ステンレスのシンクがきれい ほんとうは二十世紀はなかったんだね
/宝川踊『サイダー』(『率 8号』、2015.5.4)
短歌で見かける構造として、「<言葉A>・一字空け・<言葉B>」が挙げられる。言葉Aから言葉Bへ進むとき、視線は一字空けを跳びこえていく。跳び越えた先にあるBにある景色はAと似通っていることもあるし、全く違うこともある。上記の短歌は、かなり景色が違っていると言える。
まず<言葉A>にあたる<ステンレスのシンクがきれい>から見ていきたい。シンクの多くはステンレスでできていて、光沢をもった銀色が特徴的だ。手入れがされているシンクは光沢が強く、そういったものに遭遇したときに<きれい>という感想をもつことは割と自然なことだと思える。
対して<言葉B>にあたる<ほんとうは二十世紀はなかったんだね>は、<言葉A>とは全く景色が違う。<言葉A>では室内での光景が描かれていたが、こちらは空間が特定できない。限定された空間→特定できない空間への変化が、歌の世界をぐっと広げている。なんだかいきなり家の壁が開いたような気持ちになる。
景色は一字空けの前と後で違うが、引き継がれているものもある。ステンレスがもつ<きれい>さは、一字空けによってステンレスという具体的な物質のイメージを薄めながら、<ほんとうはニ十世紀はなかったんだね>に接続されていく。
もしかしたら主体は二十一世紀生まれ、もしくは九十年代後半に生まれで、ニ十世紀に関する記憶をもっていないのかもしれない。記録としての二十世紀はあっても、実感の伴う二十世紀は存在しない。
主体には、シンクを通して一体何が見えているのだろうか。