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【好きな短歌⑧】だいなしの雨の花見のだいなしな景色のいまも愛なのかなあ/阿波野巧也

だいなしの雨の花見のだいなしな景色のいまも愛なのかなあ

阿波野巧也『たくさんのココアと加加速度』(『羽根と根』4号)

 

 私事ではあるが、今年はお花見に行った。前日の夜に雨が降ってしまい、中止になるのではないかと思ったが、当日は天気が回復し、地面の具合が少し良くなかったくらいで楽しく過ごすことができた。雨が降っていた前日と、お花見の集合場所に向かう最中に思い出したのが、この歌だった。

 

 ほとんどの人にとって雨の花見は楽しさが半減されてしまうだろう。花を見るよりも、レジャーシートを広げて、みんなで食べ物や飲み物を持ち寄ってワイワイと過ごすほうに重きが置かれるからだ。雨が降ればその計画は<だいなし>になってしまう。強行しても晴れているときほど楽しめないだろう。この歌には桜という単語は出てこないが、花見と言えば桜を見ることを指す場合が多いため、この歌の<花見>は、桜を見ることだと解釈したい。

 また、晴れているときに見る桜は、青空によって桜の色が一層映える。また、晴れているときのほうがくっきりと桜が見えるため、より美しいと感じるだろう。雨が降ってしまうと、青空と桜のコントラストを見ることはできない。また、雨に濡れている桜も散ってしまうし、散って地面に落ちた花びらも人々の土がついた靴で踏まれて汚くなってしまう。

 この歌では助詞を変えることによって、歌にアクセントをつけているように思える。<の>が続く中で一度<な>が入ることによって、1つの助詞がくどくなるのを避けている。また、助詞が変わることによって<だいなし>具合が変わって見えるような効果もあると思う。口に出してみると、<な>で少しだけ口調が強まる。目で読む/声に出すの両方で、初句と三句の<だいなし>という言葉がそれぞれ微妙な違いを生み出している。

 主体はいくつもの<だいなし>な状況が内包されている<いま>を見つめている。そして<愛なのかなあ>と心の中で呟いている。実際に声に出しているのかもしれないが、個人的には心の中の呟きと解釈した。

 断定しないことで、歌に余韻が生じている。雨を降らせる曇り空のどんよりとしてすっきりしない感じと、結句の断定しない<愛なのかなあ>は、かなりマッチしていると思える。もし主体が<愛>だと断定していたら、この歌の良さは『だいなし』になってしまうのかもしれない。この歌の中では、雨はまだまだ止みそうにない気がするし、その分余韻も読者の中に残り続ける。

 おそらく、来年も桜の季節に雨が降ったら、この歌を思い出すことだろう。

 

 

 この歌が載っている『羽根と根』4号に関しては、現在通販を行っていないらしい。また、5月に行われる文学フリマ東京にも『羽根と根』の名前は無いので、なかなか上記の歌が入った連作をすぐに読むのは難しいかもしれない(自分も『ねむらない樹』vol.1の特集『新世代がいま届けたい現代短歌100』でこの歌を知った)。もしかしたら、今後文学フリマ等で販売されるかもしれない。『羽根と根』のTwitterがあるため、今後文学フリマでの出店や通販などがあった場合アナウンスされると思うので、気長に待ってみましょう。