コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

天然物の水餃子を見たことがない、そういう大学に通っていないから

11月23日(月)

 水餃子を購入した。いつものようにお湯に放流しようと思い、裏の説明書きを見たら「電子レンジでの作り方」という文面があった。どうやらいつの間にか電子レンジでの調理に対応していたらしい。

 温泉に水餃子を大量に放流したらどうなるのだろう、という気持ちが少しある。大量の湯煙の中、ゆらゆら揺れている水餃子。

 柚子湯があるんだったら、水餃子湯があってもいいような気もするが、柚子は香りがいいというメリットがある。対して水餃子は香りがあまりない。水餃子を香りという側面から語る人がいた場合、おそらく水餃子系の国家資格をもっている人だと思う。また、水餃子は皮が柔らかく、容易に破れてしまう。すると中の具が湯に広がって、見た目がとてもよくない。ゴミに見えてしまうだろう。

 水餃子サイドも、外敵から身を守るためにいろいろ工夫したほうがいいような気がする。我々が見かける水餃子は養殖であるため、もしかしたら天然物は皮が固いのかもしれない。大学で水餃子を専攻していなかったため、私には分からない。

 電子レンジで水餃子を解凍するためには、大さじ一杯の水をまんべんなくかけてやり、その上からラップをふんわりとかければいいとのことだった。まさかと思いつつ電子レンジに入れる。数分後、ちゃんと解凍されていた。すごい。

 こうして私は、また一つ知識を獲得したのだった。

 

11月30日(火)

 仕事をしていたら、急に一つの短歌を思い出した。

 

あふれやまないコーラな夜は雑な敬語の使い手である君にまかせた

/宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社、2018.11.27)

 

 好きな短歌はいくつかあるけれど、日々の中で思い出せる短歌はかなり少ない。どこがトリガーになって思い出したのかは分からないが、1日中頭から離れなかった。

 一日中同じ音楽が頭の中で流れている、というのはときどきある。曲全体というよりは、ワンフレーズだけが繰り返されるパターンのほうが多い。

 一番最近頭の中で延々とリピートされていたのは、くるりの『TEAM ROCK』という曲の「ロックチームくるりのかかえる苦悩」という部分だった。これもトリガーとなった要因が全く分からない。

 こういったフレーズのリピートは、私の頭の中にある再生機器の充電が切れるまで繰り返される。ある日突然再生が止まり、メモでも残していない限りリピートしていた記憶も失われていく。

 今は何もリピートされていないが、それは再生機器が充電中なだけなのかもしれない。

第31回文学フリマと気持ち

11月22日(日)

 第31回文学フリマ東京に参加した。詳細については主宰しているサークルのブログに書いているので、是非そちらを読んでいただければと思う。

maisonlc.home.blog

 小説合同誌『メゾンの屋根裏』では『血をめぐって』と『なぞ太くんのなぞなぞ大冒険』という小説を書いた。

 『血をめぐって』は自分の経験が多く反映された結果、書いている途中でしんどくなる事態が何回か発生した。しかし書かずに考え続けるのはもっとしんどい。

 このブログの記事を書いているのは2021年1月だが、日に日にダウナーな気分になっていく時間が増えているように思える。外に耳を傾ければ不安ばかりが煽られ、内側では不安に煽られた精神がいまにもバランスを崩しそうだ。何もしないで考えていると精神が耐え切れなくなるので、文章を書き、自分を強化するために学び続ける。私は私を心配しているが、心配することしかできない。

 『なぞ太くんのなぞなぞ大冒険』は、自作のなぞなぞを小説内で消化するために作った。結果として、小説になぞなぞが挟まったものができあがった。

 『休日の重なり』という短歌冊子も頒布した。1年に1回アーカイブ的に短歌冊子を作っておくと、後々見返したときにどういう方向で短歌を作っていたのかが分かる。短歌冊子を作ることで、自分に一区切りつけることができるところも毎年出すことのメリットになっている。

 検温が実施され、インドカレー屋など食べ物・飲み物の出店が無くなり、近くのタリーズは休業するなど様々な違いが明確になった文学フリマは、サークル内の売り上げこそ昨年より落としたものの、無事に終わることができた。参加したメンバーも今のところ健康状態に問題は無い。いつもなら無事に始まることばかり意識が向いていたが、今年は無事に終わることばかり意識が向いていた。様々な違いはあれど、一番個人的に大きかった違いはその意識かもしれない。

 

komugikokomeko.booth.pm

 

 通販も行っているため、興味のある方がいらっしゃれば是非のぞいていただければ幸いである。

 

 不安が渦巻いている2021年1月、今後文学フリマに文学以外の事を考えないで参加できる日が来るのかは分からない。私たちのサークルは毎年秋の文学フリマ東京に出店しているが、秋になったら状況が落ち着いているかは全然分からない。私もあなたも、どうなっているのか全く分からない。

 生きることも、生き延びることも難しい中で過ごさなければならない。

聴いたアルバム紹介(Oneohtrix Point Never、冥丁、Blonde Redhead)

Oneohtrix Point Never『Magic Oneohtrix Point Never』

f:id:komugikokomeko:20210112162301j:plain

 2020年リリース。「架空のラジオ局の放送」というコンセプトで制作されたらしい。

 放送が始まったことを告げるジングルめいた「Cross Talk I」から始まるアルバムは、前半~中盤にかけて光がゆるやかにさすようなシンセサイザーが中央に据えられている。

 上述した雰囲気は11曲目の「Answering Machine」あたりから変化を見せ、光が弱まっていく。

 12曲目の「Imago」で繰り返されるボイスは、2011年にリリースされた『Replica』というアルバムの執拗なボイスサンプルの繰り返しを思い起こさせる。また、14曲目の「Lost But Never Alone」で挿入されるギターソロは、2015年にリリースされた『Garden of Delete』でも用いられていた。今までに出してきたアルバムが結びついているような印象を受ける。

 個人的に1番好きな部分は、17曲目の途切れるような終わり方だ。ラジオがいきなり消されたような感覚になる。ただし、日本版だとボーナストラックが入るので余韻が失われるような気もする。

  

www.youtube.com

 

冥丁『古風』

f:id:komugikokomeko:20210112164645j:plain

 2020年リリース。

 ジャケットからも分かる通り、昔の日本の文化がコンセプトとして据えられたアルバムである。サンプリングされている素材も昔の歌の節回しや和楽器が多い。

 ノイズの使い方がとても効果的で、時間の経過・風化を印象付けるだけでなく、雨が降っているようにも聞こえる瞬間がある。抒情的なノイズというべきだろうか。そこに静謐なピアノが入ってくることで、経験していない時代のノスタルジアが流れ込んでくる。

 1番好きな曲は、4曲目の「貞奴」だ。静かな曲が多いが、この曲は比較的なアップテンポ寄りだ。繰り返される素材が短い間テンポアップするところが聞きどころだと思う。

www.youtube.com

 

Blonde Redhead『Melody Of Certain Damaged Lemons

f:id:komugikokomeko:20210112165752j:plain

 2000年リリース。物悲しさと衝動が合わさったアルバムだと思う。

 2曲目の「In Particular」がかなりツボに入っていて、毎日何回も聴いていた時期があった。徐々に音数が増えるリズムや、途中で2回ほどパターンが変わるギター、ウィスパー気味のボーカルが、少しメランコリックな雰囲気を生み出している。

 また、9曲目の「For The Damaged」はピアノ主体の曲だが、聴いていると何かを失ってしまったような気分になる。ダウナーな気分の時に聞くとメンタルを持ってかれそうだ。

 荒々しさを爆発させる10曲目「Mother」の後に流れる、ラストの曲「For The Damaged Coda」は(ジャケットには記載無し。隠しトラック扱い?)『Rick and Morty 』という海外のアニメで使用されたらしく、なぜかインターネットミームになっていた。何かを失敗したシーンで『For The Damaged Coda』が流れる動画がYoutubeではいくつも視聴することができる。

 

www.youtube.com

不思議の国のアリス展や、バターとしてのライフプラン

8月29日(日)

不思議の国のアリス展」を見に行った(現在は公開終了)。

www.city.niigata.lg.jp

f:id:komugikokomeko:20210111212704j:plain


 展示を見るまでに小説を読み切ろうと思っていたが、3分の2ほどしか読み進めることができなかった。3マス戻る。

 会場の新津美術館までは、公共交通機関だと最寄り駅から25分ほど歩くかバスを使うことになるのだが、バスの本数は少ない。幸いにも同僚の車に乗せてもらえたため、比較的スムーズに会場までたどり着くことができた。人生ゲームだと数マスほど進めるイベントだ。

 その日はかなり暑く、虎は木をグルグルと回らなくてもバターになっていただろう。世界的に猛暑が続くと虎がバターになり、スーパーではバターが特売になり、マーガリンが嫉妬することになる。

 展示は作者ルイス・キャロルが「不思議の国のアリス」を書くまでの経緯や、作品の挿絵など周辺に関するエピソード、「不思議の国のアリス」と続編の「鏡の国のアリス」の話を辿りながら展示される絵画、アリスの世界観にインスパイアされたアーティストの作品などが展示されていた。また、謎解きも開催されていたため、親子連れもそこそこいた印象を受けた。

 また、「不思議の国のアリス」のサイレント映画が流されていた。10分程度だったので見てみると、昔の作品であるためフィルムの劣化が激しい。アリスが迷い込んだ世界を、時間によってもたらされたノイズが侵食して行くようなイメージが思いがけず生み出されていた。

 その後は先述した、インスパイアを受けて生み出された作品を見ていた。アリスをモチーフにした映画を作っていたヤン・シュヴァンクマイエルの作品はあるだろうなと思いながら見て行くと、やはりあった。お土産コーナーにもヤン・シュヴァンクマイエルの冊子があった。1日の摂取量を超えているような気がする。

 お土産コーナーではクリアファイルを購入した。様々なグッズが売っていたが、比較的安価で使いどころがあるものだとクリアファイルが一番良いように思える。

 本当は気になったものがあったら購入しておくべきだとは思う。予算を気にしすぎて購入を躊躇すると、その後一生巡り合わない可能性も大いにある。わたしはこの躊躇で金沢21世紀美術館で販売されていたお洒落な服を買い逃したことがある。

 会場の外に出ると、外はうだるような暑さが続いていた。このままではバターになってしまうと思っていると、同僚の車がやってきたためバターにならずに済んだ。

 人間や動物からバターへの変化は不可逆的であるため、一度バターになってしまうと、その後はバターとしてのライフプランを考えて行く必要がある。

【短歌の感想】3分半くらいの動画を送信し この世の時を増やすってこと/左沢森

3分半くらいの動画を送信し この世の時を増やすってこと

/左沢森『VとR』(『ねむらない樹 vol.4』、書肆侃侃房、2020.2.1)

 

 この短歌の一番良いと思うところは、「3分半」という時間のチョイスだ。

 世の中には多種多様な再生時間の動画が存在するが、動画を発信する媒体によっては再生時間に制限がある。例えばTwitterは個人のアカウントでは基本的に2分20秒までの動画しかアップロードできない。TikTokはさらに短く、1分だ。

 また、YouTubeでは8分以上の動画になると広告を動画の途中でつけることができる。手軽に広く発信されるためには短い時間の動画、広告をつけるには少し長めの動画と、再生時間一つをとっても動画に付随する発信力(もっと露骨にいえばバズを引き起こす力)や広告力が見えてきてしまう。

 上記の短歌で記載されているのは「3分半くらいの動画」だ。試し撮りにしては時間が長いため、ある目的を持って撮影されているのだろう。動画を撮る目的はおそらくあるのだが、そこにはバズや広告といった動画に付随する力があまり見えてこない。なぜ歌中の主体が動画を送信するのかは読み取れないが、単純に送りたい、もしくは送る必要があるから送ったのだろう。動画を送ることで発生する利益が、この歌から見えてこないところに興味を惹かれた。

 下句の「この世の時を増やすってこと」は、動画を送信することによって、「この世」にある再生時間を含めたあらゆる時間が増えたことを示していると解釈した。この文章を書いている今も、多くの動画がアップロードされ、「この世の時」は増えている。「ってこと」という終わり方も歌に程よい軽さを与えていると思う。

 

 この歌は東京の歌会で初めて見かけて以来記憶に残っていたため、雑誌に掲載されたことで感想を書く事ができて嬉しく感じる。

2021年の過ごし方

 私のほうから見ると2021年になったような気がしますが、皆さんはいかがですか? まだ2020年にいる方は西暦が故障している可能性があるため、カスタマーセンターに電話することをおすすめします。ただし、西暦の保証期間はすでに終了しているため、修理代がかかります。

 

 昨年はメンタルの浮き沈みは小さくなったが、その分自分の方向性について考える機会が多くなった。年々気力が減っているような気がするが、何が原因なのかは分からない。心当たりがありすぎるのだ。仕事、食生活、睡眠……。間違いが多すぎてどれが間違いか分からない状態になっているのかもしれない。

 しかし、作りたいものはあるし、作ったものはできるだけ私の元を離れてほしい。いつまでも私の記憶に残らず、次に作ったもので上書きし続けていきたい。そのためには、アウトプットを今まで以上に行っていく必要があり、今まで以上に行っていくために、時間を有効に活用する必要がある。

 

 昨年、以下のような目標をたてた。

①本を40冊以上読む

②ブログの記事を60本以上書く

③30首以上の連作を3つ以上作る

文学フリマ以外に小説を3つ以上作る

⑤サークル(メゾン文芸部)のブログを定期的に更新する(1か月に2記事以上)

⑥健やかに生きる

 

 結果としては、どれも達成することができなかった。残業時間が増えるにつれ、読書や創作の時間が減っていった。読書やブログ記事、連作や小説に手を出す事ができたが、目標までは届かなかった。

 健やかさに関しては、生活の中でよく分からなくなってしまった。実は生活って、身体に悪いのではないだろうか。生活を自主回収しましょう。

 

 2021年になった今、未来にいる私をより良い方向へ進ませるための目標を考えた。数値目標は以下の通りである。

Twitterに掌編小説を50本以上投稿する

②ブログを60本以上投稿する

③本を50冊以上読む

④自分が面白いと思えるものの追及と研究

 

 現在、小説を年に2回程度しか書いていない。それでは自分の納得いく水準まで到達していかないと思う。また、自分の好きなものや面白いと思ったものをこれまで以上に発信していきたいと思っている。

 また、本も買うだけ買ってなかなか読めていない。自分の精神世界にこもりきりではなく、読書をする時間をはじめ、外のものと触れ合う時間を増やしていきたい。

 面白いものを作るためには、自分が面白いと思うものがなぜ面白いと思えるのかを考えていく必要がある。

 

 何もしないで自分の精神世界に閉じこもっていると、劣等感や自己否定にどうしても向かっていってしまう。そういった気持ちを味わう暇がないほどに、文章を書き続けたり、短歌を作ったり、アイデアを考えていたりしたい。 

 

「どうせ今年も未達成で終わるんでしょ」

 

 間に合わなくなる前に、今年は達成するぞ! あといきなり誰だ?

 私に限りなく似た敵に見えるが……。私なのか?

約5年分の枝豆

8月28日(金)

 健康診断が社会人になってから一番悪い結果になってしまったため、生まれて初めて能動的にサラダセットを注文した。

 生野菜が基本的に苦手であるため、サラダも社会に馴染むために数年かけて食べることができるようになった。しかし、サラダを食べるのはあくまで人前でだけで、一人でいるときはサラダを頼むことは二十数年生きてきて一度も無かった。強制的に付いてしまう場合は頑張って食べた。

f:id:komugikokomeko:20201223235902j:plain

 こういうサラダと一番相性が悪い。ゴローニャハイドロポンプをくらったときのHPの減りの速さを想像してほしい。あれくらいの速さでテンションが下がっていく。

 野菜が苦手だったり、ラーメン屋やお菓子ばかり食べてしまうような生活の積み重ねが健康診断の結果を悪くしていく。数値を見てショックをひとしきり受け、ちゃんと健康的なものを食べようという決心が、サラダセットを注文させる。

 窓から外が見えるカウンター席に座っていたため、サラダを食べるたびに、ぐにゃあっとなる表情が通行人から見えていたのかもしれない。

 

 住んでいる場所から数駅で行ける古本屋に行く。「古本詩人 ゆよん堂」というお店だ。

古本詩人ゆよん堂🎪12月24日13時〜19時営業 (@yuyondou) | Twitter

 

 今は関東に引っ越してしまったためなかなか行くことが難しくなってしまったし、新潟に住んでいた時も2、3回しか行くことができなかったのだが、良いお店だった。

 その日は確か都市伝説に関する本などを購入したような覚えがある。中学校の頃から都市伝説にはまって、ネットに転がっているものをたくさん見た。

 ホラー系の都市伝説は、小学校の頃に学校の怪談を数冊読んだあとに1週間以上体調を崩した経験があったせいで駆け足で読んでいた。

 都市伝説はホラーを伴っているものも多いため、中学生のわたしは長い時間駆け足だったのだろう。

 本を購入した後、店主の方と少し話をした。何を話したかはあまり覚えていないが、安部公房に関する話をしたことだけは何となく覚えている。レジの近くの棚に箱男のハードカバーがあったような気がするが、こちらは何となくしか覚えていない。ブックカバーを購入したことは確かである。実物が残っていて、実際に使っているからだ。

 帰り際、店主の方に大量の枝豆をいただいた。茶豆という、新潟でしかあまり出回らない美味しい枝豆だ。早速帰って、ではなくヒトカラを挟んで家に帰り、枝豆を一気に茹でた。

 結果、タッパーいっぱいの枝豆が茹で上がり、3食枝豆を食べ続けることになった。少なく見積もっても5年分はあったと思う。

 最初はひとつずつ取り出して食べていたが、次第に面倒になり2分間ひたすら豆をお椀に出し続けて、取り出した分を一気にかきこむスタイルにした。口いっぱいに枝豆を食べる経験は、これから先することはないと思う。