コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

山階基『風にあたる』批評会に行きました

 山階基『風にあたる』批評会に参加した。今回は『前日まで』『当日』『以降』の3つに分けて話をしていきたいと思う。

 

前日まで

 山階さんの歌集が出る、という話を聞いたのは、確か今年のゴールデンウィークに伝右川伝右さん主催で行われた『路上歌会』の時だったように記憶している。上野恩賜公園だった。「パンダは先に並んだ人が見られます」という看板が面白くて、でも面白さを共有できる自信が無かったので参加していた人には誰にも言わなかった。

 今年の5月に行われた文学フリマ東京で情報が公になり、その後いつだったかは覚えていないが、批評会が行われるという話がTwitterに流れてきた。いつ流れてきたかは覚えていない。その日のうちに参加申し込みをしたことは覚えている。

 それまで批評会は1回しか出たことがなく(その1回は、石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』批評会である)、その批評会がスタンダードなものなのかは分からなかった。よくある批評会ってPowerPointを使いますか? そもそも批評会のスタンダードとは何ですか? そもそもの繰り返しになり、ループし、停止します。

 普段は新潟に住んでいるので、普通の土日だとなかなか予定が合わないことがあるのだが、たまたま文フリ東京の前日で、出店者側で参加予定だったことも幸いした。新潟って知ってますか? 武器にするとリーチ面で優位に立てる県です。

 いくら1回行ってるからといえ、まだ批評会について分からないことも多かった。しかし、あまり批評会に行ったことが無い人向けに、批評会とはどういうものかしっかり説明していたので、割と心理的な抵抗感(どういったところか分からなくて怖い、といった気持ち)は和らいだ。批評会ではどういったことをするのか、をあそこまで丁寧にやっている会はなかなかないような気がする。メールの送り方についても、Twitterに記入例を載せていて、分かりやすかった。

 また、批評会のあとに第2部として、ライブ1首評を行うとのことだった。批評会にプラスして何か企画を行うのは一般的なのだろうか。参加表明した批評会は全て批評会+企画といった形式だが、母数が2なので統計としては全く役に立たない。

 その後は生活を百数十セット行い、当日になった。

当日

 5時半に起床。前日は飲み会だったので寝不足だ。今年の2月に精神がぐにゃあ……となって以来お酒は全く飲んでいない。それと関係があるのかは分からないが、飲み会があった日はあまり早く寝ることができない。

 いそいそと支度を済ませ、新幹線に乗る。2時間ほど寝て、睡眠の補填を試みた。

 一度埼玉にある実家にトランジットして、荷物を置く。お菓子を食べた。

 

 実家とはいつ帰ってもヨーロピアンシュガーコーンのある家のこと

 

 という短歌を作ったことがある。しかし、この時に限ってはヨーロピアンシュガーコーンが冷凍庫に入っていなかった。実家ではなかったのかもしれない。まあ、地球に生まれたということは、地球が大きな実家みたいなものであるので、その中に1つでもヨーロピアンシュガーコーンが存在していれば実家という定義は揺るがない。

 30分ほど滞在し、会場がある池袋に向かった。霧雨で傘があまり役に立たない。駅から出たとたん、髪が終わってしまった。天然パーマ特有の悩みだ。これ以上この苦しみを味わう人を増やさないためにも、私で末代になるしかないのでは。

 1時間ほど時間があったので、文フリの買い出しを東急ハンズにて行う。ついでに来年の手帳も買う。今のところ2年連続で挫折しているので、今年こそはと思う。皆さんは「三度目の正直」と「二度あることは三度ある」、どちらを信用していますか。

 割と買い出しに手間取ってしまい、昼ご飯を食べる時間が10分ほどしかなくなってしまう。立ち食い蕎麦があったので慌てて入り、あたたかい蕎麦を頼んだ。かき揚げ蕎麦だったような気がする。

 昼ご飯を食べ終え、早足で会場にたどり着く。会場にはエレベーター以外にたどり着く手段がなさそうに見えた。外からエレベーターの中がモニターで見えるようになっていて、恐怖を覚えた。

 会場で参加費と懇親会代を払い、席に着く。レジュメを軽く読んでいると、開始時刻になった。

 パネリストは乾遥香さん、黒瀬珂瀾さん、染野太朗さん、平岡直子さんの4人。乾さん→黒瀬さん→平岡さん→染野さんの順で歌集などに関する批評が行われていった。4人の継投なので、野球だと5回あたりで投手がマウンドを降りているだろう。

 ここからはレジュメごとに線を引いた文章、青ペンで付け足した文章を羅列していきたい。そこが個人的に気になった部分だと思われる。線を引いた文章と青ペンで付け足した文章が区別できるように、線を引いたものに関しては下線を引く。

 

乾さん

マイノリティ側からの違和感(≠批判)

「個人の今」らしきものが描写されている。にも関わらず、個人的なことが書かれているようには処理されていない

クイズっぽさ

山階基は分かりやすくない

短歌は誰のもの? 歌は作者のものである。歌は作者のものではない

・「船」の多さ

 

黒瀬さん

・自分の身体との対話

・自分の身体をポエジーに捧げない

・自分の身体を基点にして世界を見ている

 

平岡さん

<関係性>

・経験を呼び起こさせる<ボタン>を押すのが上手い→読者の気持ちいいツボを押しすぎてる?

「読者に望まれる歌をつくる」→そのサービスだけが歌ではないのではないか

・作者のコントロールが強すぎて、偶然の美しさがあまりないように見える

 

染野さん

みんなして

つもり やや→本人の意識

・自分のものに回収していく

ほっといた

おたがいのあらすじ

つっかけ

よそさま

 

 山階さんの連作で今まで語られてきたことの、さらに先に行く(もしくは横にずれる)ような話だったように思える。

 一番心に刺さったのは、歌というよりも評に関する話ではあるが、乾さんが言っていた、一言で言い表せる、批評できてしまう用語への警戒感といった旨の話だった(もしかしたら記憶違いがあるかもしれない)。何かを評するときに、使い勝手のいい用語が出てくると、そちらに引っ張られてしまう、何も考えずに使ってしまうことはやりがちだ。しかし、使い勝手のいい用語がその人の魅力・本質的な部分を包括できているかというと、そんなはずはないと思う。絶対にこぼれてしまった何かがあるはずだ。評することの難しさを再認識させられた。

 平岡さんの言っていた「作者のコントロールが強い」といった旨の発言は、乗っかっていきたい気持ちがあるのだけれど、先述した話もあり、もう少し自分で考えてみる必要があると感じる。

 

 第2部ではライブ一首評が行われた。申し込みの時に「時間があれば話したい」といった旨の意思表明をしていたので、時間の都合上自分が指名されることはないだろうな、と思っていたので、名前が呼ばれた時は動揺してしまった。また、自分が選んだ歌の評が行われた直後の指名だったため、慌てっぷりが加速した。

 私が選んだ歌は以下のものである。発表時はしどろもどろになってしまったので、文章にしておこうと思う。

 

梨の皮うすくへだててあかときの指とナイフはせめぎあうだけ

(山階基「秋の手前に」、『風にあたる』p.116)

 

「せめぎあう」という言葉は、例えばレースなどで車同士が抜きつ抜かれつを繰り返しているような場面など、パワー・熱量を感じる場面で使われているような印象がある。しかし、この歌での「せめぎあう」は、個人的には落ち着いた印象を受けた。

 落ち着いた印象を抱かせた要因は、おそらく「あかとき」という時間帯によるものなのではないだろうか。明け方近くの、おそらく外も静かな時間帯に、梨が剥かれていく。「うすくへだてて」「せめぎあうだけ」とあるように、梨の皮を剥いている人は、かなり上手なのだろう。淡々と薄く剥かれていく皮と、指やナイフの動きだけがそこにはあって、それを邪魔するものがこの瞬間には存在していない。歌が切り取っている静かさが、「せめぎあう」という言葉を落ち着かせつつも、印象的なフレーズにしているのだろう。

 こういったことを言いたかったのだが、「自分が踏み入ることのおそらくできないであろう領域で好きな歌を作られてしまった、という気持ち」「何の疑いもなく好きな歌としてカテゴライズしてしまった、本当にそれでよかったのかという気持ち」「好きな歌について、それを伝えきることの不可能さ」などが入り混じった結果、「悔しい」と言ってしまった。短歌をやっていると悔しいことばかりだ。唯一良かった点は、おそらく2分以内に評をおさめた、というところだ。

 1人2分程度とのことだったが、結構時間を大幅にオーバーしている人もいて、その結果一首評を発表することが叶わなかった人もいたと思う。時間は有限なので、定められた時間でできるだけ伝えられるように、努めていきたいと思った。

 

 第2部の後、山階さんから挨拶があり、批評会はお開きとなった。懇親会まで45分程度空いたので、キンコーズにて文フリで使用するPOPやお品書きを印刷しに行った。結構時間がかかってしまい、印刷が終わったのが懇親会開始3分前だった。足元が悪い中、急いで会場へと向かった。試練が多すぎる、私が天然パーマだからか?

 懇親会会場にたどり着くと、すでに始まっていた。荷物を置いて、飲み物を注文する。ジンジャーエールの辛口があって嬉しい。そればかり飲んでいた。

 イタリアンだったので、あまり見慣れないメニューも多かった。なぜブロッコリーが一列に並んでいるのか、たまたま近くにいた伝右川さんと不思議がった。

 その後は何人かとお喋りをしていたのだが、あまりコミュニケーションポイントが無かったため、面識がない人のところには行くことができなかった。立食パーティは私にとって難易度が高い。

 懇親会の後半にデザートが出たのだが、名称が分からなかった。近くにいた左沢さんと北虎さんも名称が分からないとのことで、食感などからムースが一番近いのでは、という結論に至りかけたが、店員さんに聞いたところパンナコッタと返ってきた。パンナコッタを食べたことがないので詳しいことは分からないが、イメージと違った。短歌の話を何人かとしたのだが、パンナコッタ的な何かが一番印象に残っている。

 懇親会が終わり、お腹が空いているような気がしたので、帰りにラーメン屋に寄ったが完全に悪手だった。悪いお腹の膨れ方だった。

以降

 前に行った批評会は、「よし、頑張るぞ」という気持ちになった。今回は、「頑張らないと」という気持ちを覚えた。頑張ろうという気持ちは共通ではあるが、今回は、考えていることをできる限りそのまま言葉に変換していくことの難しさの再認識や、キラーフレーズに乗っかっていくことへの警戒、自分がこれからも作っていくであろう短歌についてなど、課題が増えたことへの焦りもある。しかし、悔しい思いができたことで短歌に対するモチベーションは上がった。短歌が分かることはこの先訪れることはないと思うが、それでも進んでいきたい。

 批評や歌を通して、こういう気付きを与えてくれたことだけでも、『風にあたる』批評会に参加できて良かったと思う。