基本的に文章と言うものは、完結する。どこか作者の意図するゴールに向かって文章は進んでいく。
小説も同じだ。基本的には結末に向かって進んでいく。まるでチャンネルを回したかのように、文章の意味、設定、空気が途中で違うものになることはほとんどない。
今回はそのほとんどから漏れ出した小説を紹介したい。
うどんはコシがあるものが好きだ。コシが無いものは私の中のうどん判定機がうどんと認識してくれない。
今日のお昼はうどんを食べたのだが、うどん判定機は認識しなかった。目や舌はうどんのデータを脳に送り込むのだが、判定機が動いていないため、「確実にうどんとは言えない何か」を食べていることになる。
『カフカ式練習帳』の一番の特徴は、様々な長さの文章が立ち現れては消えていく点だ。隣の家の話、猫やカラスの話、友人の話、子どもの頃の話、さらにはカフカの小説の一部分や天声人語が引用されることもある。
また、いくつかの断片をまとめたものには、タイトルがついているが、一番最初に出てくる断片の冒頭が、そのままタイトルになっている。
それだけではない。文章が最後まで終わらないこともある。まるで曲が終わり切っていないのに、他の曲の再生ボタンを押すか
「心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方
法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行
使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれ
た思考の書きとり」
(アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』 岩波文庫)
全ての断片が全然違うものなのかと言われると、そうとも言えない。引用される文章はカフカが多く(作者はあとがきで、カフカが書き遺した断片から、この小説の発想を得ている旨を述べている)、作者の嗜好が垣間見える。また、猫の『マーちゃん』に関する話が何回か出てくるほか、ゆるやかに断片同士が繋がりをもっているように思えるものもある。『マーちゃん』の話に代表されるように、作者は猫に思い入れがあるらしく、猫に関する断片は何回も登場する。
最近の定義は人によって違うらしく、2、3日前の事を最近と呼ぶ人もいれば、数年前のことを最近と言う人もいる。最近の範囲は人によって様々である。誰かが「最近できたお店のラーメンがすごい美味しいんだよ!」と言ってきた場合、もしかしたら10年前にオープンしたラーメン屋であるかもしれないので注意が必要である。まあ、地球にしてみれば100年や1000年という単位は最近の出来事であり、最近は伸び縮みが容易な物体として認識されることになる。
この本を読み終わったとき、1冊の本を読んだはずなのに、いくつかの短編小説を読んだような気持ちになった。しかも、それらの短編小説は空気感を共有している。全く違う場面が次々と出てくるのに、本の世界に入っていけるのは、断片たちが空気感を共有しているおかげで、断片が変わっても生活が頭をよぎらないためだろう。
少し変わった小説なので、意図を求めたくなる人もいるかもしれないが、作者も「おもしろいと思うところを拾い読みしてくれればいい」とあとがきで述べているので、この断片は特段面白いなあ、くらいの気持ちで読むのが一番この小説に合っているのかもしれない。やっていることは結構特殊なのに、読んだ後に疲れないのは、断片たちの世界が無理のないものだからだろう。
「胸のつかえ」に「目薬」をさすという比喩に一瞬引っかかりを感じる。胸のつかえに目薬をさすことは正しいのかと思う。しかし、心にすっきりしない何かがあり、それを取り除いてすっきりとした気分にしてくれるという感情を表すのに目薬は最適解だと思う。胃薬とかだと何も引っかからない。