コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

【感想文】『稀風社の水辺』

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 2019年11月24日(第29回文学フリマ東京)に刊行された、稀風社による短歌の同人誌。連作4つと散文2つが載っている。

 同人誌の中から、各人の連作について、感想を書いていきたい。

 

三上春海『献本御礼/論(二〇一六)』

 詞書が多用されていて、さらには詞書が短歌としてピックアップされていたり、注釈が多用されている形式は、斉藤斎藤を思い出すなと感じながら読んでいると、注釈の最後に斉藤斎藤を参考にした旨が記載されていて、先回りされた気になった。

 短歌の営みの中には、献本という文化めいたものがある。短歌の作者同士で歌集を送り合うらしい。基本的には歌集はそこまで多く刷られないため、手に入りにくいものも多い。Amazonには中古で1万円を超える歌集も存在する。

 読みたくても読めない人がいる中で、献本された本をBOOKOFFに売る人もいる。富める者はますます富むし、何もない者は何もないままだ。

 

「【追記あり】著者謹呈の歌集をブックオフに持ち込んでいる著名な歌人が誰なのか判明した」

 

 この連作では序盤から中盤にかけて、献本とそれを取り巻くものによって生み出される格差が浮かびあがり、それは生活とリンクしていく。

 

こんなわたしはよくないのかもしれなくてラボの夜食にもやしを選ぶ

 

 歌集の献本から権力や社会契約の話へと広がっていく後半は、正直数回読んだだけでは噛み砕くことができていない。いつか噛み砕ける日がくるのだろうか。

 連作を読み進めていくと、肌寒くなっていくような気持ちになるのは、経済的な部分にシンパシーを感じてしまっているからかもしれないし(奨学金という言葉が詞書に出た時、自分の奨学金の残高を少し想像してしまった)、作中に登場する札幌という土地の持つ効果なのかもしれない。

 光森裕樹氏が述べるように、歌集がもし<貨幣>なのだとしたら、多くの人が期待している感想は何になるのだろう。心付けだろうか。

 

水沼朔太郎『飛び込んでくる』

 120首とかなりのボリュームの割にあまり疲れないのは、短歌を構成する素材が読者側の生活にも根付いていたり、こちらを違うところへ飛ばしていくような比喩がないからなのかな、と感じた。

 連作中に <母親>と<兄>、そして<トイレ>が出てくる回数が多いように思えた。

 

母親が入院してから母親に似ている人が増えたんだよなあ 

 

<母親>が出てくる短歌は負の感情が滲み出ているが、憎み方の温度が低い。1首目の「だよなあ」という終わり方は、<母親>と<母親に似ている人>への嫌な気持ちを読み手に置いていく。母親が増えていって、そのうち人に対して良い気持ちを抱かなくなるのでは、と思ってしまう。

 

ステテコを兄から2000円で買う 500円玉貯金で払う

 

対して<兄>の出てくる短歌はジャージやステテコといった身に着ける物の中でもインドアなものとくっ付いて、家らしさを強調させる。

 

南海のトイレも良くはなっている実家のトイレへ歩いて向かう

 

 どの歌もトイレへ向かっているか、向かっていることを思い出している。<トイレ>そのものより、<トイレ>に向かっている主体のほうが、一首の中で大きく映っているように思える。

 

ガルマンオブガルマン、ベテラン中学生、水沼朔太郎で乾杯

 

 ウッ、となった歌。この歌を通して登場人物の説明を読者側がしなければいけない感じと、説明をしても特にどうにもならない感じが、個人的には息が詰まった。

 

暖房の24度と冷房の24度はどうして違うの

 

 連作中で一番好きな歌。確かに、と思う。調べれば謎はすぐ解明されそうではあるが、初見ではどうしても言いよどんでしまう生活の不思議。四句目までずっと24度の話をしているところが面白い。結句の問いかけで、読者をどうしてだろうと立ち止まらせる力を持たせていると感じた。

 

鈴木ちはね『失業給付』

 第1回笹井賞の応募作(もしかしたら応募時のものから手を加えているのかもしれない)。最終選考候補作だったため10首しか確認できていなかったが、今回ほぼフルバージョンを読むことができた。

 東京という場所に何かしらの意味付けがされていないところや、自分/他人の感情があまり出てこないように統一されているところが読む側として負担にならず、変に立ち止まることなく読めて良かった。

 

地下鉄の駅を上がってすぐにあるマクドナルドの日の当たる席

 

「地下鉄」も「マクドナルド」も多くの人が出入りしているものなのだが、この歌では人にスポットが全く当たっていないこともあってか、空間だけが浮きあがっていくようなイメージだ。読み進めていくと、自分も「地下鉄」から出て「マクドナルド」の店内へ入っていくような気持ちになる。

 

母が自分の余生を自分の資産から逆算してみせるその手つき

 

 水沼さんの「母」と比べると、主体は「母」に対してどういった感情なのかはほとんど読み取れない。

 ゆっくりと折られていく指と、(おそらく)頭の中で計算しているときの、自然と目線が上にいってしまうような感じを読み取った。「余生」や「資産」が関わる計算は、生々しさがある。

 

新幹線はかっこいいという直観を忘れないまま育ってほしい

 

 連作中で一番好きな歌。直感ではなく「直観」である。

 まず、「新幹線」が「かっこいい」という本質を構成する部分について1回考えた。速さかフォルム、そのどちらもだろうか。しかし、そういったところを考えていくほど、「直観」から外れてしまう難しさがある。そして、「忘れないまま育ってほしい」のは誰なのだろうか。私は「不特定の誰か(もっと言えば誰かでもない、ぼやっとしたもの)」だと解釈した。特定されない/できないことによって、こちらの想像の余地が十分に残されていて、楽しく読めた。

 

鈴木ちはね『ずっと前』

  10首連作。過去にフォーカスが当たっている連作だと感じた。

 

 老人の主語がでかくて笑っちゃう春の大きなバスに揺られて

 

 バスの中で、老人が主語の大きい会話(「日本人は~」などだろうか)をしているのだと思う。こちらまで聞こえるということは、ある程度声量もあるのかもしれない。

 話の内容よりも細かな部分に注意がいってしまうのは個人的に分かるような気がする。この主体は話よりも、話をしている老人の主語が大きかったことだけに興味が引っ張られている。話の中身には焦点を合わせていない。

 少し、春はどちら(「老人の主語がでかくて笑っちゃう」なのか「大きなバスに揺られて」なのか)にかかっているのか判断するのに迷ったが、私は「老人の主語がでかくて笑っちゃう」にかかっていると解釈した。

 「でかくて」というくだけ方はどうなのだろうという気持ちがある。「でかくて」だとくだけすぎな気がするが、大きくてだとリズムが悪いし丁寧過ぎる気がする。中間あたりの言葉がどこかで発明されないかと思う。

 

 

 散文に関しては、鈴木さんが「増幅」「圧縮/解凍」「沈黙」に考えを、三上さんが短歌から離れた石井僚一さんについて文章を書いている。3回しか会ったことはないが、石井さんは元気にしているだろうか。

 その中でも鈴木さんの文章に出てくる「あえてを排する(実際の文章には『あえて』に傍点がついている)」という部分は個人的に気になるところがあって、もう少し自分でも考えてみたい。

(個人の話になってしまうが、生活の中で見かけた文章を、感情的になりそうな部分をできるだけ排除しながら、短歌の中でサンプリングさせることができないか、ということを最近は考えている)

 

 今回も面白く読ませていただいた。次の文フリも何か出すのだろうか。