コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

箱ⁿ

 ある日、玄関のチャイムが鳴った。男がドアを開けると、誰もいない代わりに箱が置いてあった。箱はいわゆる段ボール箱で、A4用紙がピッタリ入るような大きさであった。

 男は段ボール箱をリビングの床に置いた。差出人も箱の中身も書いていない。一体誰が置いたのだろうか。知り合いであれば名乗り出ていいはずだ。名乗りもせずに帰ってしまったのだ、何か後ろめたいものでもあったのだろうか。

 匿名性には悪意がこめられている。自らの名前ではできない行為を匿名性という人形に託し、願いを成就させるのだ。自らの身代わりと言っていいのかもしれない。匿名性の人形はそこかしこを暴れまわる。住民は人形の行いに批判をするが、仮に批判されたとしても、身代わりが行ったことであり、自らがやったことではない。

 箱に入ったものも、名前がどこかに明記していなければ、匿名性を帯びているに等しい。冷たい目で睨んでいる獣が、箱を開けた途端首元を喰いちぎることもある。この箱の中身については何も書かれていない。もはや首元に牙を突き付けられているのと同じだ。獣の生暖かい息が首元を這うように顔へと上がってくる。

 獣の息を振り散らすように箱を振ってみる。何も音はしない。振るたびに無音が部屋中に鳴り響く。冬にしては薄い服を着た心を、冷たい風の吹きすさぶ街が歩いている。街は確かに存在するのだが、輪郭だけで、情報を認識できない。どんな店、どんな家なのか、屋根の色は何色なのか、車の形、宣伝色で塗りこめられた看板、歩いても歩いても情報は目に飛び込んでこない。何もかもが輪郭だけになっていた。

 音はしないが、確かな重量は腕にひしひしと感じられたので、中身が空というわけではなさそうだった。音もしないほど中身が詰まっているのだろうか。それとも箱そのものが重要なのかもしれない。

 我々は箱を見ると中身が入っているはずで、その中身こそが重要な物であると錯覚してしまう。箱そのものが重要な物であるにもかかわらずだ。灯台の根元と何ら変わらない。箱はカモフラージュの役目を強いられているのだ。

 箱には何かを隠す力が備わっているが、何かを守る力も備わっている。箱がシェルターのようなはたらきをしてくれるのだ。自らが攻撃を受けるより、箱越しに攻撃を受けたほうが痛みはずっと少ない。地球も一種の箱といえる。宇宙からの攻撃をを地球という箱である程度遮断しているのだ。

 結局、箱を開けてみないと正体はつかめなかった。生きている毒ガスか死んでいる毒ガスか、男は賭けをするしかなかったのだ。賭ける対象は箱だとしても、開けた場合と開けなかった場合に起こりうる、良い結末に関する配当金は分からない。濃霧の中で競馬を見るような気持ちにさせられた。

 男は意を決して箱を開けてみることにした。顔を近くにあったビニール袋で隠し、飾りだけの防御の姿勢をとった。何も備えずに戦場を走るより、銃撃を受ければ何の役にも立たない防寒具を着ているほうが、たとえ蜂の巣になったとしても、心もちは穏やかになるのだ。

 箱に手をかけた。手は小刻みに震えていた。そして一気に開けた。箱の中には男の部屋とその中で箱を開けた男、そして同じ形をした小さい箱があった。箱の中身は3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209749445923078164062862089986280348253421170679821480865132823066470938446095505822317253594081284811174502......