コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

幸運を。死にゆく寿司に、死にゆく寿司より 敬礼を。 

 あなたにとっての「ごちそう」とは何だろうか? ラーメン、ハンバーグ、カニクリームコロッケ、すき焼き、カニクリームコロッケ、カニクリームコロッケなど、様々な食べ物が挙げられる。私にとってのごちそうは寿司である。

 寿司はなかなか食べることができない、特別な食べ物だった。私の家は滅多なことでは外食に行かない。半年に1回行けばいいほうである。その半年に1回の外食は、私にとってはまさに特別な行事である。そのときは決まって寿司を食べに行くのだ。寿司といっても、回らない寿司屋ではなく、回転寿司である(その後私は多くの人々と会うことになるのだが、そこで外食はもっと頻繁に行くものだということを知る)。

 なぜ寿司は、特別な食べ物になるのだろうか。ただ酢飯を楕円形にして、魚の切り身をのせただけの一見簡単な見た目である。それなのに、寿司には高級感が漂う。

 おそらく、たくさん種類があって、それぞれにランクがつけられているためだろう。かっぱ巻きから大トロまで、寿司には様々なランクが存在する。高いランクの存在が、寿司を高級なものに見せているのだろう。「良い寿司を食べに行くよ」と聞いたら、おそらく皆は回らない寿司屋で、回転ずしで食べるものをはるかに超えていく質の寿司が食べられるものだと期待するだろう。行った先で、最高級のキュウリを使ったかっぱ巻きをたらふく食わせてくれると説明されたら、近くにある棒状のもので提案者を撲殺してしまうかもしれない。

 別の食べ物だとどうだろうか。例えば、「良いラーメンを食べに行くよ」と言われた場合、想像には限界があるのではないか。高くても1500円くらいだろうと、脳が勝手に制限をかけるのだ。逆にうな重などは、もともとが高い料理なので、良いウナギとなるとかなり値が張る。そのため、なかなか「良いウナギ」という概念が現れない。最低値が他の料理より高いためだ。

 対して寿司は、最低1皿100円で手が届くが、最高になるとキリがなくなる。ピンキリの差が激しいのだ。そして、私たちは高級なものを夢見てしまうから、寿司には特別感が漂うのだ。

 しかし、最近はあまり寿司を特別な食べ物だと思わなくなってきた。ひとり暮らしを始めると、寿司は以外に食べられるものだと知ってしまうからだ。スーパーで売っているパックの寿司は、夜遅くに行くと半額になっていることもある。

 私は一人暮らしを始めた当初、スーパーのパック寿司を頻繁に購入していた。寿司を年2回しか食べられなかった子供時代を取り戻すかのような食べようだ。時々子供のころにゲームやアニメを見せてもらえない家庭だと、一人暮らししたときに反動で滅茶苦茶ハマってしまうと聞いたことがある。おそらく同じようなことだろう。

変換ミス:パックス氏(誰だろう)、「ぱっくずし」で変換させればよかったのでは。

 スーパーのパック寿司を頻繁に食べる生活を続けていった結果、「あまり寿司って特別な食べ物じゃないのでは」という考えが発生した。その後回転寿司に行く機会も増えたため、回転寿司も特別なものだと思わなくなってしまった。

 我々は寿司を食べる。もう特別なものにならない回転寿司やパック寿司を食べる。戻らない日々を思いながら、寿司を家で黙々と食べるのだ。

 最近サクサクしたプレーンドーナツを食べた。サクサクしたプレーンドーナツを食べるのは小学校ぶりだった。水泳教室のあとに、たまに買ってもらっていたことを思い出す。サクサクしたプレーンドーナツは特別な食べ物なのだ。サクサクしたプレーンドーナツも、いつか特別なものではなくなってしまうのだろうか。