公園のふたりは黙る しゃべるより芝生のほうがおもしろいから
斉藤斎藤『比例区は心の花』(斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』収録)
誰かといる時に話が盛り上がるという状況は、相手と話している状態が心地よいと言える。2人の関係は友人なのかもしれないし、恋人、同僚、大学の先輩後輩、先生と生徒、いくらでもカテゴライズできる。
対して、黙っている状態に関しては気まずさを感じてしまう場合が多い。初対面の人と会った時に、共通の会話が特に思いつかず、ただただ黙って状況を打破してくれそうな人や出来事の登場を待ち続ける。中にはそういった沈黙に耐え切れず、どうにかこうにか会話を繋いでいこうと、持っている手札をやりくりしながら話し続ける人もいるだろう。
では、歌の中に出てくる『ふたり』は気まずい関係なのだろうか。個人的には違うと思う。気まずさを感じるほど、まだ構築されていない関係であるのなら、ふたりで公園には行かないのではないだろうか(何人かで公園に行って、トイレなどに行ってしまった結果、残されたのがふたりだったという可能性は考えられなくはないが、この文章では考慮しないことにする)。
気まずさではないのなら、どういう関係なのだろうか。ここで考えられるのは、黙っていても場が保たれるほどの信頼ができている関係、喋らなくても良い関係である。
喋るという行為は、場を保つ効果がある。黙った途端に場は停滞する。しかし、その停滞に関して気まずさを感じないほどの信頼感がこの歌の『ふたり』の中で構築されていると、個人的には解釈したい。
黙るふたりのうち、主体の心は芝生に向いている。芝生がおもしろいとはどういう状態なのだろう。芝生のディテールに何か興味をそそられるものがあるのかもしれないし、芝生から自分の想像がスタートしていって、想像された何かがおもしろくなっているのかもしれない。そのおもしろさが頭の中にあるとき、相手の存在は隅におかれる。『芝生』のほうがあなたと『しゃべる』よりおもしろいとしても、崩れることのない関係は、かなり理想的な関係なのではないだろうか。
ふたりが『黙る』ことに関して、『気まずい』と解釈するか、『信頼し合っている』と解釈するかで、この歌の読みはかなり変わってきそうだが、私は後者の解釈が好きである。
ここからは歌と直接的な関係はないが、この沈黙していても崩れることの無い関係について、風見2さんという方が漫画にしているので、最後に紹介してこの文章を終わりにしたい。
4コマ「別に喋らなくても大丈夫な友達」 pic.twitter.com/DhTbciO2ZA
— 風見2 (@_Kazami__) September 1, 2018