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備忘録と不備忘録を行ったり来たり

魔法の言葉「シュール」の副作用

 何かを見た時の感想に使われる言葉に、「シュール」がある。使用範囲は様々にわたり、コントに代表されるお笑いや、画像、絵、更には状況にまで使われることが多い。普段生活していると、いやでも耳にしたり目にしたりすることだろう。しかし、「シュールとはどういう意味なのか」を問うと、あまり明確な答えは返ってこないだろう。シュールとはいったい何なのか。この文章では、シュールについて個人的に思うところを書いていく。

 

 まず、シュールの由来はどういうものかについて書いていく事にする。シュールはもともと「シュルレアリスム」が由来となっている言葉である。シュルレアリスムとは、1924年アンドレ・ブルトンという人物が『シュルレアリスム宣言』において定義したものである(シュルレアリスムという言葉自体はブルトンが考え出したものではないが、これについては割愛する)。以下に『シュルレアリスム宣言』からシュルレアリスムの定義を引用する。

 

「心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」

 

 大雑把にまとめると、「心の中の考えを内部・外部両方から干渉されることなく、表現すること」ということだろうか。ブルトンシュルレアリスムを体現するため、「自動記述」という方法を用いて文章を書いている。どういう内容なのかはアンドレ・ブルトンの書いた作品を見てもらいたい。おそらく図書館にあるだろう。
 かなり大雑把だが、以上がシュルレアリスムの説明である。これが日本ではシュールという言葉に変化して、使われているのだ。なぜシュールという言葉になったのかは調べても分からなかったが、おそらく「シュルレアリスム」を誰かが「シュル」と略し、言いにくいため「シュール」に変化させたのだろう。

 

 では、シュールはいつ頃から日本で使われ出したのだろうか。まず、元の言葉であるシュルレアリスムは1930年頃にはブルトンの書いた「シュルレアリスムと絵画」という本を瀧口修造という人物が翻訳している。つまり1930年には確実に、シュルレアリスムについて知っている人間がいることになる。しかし、略語であるシュールがいつ頃使われたかはイマイチはっきりしない。私自身も本を何冊か見たりしたが、シュルレアリスムの広まりは書いてあっても、シュールという言葉の広まりは書かれていない。これは私の調べ方が悪かったのかもしれないが。Wikipediaには1970年代に広告業界でシュールという言葉が使われ始めたと書いてあるが、眉唾物である。結局分からずじまいだったので、誰か詳しい人は教えてくれると非常に助かる。

 

 ここまでシュルレアリスムとシュールという言葉について話してきたが、言葉だとイマイチ説明しにくい部分も多い。実際に画像を見てみよう。

 まずシュルレアリスムから。下の画像はシュルレアリスムを代表する画家、ルネ・マグリットの「ゴルコンダ」という作品である。

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 ここでは「デペイズマン」という技法が使われている。デペイズマンとは、あるものを他の環境に移し、見るものに違和感を起こさせる表現である。ここでは男が空中にいることで、見るものを不思議な感覚にさせる効果がある。

 次にシュールと言われている画像を見せることにする。以下の画像は「シュール」で画像検索を行ってヒットした画像である。

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 これも、デペイズマン的な発想であろう。米俵からビームがでることはない。しかもビームも実際のビームとは異なるものを使っている。本来とは違う環境に置くことで、見た人を笑わせる効果をもたせたのだろう。

 シュールな画像と言われているものは、上の画像のようにデペイズマン的手法を使ったものも多く存在する。この場合は、シュルレアリスムに寄り添った使い方であると言えるかもしれない。しかし、実際はシュールと言われているものは本来のシュルレアリスムの意味から外れるものがほとんどなのではないだろうか。

 代表的な例がコントである。よくコントを見て「このコント、シュールだなあ」という感想が出たりする。シュルレアリスムの意味合いからするとコントはシュルレアリスムとは無縁のものなのではないだろうか。もう一度ブルトンの定義を一部引用する。シュルレアリスムとは、「心の純粋な自動現象」と定義している。しかし、コントでは思惑や計算が入るはずだ。どこで笑わせるか、どこで盛り上げるかと考えている時点で、「心の純粋な自動現象」とは言えない。個人的には、コントはシュルレアリスムとはかなり離れたものだと思う。シュールがシュルレアリスムの略語であるならば、使い方が間違っている。

 しかし、実際にシュールという言葉は使われている。これは、シュールがシュルレアリスムの略語として使われていない事を意味する。現在使われているシュールという言葉は、不条理・ナンセンス・カオスその他もろもろを含んだ、本来とは全く違う意味のものであると認識したほうがいいのかもしれない。

 

 なぜこんな状況が起こったのか。私は、ブルトンはが何がシュルレアリスムであり、何がシュルレアリスムでないのかを、明確に判断できる基準を設けなかったためではないかと思う。判断基準を設けていれば、現在のような、「とりあえず感想を述べにくいものは、シュールという言葉を使っておけばいいかな」という状況にはなっていないはずだ。ブルトン自身がシュルレアリスムの適用範囲を曖昧にしていたのだから、日本人がシュールという言葉の適用範囲が曖昧なのも仕方がない。

 

 今まで色々書いてきたが、この状況自体はそんなに問題は無いと思う。しかし、陳腐な言葉で言えば「1億総シュール化社会」がもたらしたものとして、1つ見過ごせないものもある。

 それは、作品に対する評価である。シュールという言葉の最大の欠陥は、範囲が広すぎることだ。シュールという言葉を使うと、言い表しにくい感想を一言にすることが可能になる。使い勝手はかなりいいだろう。しかし、かなり抽象的な評価になってしまう。これは評価を受ける人間にとっては不幸である。折角考えた作品も、シュールの一言で片づけられる。シュールという言葉を使う側も、言い表しにくいものを全てシュールで片づけてしまうと、一風変わった物を見ても、正しい評価ができなくなってしまうのではないだろうか。作品を評価するときに、十分な表現ができなければ、作品に正当な評価を与えることができなくなる危険性は十分にある。

 

 最後に問いを1つ。あなたがシュールと言っている作品、シュール以外の言葉で言い表すことができますか?