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【好きな短歌③】上海に行ってくるよと、津田沼に行ってきたよと報告し合う/五島諭

上海に行ってくるよと、津田沼に行ってきたよと報告し合う/五島諭

(五島諭『緑の祠』,2013年)

 

 どこかに行く/行ったという報告を誰かにするときは、大体はあまり行ったことの無い場所に行く/行った時である。

 この歌でも、人物Aは上海に行ってくることを報告している。上海は割と知名度があるが、日本ではないので行ったことのある人はそこまで多いわけではない。日常から少し抜け出したような特別な場所である。今度行くつもりだと報告すれば、相手はちょっとした反応を示すだろう。

 上海に行くという報告を受けて、人物Bは「津田沼に行ってきたよ」と返す。津田沼。千葉と東京近辺に住んでいる人は聞いたことのある地名だが、知名度は上海に比べるとかなり低い。特別感があるかと言われるとお世辞にもうなずきがたい。

 この歌の最大のポイントは人物Aが行く予定の<上海>と、人物Bが行ってきた<津田沼>が対等の立場であるということだ。人物Bは上海と同じ特別さで、津田沼を返してくる。歌の中で上海と一緒に並べられると、我々が普段感じている津田沼が、何か特別な場所のように見えてくる。

 この歌の中だと人物Aと人物Bが場所を報告し合ったことしか判明していない。しかし、人物AとBの信頼関係が歌によって漂ってくる。もし、普段の生活で、上海に行ってくると誰かが話していて、それと同じようなテンションで<津田沼に行ってきたよ>と返したら、少し怪訝な顔をされるか、ある種の冗談に取られかねない。しかし<報告し合う>と歌われている通り、上海と津田沼はしっかりと対等な関係を築いている。これは人物AとBの信頼関係がある程度築けていないと、成立しないのではないだろうか。

 また、この歌は上海に行ってくる人が主体なのか、それとも津田沼に行ってきた人が主体なのかが分からず、主体が固定できないようになっている。主体が特定できないことで、読者が上海に行く人にも、津田沼に行った人にも移入可能になっている。

 

 特別さを平凡さで返しても成立するような関係に、私は心地良さを感じるのだ。