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短歌の日大賞:4/24テーマ詠「自転車」の選評(橙田千尋)

はじめに

 こんにちは。橙田千尋(とうだちひろ)です。自分のブログで自己紹介をしたり、普段の記事と違ってですます調で書いていると、なんだか自分の部屋でよそ行きの服を着ているような気持ちになります。

 『短歌の日大賞・毎日選評2025』について、4/24のテーマ詠である「自転車」に関する短歌の選評を行いました。詳細は以下の通りです。

  • 特選1首、入選2首、佳作3首を選んでいます
  • 入選・佳作としてピックアップした短歌は順不同です
  • ピックアップ時は短歌だけを読み、コメントや作者名は伏せました
  • 敬称略です

 

【特選】

向こうからおでこ近づく向こうから見ればわたしもおでこ自転車/後藤たり

 今回たくさんの自転車の歌を読んだ中で、最終的に「おでこ自転車」が記憶に残りつづけたように思います。語感の良さに加えてこのフレーズには、絵本に出てくるキャラクターを思わせるようなユーモラスさがあります。

 「自転車」同士ですれ違うときの歌だと読みました。「向こうから」誰かが近づいてきて、「おでこ」に視線が置かれる。三句・四句で相手の視線が想像され、結句で相手と「わたし」がどちらも「自転車」に乗っていたことが明かされる。この語順も面白かったです。

 人間を構成するパーツの割合として「おでこ」はそれほど大きくありません。それでも、歌に出てくる人物の中ではおでこが印象に残っているようです。相手のパーツのうち印象的な箇所だけが残り、それが「自転車」と組み合わさることでキャラクター性の獲得まで到達できるのだなと、この歌を読んでいて思いました。

 

【入選】

自転車でこけた私のすぐ横を通っていった車の赤さ/せんぱい

 様々な状況を引き連れてくる「赤さ」という単語が、歌の魅力を支えていると感じました。

 歩いて転ぶよりも、「自転車」で転ぶほうがより痛そうです。怪我の具合が深刻すぎると、その印象だけで歌が止まりそうですが、この歌では「こけた」を使うことで読み手に必要以上の深刻さを与えずに三句以降を読み進められるように思います。

 歌を読む限り、「自転車でこけた私」に気づいた人はいたとしても、声をかけた人はいなかったように思います。私を気にかけずに「すぐ横を通って」いく「車の赤さ」は、「こけた」ことで負ったであろう傷の赤さや、道端で「こけて」しまったことによる恥ずかしさを同時に想起させます。そういった様々な「赤さ」を、通った車の色だけでこちらに伝えてくるところがこの歌の魅力的な部分だと感じています。

 

前カゴのゲームボーイが跳びはねて夏休みって全然ながい/きいろい

 2つの異なる時間の長さが重なっていくところが印象に残りました。

 自転車の「前カゴ」は不安定なのになぜか精密機器を入れがちです。歌に出てくる人物も、精密機器を入れているという意識が薄いからか「ゲームボーイが跳びはねて」います。上句ではこの跳びはねた瞬間が切り取られています。

 対して下句では、「ゲームボーイ」が跳びはねる瞬間を包むように幼い頃の夏休みの果てしなさが詠われています。2つの異なる時間が重なることで、瞬間と果てしなさの両方を味わうことができました。

 子どもの頃の夏休みは確かに「全然ながい」ですね。大人になってからと比べて中身も詰まっている気がします。「全然ながい」というフレーズによって、短い夏休みを知った現在が入り込むような印象も受けました。

 

【佳作】

わたくしがわたくしの帆を揚ぐるとき駐輪場のひだまり静か/有為

「わたくしがわたくしの帆を揚ぐる」という表現が魅力的でした。

 上句の意味を取るのに少し時間を要しましたが、自転車で上半身が伸びるような体勢をとっていると解釈しました。上半身が「帆」に喩えられることで、伸び上がる体の様子だけでなく、身体が受けている風まで想像させるところが面白いと思います。

 下句の「ひだまり静か」も、自分以外誰もいない駐輪場に陽がさしている様子を思い起こさせてくれます。個人的に、静けさを帯びているものは涼しい/冷たいものが多いような気がしています。しかし歌の中の情景がはっきりと浮かぶため、確かにひだまりも静けさを帯びているよなと認識することができました。

 

前カゴに花をのせればあなたへと駆ける花瓶に変わる自転車/もりなこ

 歌から想像できるスピード感と、「花瓶」が「自転車」に変わるという言い切りの強さが相乗効果を生んでいるように感じました。

「花瓶」は多くの場合、安定した場所に置かれます。また、水を入れることもあるので漏れ出さないような材質になっています。対して「前カゴ」は地面の形状によって揺れますし、水は漏れるので「花瓶」からは遠いもののように思えます。

 それでも「花をのせれば」「花瓶に変わる」と言い切る。その強さに「駆ける」がもたらすスピード感が合わさって、読んでいて「自転車」は「花瓶に変わる」んだなと納得させられました。韻律もスピード感を損なわない形で歌に味方していると思います。

 

自転車で日ごと遠くへこぎゆけば父の目を見て話せなくなる/山口絢子

 「自転車で日ごと遠くへ」行くようになることと、「父の目を見て話せなくなる」こと。この二つが接続されるところに面白さを感じました。

 成長するにつれ、行動範囲は広がります。遠くへ出かけることで気分が高まる感覚は、自分にも覚えがあります。しかしどんなに遠くへ行っても、自宅に戻り家族とコミュニケーションをとることになりますし、鬱陶しさを感じるようにもなります。

 歌の中に出てくる二つの状況は、直接的な関係を持ちません。しかしポジティブ/ネガティブな感情を生み出す状況が歌の中で接続されることで、思春期・反抗期に起こる心の揺らぎが、歌の中で表現されているように思いました。

 

終わりに

 以上が今回取り上げた6首になります。自転車に関する歌をたくさん読んでいくと、詠みたくなる状況や光景に関する大まかな傾向が分かって面白かったです。
 たくさんの短歌を投稿してくださり、ありがとうございました。

1年でやりたいことを100個考える

 2年ほど前から、1年でやりたい100のコトを三が日の間までにつけるようにしている。以下のサイトを使うのが便利で、やりたいことを自分で決めることもできるし、ランダムで提案もしてくれる。また、出力も画像形式やPDF形式などを選べる。

nolty.jp

 

 個人的なことも書いているので、人には見せていない。今年で3回目になり、ようやく書くコツも掴めてきた。コツの1つとして、何かを継続するような項目をできるだけ書かないことが挙げられる。例えば「週に3回ランニングを続ける」と書くと、1月の中旬あたりで途切れてしまった場合にもう達成することはできなくなってしまう。継続系のものが増えてしまうと、その分達成率も下がってしまいモチベーションにも悪い影響を及ぼすだろう。

 コツは掴めてきても、単純に100個考えるのは結構時間がかかる。SNSでアップしている人のものも参考にしながら、1つずつ埋めていく。数時間かけて完成したものを見てみると、わたしは色々な場所に行きたがっているし、様々な何かを食べたがっている。ある程度やりたいことが達成できれば、充実した1年と言えるのではないだろうか。

 去年までは書いた後にしばらく放置していたが、今年はすぐに行動できそうなものをやってしまうことにした。

 次の週、県境になっている橋を渡り、隣の県から自分の住んでいる県を眺めてみることにした。やってみたいことの1つだからだ。風がよく吹いている日で、橋の上を歩いているときは遮るものが何もなく顔が一層冷たい。それに加え、トラックが通るたびに冷たい風のかたまりが顔めがけて飛んでくるのもキツい。隣の県に辿り着き、両耳が痛くなりながら自分の住んでいる県を眺めた。ごちゃごちゃとした町並みが、かろうじて土手の上から顔を出している。奥のほうでは富士山が見えているが、遠近法の介入で送電塔2個分の大きさになっている。送電塔が大きすぎる可能性もまだ捨てきれない。自分の住んでいる県を眺めていたが時間は5分にも満たなかったと思うが、そこそこの満足感を得ることができた。

 同じ日に、町に新しくできたカレー屋に行った。これもやってみたいことの1つだ。テイクアウトができるとのことで、家でゆっくり食べたい気分だったためテイクアウトにした。頼んだチキンカレーは鶏がかなり柔らかくなっていて、ほろほろというのはこういう時に使えばいいような気がする。食べた瞬間は甘さもあるのだが、後からじわじわ辛さを感じた。

 今の段階でやりたいことは4つ達成することができた。残り96個。できるだけ達成した気持ちはあるが、あまり意識しすぎるとノルマのようになり、考えるたびにメンタルをどこかに少しずつ支払っているような気分になってしまう。できるだけ頭の隅に置いておきたい。

ドラえもんはお餅を食べ過ぎている

 2つ。

 今年、雑煮を食べる際に入れた餅の数だ。雑煮は三が日にしか食べないため、どのくらい食べるとちょうど良いのか忘れやすい。20代前半までは餅を3つ入れていたが、次第に食べた後に影響を及ぼすようになった。胸焼けだ。正月早々、不快感を覚えながら街を歩くのは少し気が滅入る。しかし1年をかけて胸焼けの記憶が薄れていき、次の正月にまた餅を3つ入れてしまう。そして胸焼けになる。そんなことを20代後半は繰り返していた。

 ようやく去年になって食後に訪れる不快感が脳に刻まれたのか、餅の数を2つに減らした。胸焼けは起きなかった。街を歩くときの足取りもいくらか軽やかだった気がする。今年も2つにしたことで、胸の辺りをさすりながら歩かずに済んだ。

 ドラえもんも餅が好物だ。漫画の1話目で餅を「うまいもんだなあ」と言いながら食べていたし、のび太と最後の餅をめぐって取っ組み合いの喧嘩をする話もある。そういえば、1話目でドラえもんは餅をいくつ食べていたのだろうか。確認してみると3つだった。胸焼けが心配になる。餅で喧嘩をした話も確認してみた。のび太ドラえもんがそれぞれ4つ食べていることが分かった。より胸焼けが心配になる。

 

 初詣で神社に行くと団子が売っていた。朝に餅を食べているにもかかわらず、形状と味が変わるだけでなんだか食べたくなってくる。味噌だれ。甘じょっぱさと美味しさは脳内で容易に再現できた。しかし、ここで食べてしまうと雑煮の餅の数を減らして意味がなくなってしまい、胸焼けの道へ入り込んでしまうだろう。誘惑を振り切って進む。

 お参りとお守りの購入を済ませ、辺りをうろついてみる。大きな神社ではないので、絵馬は数えるほどしか飾られていなかった。時期的に受験に関する絵馬が多いと予想していたが、結構方向性はバラバラだった。Xで時々見かける、ビジネスに関する広告みたいな絵馬もあった。関連のないところからいきなり目に入り込んでくる感じも広告に近い。

 おみくじも何種類か売っていたが、どれも引かなかった。昨年でおみくじは引退したからだ。二年連続で大吉を引いたことで、もうこれ以上いい結果を得ることは難しいだろうという気持ちになり、引退を決意した。おみくじを引かなくなってからは、初詣に対して気負いがなくなったような気がする。神社で新年から一喜一憂することも無くなった。

 

 やることを済ませ穏やかな気持ちで家に戻ったが、結局昼過ぎに団子を食べるためだけにもう一度神社に行った。

文学フリマ東京39に関する感想

 文学フリマ東京39にメゾン文芸部として参加した。文学フリマには9回目の出店になる。今回は新刊として小説の合同誌と短歌のコピー本を頒布した。

 小説の合同誌はある程度余裕を持って進めることができたのだが、短歌のコピー本は仕事が忙しかったのもあり、久しぶりに睡眠時間を焼べるような進め方になった。組版が終わったのは文学フリマ当日の午前2時過ぎだ。足を濡らすことくらいしかできない睡眠量で、当日はキンコーズに開店とほぼ同時に飛び込み印刷作業を行った。キンコーズで開店待ちをしている人はさすがにいなかった。印刷自体は割とスムーズだったことは非常に運が良かったと思う。前回コピー本を作成する際に大苦戦した小冊子印刷も理解できた。物品も買い足したいものがあったため、東急ハンズに開店と同時に突っ込むことにした。東急ハンズでは開店待ちをしている人が5人ちょっといた。入店と同時にエレベーターに乗ったのだが、確実に空っぽなエレベーターに乗るのは初めてだったかもしれない。 

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 会場である東京ビッグサイトは合同説明会ぶりだった。東京流通センターに慣れていたので、コンビニが会場までに複数あるだけですごいと感じてしまう。コピーを行っている人の列も各コンビニに分散しているのか、前回と比べるとかなり少なかった。以前は会場のすぐ近くにあるコンビニにコピーをしたい人が長蛇の列を作っていて、印刷までに30分以上かかることもあった。並んでいる間、包丁を持って叫んでいるAAが思い浮かんだ。

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 しかし、列に並んでいる私も大声で叫びたくなる原因を作っている一人だ。列に並んでいる全員が

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 このAAと同じ気持ちだったのかもしれない。

 食事ができるところが多いのも安心感があった。選択肢は心に余裕を与えてくれる。数分歩く体力も当日はなかったため近場のフードコートに行った結果、かなり待つ形にはなったけれども。

 寝不足と人の多さで体力はどんどん減っていく。本来は一通りブースをざっくり見て色々買いたかったのだが、短歌のブース群を歩いた途端に人の多さにくらくらしてしまう。急に汗が噴き出すほどの密度。何人かに声をかけていただいたが、ちゃんと受け答えできていたかは不安が残る。結局気になっていたブースで頒布物をいくつか買うだけにとどまり、他のジャンルには辿り着くことはできなかった。疲れ果てた自分にできることは、自サークルに戻り椅子に座って天井を眺めるくらいだ。ビッグサイトの天井は骨組みが剥き出しだった。

 

 もう少し頒布物を手に取ってもらう回数を増やすにはどうすればいいか。知名度がほぼ無いサークルなので、頒布物がほとんど売れないのは理解ができている。参加するたびに必ず手に取ってくれる方が現れるので非常に運がいいサークルではあるだろう。それでも頒布冊数が停滞してくると、もう少し手に取ってもらえる回数を増やしたいという気持ちになってくる。

 まず考えられるのが、頒布物の説明のしづらさだ。小説合同誌に関してはサークル内で書いているものがバラバラなので、どんなものなのか説明がしづらい。小説が複数作品収録されていますという、字面の説明に終始してしまう。打ち上げの時にもサークルのメンバーと議論をしていたが、合同誌のコンセプトをちゃんと決めて、どういう小説が収録されているのか分かりやすい形にしていくほうが手に取りやすそうだ。よく分からないものは手に取りづらいだろう。

 また、短歌に関する冊子やフリーペーパーを短歌のブース群ではない場所で頒布して、今よりも手に取ってもらうにはどうすればいいのかも文学フリマ東京が終わってからずっと考えている。短歌のブース群、短編小説のブース群のいずれでもブースを出したことがあるが、短歌のブース群では小説が、小説のブース群では短歌が苦戦する。違うジャンルのものをどうやってブース内で共存させていくか。小説合同誌が抱える問題と同じく、こういう短歌を作っていると一言で説明しづらい。どうにか説明しようとすると、町/街に関する短歌を作ることが多く、他者に関する短歌を作ることはほぼない。説明をしていないときと情報量があまり変わらないような気がする。

 また、小説・短歌両方に言えることとして、コンスタントに小説や短歌をアップし、チェックしてくれる人を増やしていく必要がある。ブログも更新したほうがいいだろう。そのためには体力が必要だ。

 これからも文学フリマ(特に東京)は規模が大きくなっていくことが想定される。ふらりとブースに寄ってもらうという期待はもう抱かないほうがいい気がする。事前にリストアップする、当日訪れるサークルの1つにどうやって入り込むかを今後も考えていかなければならない。まずは短歌・文章・小説をアップする頻度を増やしていくところから始めていきたい。

 文学フリマ東京を終えてから早速縄跳びを始め、文章を書くようになった。今はふくらはぎの筋肉痛に悩まされながらこの文章を書き、書き終えた。

タスク管理の侵食

8月その3

 仕事をするときはメモ用紙に1日のタスクを書き、完了したら横線を引く形で管理をしている。少し前まではパソコンでタスク管理をしていたのだが、アナログの方がタスクを消す際の達成感が大きくなる気がする。ペンで紙に圧力をかけ、手を横に動かすという行為が割と重要なのかもしれない。

 平日の仕事終わりや休日にやることも最近は紙に書き出すようになった。本を何分読む、仕事に関する勉強を何分する、短歌を◯首作るといった具合だ。気を抜くとネットサーフィンを始めてしまい寝る前に後悔するはめになるので、プライベートな時間にも色々作業をこなしたという事実を目に見える形にすることで精神安定につなげている面もあると思う。

 昔はそこそこ読書をしていた気がするが、今は長時間の読書はできず、5分や10分など細切れに時間を取っている。暇があったら本を読むタイプではないため、読書家とは言えない気がする。読書好きでもないだろう。読書をする人、くらいの言い方がちょうど良いのかもしれない。

 逆に音楽を聴く時間は昔より増えた。再生すれば自動的に流れるという音楽の特徴は生活に取り入れやすい。歩くときも人の話し声をあまり聞きたくないため音楽をかける。移動と音楽を聴くことは同時に行えるので、行為に対する時間を確保することが容易いし、時間を確保するという意識もほとんどないので腰も重くならない。読書や小説・短歌の作成も音楽と同じような形でできるといいが、能動的に始めようとすると腰は途端に重くなってしまう。

8月その4

 次の日が休日だったため、夜は少しゆっくりする。

 Xでたまたま以下の動画の存在を知ったので視聴する。まだ手はTwitterと入力したくなるし、Xと入力した後はまだ疑問符が頭の中に浮かぶ。

www.youtube.com

 

「先延ばしの達人の頭の中」と題されたたこの動画では、先延ばしをする人の頭の中(話し手も含む)について説明がされている。締め切りがないとどんどん先延ばしになってしまうのは心当たりが余るほどある。買ったCDのインポートがかれこれ1年以上できていない。

 かといって締め切りをただ作れば先延ばしが解決できるかというとそうでもない。締め切りもどきを作ったとしても自分の脳は騙せないだろう。先延ばしをどう解決するかに関しても、人生の終わりという締め切りめいたものは存在するが、まだまだ先だと思ってしまうためまだ解決には動けていない。

短歌の整理をした/名付けの引き延ばし

8月その1

 急いでやることが無かったので、短歌の整理をした。

 連作を作る際は必要な数の2倍短歌を作るようにしている。例えば10首連作を作る場合は短歌を20首作るといった具合だ。 この方法だと短歌を並べる作業をしているときに、連作から外すという判断をしやすくなる。SNSで似たような作り方を聞いて、かれこれ2年ほどこの方法を採り入れている。

 こういった連作の作り方をすると、基本的には連作を構成している短歌の数と同じだけ未発表のものができる。それらがずっと散らばった状態になっていた。

 遡ることのできたここ2年ほどの短歌を整理したところ、未発表のものが合計236首存在することが分かった。この中から修正などを行って連作などに組み込まれるのは体感1~2割ほどで、200首ほどは未発表のままになりそうだ。

 

 久しぶりにサブPCを動かしたところ、Gmailを起動するのに10分近くかかった。作業の空き時間にメールを返信するのではなく、メールアプリが開くまでの空き時間で細かい作業をするという逆転現象が起きている。5年近く前に買ったHDDのノートパソコンなのでもう色々と限界なのだろう。

 騙し騙し使っているのはサブPCだけでない。スマートフォンもバッテリーは6割ほどしか持たないし、iPod touchはおそらくバッテリーが膨らみ始めている。いきなり全部が壊れないように祈りつつ、無事に買い替えたい。

 

8月その2

 夜遅くまで作業をしていたせいで寝不足。仕事が終わったあとは電池が切れてしまい30分ほどその場から動けなくなってしまった。こういう時は早く寝るべきなのは分かっているが、疲れているときに限ってネットサーフィンをしてしまう癖がある。

 夜更かしをしているとき、一時的に心が満たされるような物質が出ているのではないだろうか。この物質は寝る直前になると体内から排出され、なぜ夜更かしをしてしまったのかという後悔と明日への懸念だけが残る。また物質には依存性があり、何回も同じことを繰り返してしまう。
 物質は出ていないとしても、可処分時間の補充を行おうという意識が働くことが夜更かしの原因になっていると思う。これはリベンジ夜更かしという言葉で表すこともできるが、名前が付いてしまうと説明しきった気分になってしまって良くない。感覚や感情に関する名付けはできるだけ引き延ばしておきたい。

 次の日が休日ということもあり、結局この日も寝る時間は遅くなってしまった。

夏祭りと夏祭り

7月

 車の中ではラジオが流れている。パーソナリティーが何か話をしているみたいだが、耳に入るときにはもう音の帯びている意味は曖昧になっていた。車内での会話にリソースが割かれ、ラジオに対して脳が省電力モードになっていたのかもしれない。

 軽快に車を走らせている友人の希望で、バイキングのチェーン店で食事をした帰りだった。子どもの頃に何度か行ったことがあり、十数年ぶりに行って美味しさがどう変化しているのか確かめたかったらしい。私も子どもの頃に行ったことがあったが、美味しいと思った記憶はなかった。

 実際に料理に手をつけてみると、食べるのが鈍るほど美味しくないわけではない。しかし、同じ値段を払うならもっと美味しいものが巷には溢れているとも思った。それでも餅を使った料理は美味しく、後半はそればかり食べていた。

 30年ほど生きてきて、私はもちもちしたものが好みだということが分かってきた。大学生の後半は購買で団子ばかり食べていたし、タピオカの入った飲み物も近場にお店があれば頻繁に通うはずだ。逆にシャキシャキしたものや歯ごたえのあるものは苦手になりやすい。生野菜が苦手なのも食感が関わっている。

 バイキングを終えた私たちはぐったりとしていた。普段の食事よりも何かを選ぶことに労力が割かれるため、疲れやすいのかもしれない。助手席から後部座席にいる友人2人を見ると、1人は眠っているように見えた。

 ラジオからは曲が流れ始めた。知っている歌詞だったがやや聴き慣れないアレンジ。JITTERIN'JINNの『夏祭り』だった。普段受動的に夏祭りを聴くときは、十中八九Whiteberryが歌っているバージョンだ。改めて聴いてみると、JITTERIN'JINN版はドラムが比較的前に出ている気がする。Whiteberry版はギターが前に出ていたように記憶している。

 家に帰ってから両方のバージョンを聴き比べてみる。JITTERIN'JINN版の間奏で流れるギターソロにグッとくるものがあった。ラジオ版でも流れていたと思うが気に留めなかった。聴き方が異なると印象もやはり異なる。Whiteberry版はギターではなくキーボードや装飾音が結構前に出ていた。記憶はあてにならない。JITTERIN'JINN版は祭りの風景や雰囲気が想起され、Whiteberry版は祭りによって生み出される関係性や感情が思い起こされるように思えた。

 祭りの風景を思い浮かべるとき、まず初めに地元の祭りが出てくる。現在地元の祭りは10年前と比べて屋台は3分の1以下になっているらしい。

 

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