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備忘録と不備忘録を行ったり来たり

読書感想文:せきしろ×又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』

 咳をしても一人/尾崎放哉

 分け入っても分け入っても青い山/種田山頭火

 

 これらは自由律俳句と言われるものである。

 私のパソコンはガタがきているため、「自由律俳句」と打ち込んでスペースキーを押すと「自由律は行く」に変換されてしまう。こういうタイトルのブログが頭の中に現れる。中高年が運営していそうだ。自由律はどこに行くのだろう。

 俳句は通常5・7・5に季語を入れたものを指す。しかし自由律俳句は定型が存在せず、季語を入れる必要もない。

 俳句は生活の中で触れ合う機会が多少存在する。テレビ番組では芸能人が俳句を詠み、先生に斬られている。また、松尾芭蕉正岡子規などはよく知られている。

 対する自由律俳句はどうだ。私の記憶では教科書に自由律俳句は載っておらず、国語便覧の片隅に載っていた気がする。

 私は国語便覧を読むことが大好きだった。国語は国語便覧を読むためのものだと言っても過言ではなかった。社会科の資料集も大好きで、授業中ずっと読んでいた。こういうサブテキスト的なものは、様々な情報が所狭しと載っているから、見ていて飽きない。

 俳句には有名な俳人がいるが、自由律俳句には有名な人はいるだろうか。私は尾崎放哉と種田山頭火しかしらない。一人も知らない人がいてもおかしくはないだろう。

 現在、あまり自由律俳句に触れ合う機会はほとんどない。いや、なかった。自由律俳句に触れ合うことができる本が数年前に日本へと放たれている。

 今回はせきしろ×又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』を紹介していく。

  

 

 作家であるせきしろ氏と相方が海外進出している又吉氏。元々自由律俳句を作っていたせきしろ氏が、又吉氏を自由律俳句の世界に誘ったのがきっかけとなり、我々のもとに、500以上の自由律俳句といくつかの散文が届けられている。2人が作る自由律俳句とはどんなものなのだろうか。以下に2人の自由律俳句を3句ずつ引用する。

 まずはせきしろ氏から。

 

 手羽先をそこまでしか食べないのか

 現地集合現地解散なら行く

 黒い雪ならまだ残っている

 

 続いて又吉氏。

 

 ほめられたことをもう一度できない

 まだ何かに選ばれることを期待している

 便座は恐らく冷たいだろう

 

 これらの句は、世間一般の人が思い描く風流な句世界とは遠いところに位置するものである。自意識と世界を少し斜め下から見たような視点。これこそが2人の自由律俳句の肝となっている部分だと私は思う。

「現地集合現地解散なら行く」という句を取り上げてみる。おそらく何らかのイベントに主体(俳句の中の私)は誘われているのだろう。イベント事態に惹かれる部分はある。しかし、主体には引っかかるものがある。それは、行き帰りだ。

 おそらく現地に向かうとき、近場の人々と集まっていくことになる。帰りも同じだ。しかし、行き帰りに誰かと一緒にいることがなんとなく気まずい。二人とも別行動をしていればいいのかもしれないが、それも何か後ろめたい。行き帰りが一緒になる人は、気の置けない友人とは言い難いのかもしれない。様々な考えが頭をめぐり、頭の中で出した主体の結論が「現地集合現地解散なら行く」なのだ。

 続いて「便座は恐らく冷たいだろう」を取り上げる。場面はトイレで、おそらく自宅のものではない。駅か、何らかの施設の中かは分からないが、個室トイレの中にいる。そして、ズボンを下ろしながら便座を見て思う。「便座は恐らく冷たいだろう」と。冷たいと思われる便座にこれから座るのだ。お尻は不快な冷たさに触れることになる。しかし、座らなければならない。一種の諦めに近い自由律俳句だと思う。

 自由律俳句に出てくるものは、どれも身近なもので、特別感の欠片もない。時々はさまれる作者2人による写真も、日常によくある風景のように思える。また、主体の感情が表れる自由律俳句も、どこかくすぶっていて、自意識過剰気味である。

 歌人穂村弘氏は、『はじめての短歌』という本の中で、せきしろ氏や又吉氏の自由律俳句に触れていて、そこで「自分は社会的にダメだ、サバイバル力が低いってことを知っている」と評している。そして、そういった人間は「小さな死によく遭遇する」と言う。

「小さな死」とは、例えば「飲み会の席を選ぶ」ことである。飲み会に行ったとき、どうにか自分が話しかけやすい人が近い席に座ろうとする。そのために、頭を滅茶苦茶に働かせる。こういった行動をとるのはなぜか。それは、もし自分が話しかけやすい人が近くにいない席に座ってしまうことは、「小さな死」だからだ。社会的にダメだと感じている人ほど、「小さな死」が世の中にたくさん存在し、それらを避けようとする。

「現地集合現地解散なら行く」も、「小さな死」を避けたいという主体の想いが滲み出ている。完全には親しくない人と行き帰りが一緒になるのは、「小さな死」なのだ。

 また、穂村氏は「社会的にはぜんぜん意味がない」ものに詩は宿ると述べている。「黒い雪ならまだ残っている」が良い例だろう。雪と言えば空から降ってくる白い物体である。それらが積もると、世界が白く染まる。雪は白いものであり、小説や短歌、俳句でもほとんどの場合雪は白いものとして登場する。

 しかし、せきしろ氏は黒い雪に焦点を合わせている。土やほこりなどが付いた状態で日陰にたたずむ黒い雪は、雪としてあまり価値をなしていない。しかし、黒いからこそ自由律俳句になり得るのだ。

 

 小さな死をなんとか避けつつ、社会的には意味のないものに焦点を合わせる。それらから生み出された自由律俳句は、単なるあるあるではなく、詩になる。あるあるは平面的で、そこで完結してしまうが、自由律俳句は背景に奥行きをもたせ、余韻を残す。俳句や短歌も面白いけれど、自由律俳句だって忘れてはならない。

 自由律俳句の間に、散文がいくつか挿入されている。そこではやはり、小さな死を避けようとする、自意識が過剰な世界がある。特に「オハヨウは言えなかったサヨナラは言おう」で書かれている又吉氏による散文は是非読んでほしい。

 

 小さな死を避け続けている自覚がある人、自由律俳句がありますよ。