凄いことだと思う。

 両立させたことによって、会話の断片は景色を、そして空気をも動かしていく。ボウリング場のピンとボールがぶつかる音、流れるBGM、横並びのモニター、他の客が発する声、ボウリング場を漂う上ずった空気が頭の中で蘇ってくる。

 

 良い短歌は空気が動いていると、改めて感じさせてくれた歌だった。