コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

【好きな短歌⑥】全員で死に方さがした日の えっ?えっ、えっ?打ち上げが、あったんですか?/直泰

 

全員で死に方さがした日の えっ?えっ、えっ?打ち上げが、あったんですか?

直泰『刑務所のみんなで歌ったふたつのJ-POP』(稀風社『墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった』収録)

 

 好き/嫌いや、愛という大きな概念を持つ単語は、自分の感情をストレートに表出することができて、使い勝手に優れる。特に死という単語は、大きい単語の中でもトップクラスにポピュラーな言葉だ。誰だって一度くらいは死にたいと言ったことがあるだろう。
 使いやすさは、擦り減りやすさと言い換えることができるかもしれない。みんながこぞって使うことによって、かえって感情がぼやけてしまうことがある。愛しているや死にたいに耳が慣れてしまった私たちは、それらの言葉を重く受け止めずに流してしまうようになってしまっているのかもしれない。
 今回引用した歌でも、死という単語が使われている。しかし、この歌では死という単語を使うことをゴールとはせずに、むしろ死という単語を踏み台にして、死だけでは表しきれない絶望を生み出すことに成功している。
 何人かで集まって死に方を探しに行く。SNSなどを通じて集まったのだろうか。集団自殺がニュースになっていた時期があったが、この歌はその前段階である。いわば下見のようなものだ。全員という、集団で死というゴールに向かっている、一種の仲間意識のようなものがちらついてしまう。あまり悲愴感が感じられないように思えてしまうのだ。主体も、その仲間意識に動かされながら、死に方を探しているように感じられる。
 なんというか、この<死に方さがし>に参加している人々は、すぐには死なないんじゃないかなという気持ちにさせられるのだ。
<死に方さがし>が終わって、主体は一旦生活へと戻る。しかし後日、主体は何かの拍子に、その後打ち上げがあったことを知ってしまう。死に方を探した人々は、ある程度やり遂げた達成感からか、打ち上げをしていたのだ。やはり、彼らに死ぬ気なんてなかったのだ。
打ち上げは物事を締めるような働きをもつ会なので、<死に方さがし>はいったん終了する。死に方さがしの終わり=実際に死へと向かう、と考えられなくもないが、打ち上げを企画しようとする、あるいは声がかかる人間は、社会にいてもなんとかやっていけそうで、つながりを断ち切ることができないように思えるのだ。
 対する主体は、打ち上げに誘われていない。<死に方さがし>をしたグループから断絶されてしまっている。なんて残酷なのだろうか。<死に方さがし>をしたグループで、主体はいなかったもの、存在を認められなかったものとなっている。もう、そのグループで主体は死んでいる。
 その動揺が一字空け後の、「えっ?えっ、えっ?打ち上げが、あったんですか?」という部分からも伺える。読点が入ることで、思考がまとまらない様子が出ていると思う。
 死ぬことを考えている人間からも断絶されてしまう、これは死ぬことよりも怖いことのように思える。死んだ後も、同じ死者たちの歓迎会に呼ばれないように思えてしまう。前にも後にも断絶が見えてしまうような気がする歌だ。主体はもう生きることも死ぬこともできないのではないだろうか、
死を使って、死を超えた絶望感を生み出せる短歌は、そうそうないと思う。