私の大学にはラウンジがある。そこは、よく学生が勉強をしたり、友人と話をしたりするために使われている。ラウンジには窓がいくつもあり、陽の光は部屋を心地よく満たす。机も温かみのある色合いだ。私も時々利用していた。
ラウンジの常連に、百瀬という知り合いがいた。髪は少しパーマがかかったセミロングで、少し古臭い眼鏡をかけていた。私がラウンジを利用するときは必ずと言っていいほど、一番端の席に座っている。声をかけようと思うのだが、いつもイヤホンをしていてた。音楽と作業を中断させてまで話す話題もないので、ほとんど声をかけることはなかった。
ある日、私はラウンジに来てみると、いつもと同じように百瀬は一番端の席に座っていた。しかし、いつもと違ってイヤホンをしていないし、何やら頭を抱えて悩んでいるようだった。私は声をかけた。
「どうしたん。何か悩んでいるようだけど」
百瀬は私の方を向いた。
「無意味な言葉って、英語で何て言うんだっけ?」
「うーん、あ、ナンセンスじゃなかった?」
「英語で」
「エヌ・オー・エヌ・エス・イー・エヌ・エス・イー」
「思い出した思い出した」
「そりゃ良かった」
「他の知ってる単語はあまり忘れないんだけどさ、これだけ妙に忘れちゃうんだよね」
「まあよくある事じゃない? 何回見ても覚えられない単語とか自分もあるし」
その後は他愛もないお喋りを十分ほどして、私は図書館で借りなければならない本を思い出し、百瀬と別れた。
ある日、ラウンジに来てみると百瀬はいなかった。珍しいこともあるもんだなと思いつつ、私は適当な席に座り、勉強をした。
次の日もラウンジに来たが、百瀬はいなかった。その次の日も姿はなかった。あまり頻繁にラウンジを利用しない私だったが、百瀬に会うまでラウンジを毎日使うぞという妙な気分になり、1週間ほど連続でラウンジを訪れたが、結局百瀬の姿を見ることは一度も無かった。
週明けに改めてラウンジに来てみると、百瀬の姿はやはりなかった。百瀬がいつも使っている席に近づいてみる。そこには、あのいつも使っているイヤホンと、少し古臭い眼鏡と、英和辞典が置いてあった。
英和辞典を手に取る。おもむろに開いてみた。そこには英単語と意味が書いてあったが、ところどころ空白が目立ち、意味があやふやに書かれているものも沢山ある。到底、英和辞典としては役に立たないものだった。
私はNから始まる英単語のページを開いた。そこには、いくつかの英単語が書いてあった。目で英単語を追っていく。Nのページをすべて読み終わり、そこに「nonsense」という単語が見つからなかった時、私はこの英和辞典が百瀬である気がした。Nのページの空白になっている部分に、私は「nonsense」という単語と意味を書き足し、英和辞典を閉じた。そして机に置き、その場を立ち去った。
数日後、私はラウンジを訪れた。やはり百瀬の姿はなく、代わりに英和辞典が置かれていた。Nのページを開いたが、そこに「nonsense」という単語は残っていなかった。英和辞典はやはり百瀬だったのだ。私は持っていた付箋に「nonsense」と書いた後、Nのページに貼り付けた。これで忘れないようになればいいなと思いつつ、私はラウンジを後にした。それ以来、まだ1回もラウンジを使ってはいないが、いつかまた訪れるだろう。百瀬がまた「nonsense」を忘れていやしないか、確認するために。