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【一首評】いい路地と思って写真撮ったあとで人ん家だよなと思って消した/鈴木ちはね

いい路地と思って写真撮ったあとで人ん家だよなと思って消した

/鈴木ちはね『スイミング・スクール』(『ねむらない樹 vol.4』、書肆侃侃房、2020.2.1)

 

 街中を歩いていると、<いい路地>と思えるような場所に遭遇することは時々あるように思える。いい路地がどういうものかはこの歌からは判断できないが、とりあえずは各々が思っている<いい路地>像を当てはめていく。
 良い風景を写真におさめるという行為も、よくあると思う。良いと思った風景をあとで見返すことができるように、良い瞬間を固定するように、写真を撮る。短歌の中の主体も写真を撮る。
 しかし、主体はその後に写真を消してしまう。<人ん家だよな>と思ったためだ。


 この歌の好きな部分は、社会が要請するモラルではなく、主体が独自に持っている価値観が見えるところだ。もし人の家の中を撮っているのであれば、プライバシーという社会が要請するモラルによって、消したほうが良いと判断することができる。しかし、<路地>ではプライバシーが損なわれるようなものはないかもしれない。車のナンバーが映る可能性もあるが、この歌では<人ん家だよな>という理由で写真を消しているため、そういったものでは無いと感じる。

 <路地>には何かしらの建物・非建物があって、それらによって多種多様な<路地>の味わいが形成されていく。<人ん家>も<路地>の味わいに寄与している。その味わいに良さを感じて主体は写真を撮るのだが、ただ良い風景と思うだけではなく、<人ん家>を一方的に撮ってしまったところに考えが及ぶ。その考えを自らの価値観に基づいて判断を下している。

 社会の要請ではなく自らの価値判断が歌の中で行われていて、それが押しつけがましくないところに魅力を感じた。