コムギココメコ

忘れてもいいことを書くので不備忘録

2018年に購入/レンタルしたアルバム紹介③

 皆さんは3月をどう過ごしましたか。

花粉が多く飛んでいるときに東京に遊びに行った結果、くしゃみや目のかゆみに悩まされ、新潟に戻れば何とかなるかな、やったか!? と思ったが全然やっておらず、今日も花粉症の症状が出ている。花粉症のせいで春が嫌いになってしまった人もいるだろう。春は何も悪くないのに。

 

 今回はアルバム紹介第3弾である。記事の更新のペースと、アルバムを購入/レンタルするペースが釣り合っていない。気力を増やして記事を書いていきたい。

 

 今回は以下のアルバムについて紹介していく。

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 左上から時計回りに、

Captain Beefheart & The Magic Band『Trout Mask Replica』

James Blake『Overgrown』

Jaga Jazzist『A Livingroom Hush』

David Bowie『Low』

Primal Scream『Screamadelica』

 

である。前回は邦楽が多かったが、今回は海外の作品で占められている。

 ジャケットのインパクトが凄い『Trout Mask Replica』を制作したキャプテン・ビーフハートは、かの有名なフランク・ザッパの友人だったらしい。ギター、ベース、ドラムがあらゆる方向に散らかりながら、ビーフハートのしゃがれ声のボーカルが炸裂する。酔っ払いがフラフラ道を歩いている音楽は、一見何の計算もされていないように見えるが、実は何か月もバンドで練習を行った成果の結晶だったりする。計算された千鳥足なのだ。

『Overgrown』はエレクトロニカに属する作品である。前作『James Blake』と同じく、物静かで冬を思い浮かばせるような音楽だが、前作よりも盛り上がっていく場面があるように感じた。8曲目の『Voyeur』が良い例だろう。全曲に渡って特徴的なのが、James Blakeの声であり、哀しみを湛えた声が荒涼な風景を思い起こさせる。

『A Livingroom Hush』はジャズとクラブミュージックが融合したアルバムである。 Jaga Jazzistは現在、クラブミュージックやエレクトロニカを聴いているとよく名前が挙がる『Ninja Tune』というレーベルに所属しているが、この作品は所属する前に作られたものらしい。『Ninja Tune』所属で、ジャズとクラブミュージックを融合した作品を作っている集団と言うと、The Cinematic OrchestraやSkalpelが挙げられるが、このアルバムは上記のグループよりもアッパーな雰囲気を漂わせている。顕著なのは1曲目の『Animal Chin』で、ジャズにしてはドラムが狂ったように叩かれているように思える。しかし、ゆったりとしたナンバーも時々顔を出し、緩急の効いたアルバムとなっている。

『Low』は、ロックスターとして名が挙がる David Bowieによる作品である。アンビエント界の大御所、Brian Enoと共に作られた。David Bowieは有名だけど、アルバムを聴いたことがなかったなと思い、レンタルした。もっとロックロックしてるのかと思ったが、穏やかさを感じさせる曲が多いように思えた。Brian Enoが携わっているためだろうか。後半に進むにつれアンビエント色が強くなっている。

『Screamadelica』は、ジャケットだけ知っていた。アイドルグループのゆるめるモ!がジャケットのパロディを行っていたと思う。味付けの基本はロックだが、ダンスミュージックも振りかけられている。2曲目の『Slip Inside This House』はロック+ダンス+サイケも少々と言う感じで、かなり好みだった。全体的に太陽の光が差し込んでくるような曲が多いアルバムだと感じた。

 

 最後に紹介したアルバムの曲を一部リンクとして載せておく。

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com


【私の好きな短歌その1】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

 好きなものを紹介するのは難しい。語彙力が減ってしまうからだ。Twitterを眺めていると、好きなものを紹介している人は語彙力がその時だけ消えてしまう傾向があるように見える。

 私も好きなものを紹介するとき、上手く伝わってないんだろうなと思う時が多い。嫌いなものは理由を付けていくらでも書くことができるのに、好きなものはなかなか思うように進まない。

 だからと言って好きなものを表明していないと、なかなか好きなもの集めが捗らない。誰かが「こういうものがあり、好きになるかも」と教えてくれる機会が無いためだ。私たちは何か新しい良さを得るためには、定期的に好きなものを表明しておく必要がある。

 今回は好きな短歌について紹介し、どういうところが好きなのかを書いていきたいと思う。上手く伝わるかどうかは分からないが、短歌についてあまり知らない人がこの記事を見て、興味を持ってくれると幸いである。

 最近短歌に関する記事が多い。年々Twitterもブログも方向性が変化しているように見える。理由としては、人間だからである。

 

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

 

 短歌を読んでいるとごくまれに、「正解じゃん」と思う短歌に出会うことがある。上の短歌は、自分が初めて正解だと思ったものである。

 場所は駅のホームである。歌の前半は駅で流れるようなアナウンスと同じような形である。快速列車が通過するような駅なので、あまり大きな駅ではないのかもしれない。それから、「3番線」というチョイス。なぜ、1番線や2番線にしなかったのだろうか。短歌は原則五七五七七にする必要がある。2番線や5番線にすれば音数は守られる。しかし、作者は3番線を選んだ。駅長室から少し離れたところにある場所である理由は何なのか。

 これに関しては、柳本々々氏が以下のブログでこのように指摘している。

yagimotomotomoto.blog.fc2.com

 

「JRが国鉄だった頃は、駅長室から近い順に1番線、2番線、3番線とつけていったそうです。

だからまあもし3番線で死ぬとしたら、駅長からちょっと離れたところで死ぬことになるんですよ。駅長を電車の〈父親的なもの〉だとするなら、そういうものから少し離れた場所でしぬことになる。もっと言えば、だれにもしられず、父親が管轄できないシステムのすこし外でしぬことになる。父親は意味を与えるものですから、意味も与えられずに、です。「三番線」はその意味で、〈父なる領域〉から少しはずれたところにある。意味のすこしだけ彼岸に。(上記ブログより引用)」

 

 <父なる領域>から少し外れたところにある「3番線」。3番線は、人間の手から離れた場所を指しているのかもしれない。

 電車のアナウンスのような上句から一転し、下句は「理解できない人は下がって」とある。電車が通過するとき、人は黄色い線の内側へ下がる。しかし、この歌では「理解できない人」に対して警告じみたものが発せられている。

 通過する快速電車に乗り込むことはできない。無理やり乗り込もうとすれば、おそらく死が待っているだろう。この「快速電車」も、私たちの手からは届かない、脅威となり得る力を持ったものだと言えないだろうか。

 脅威的な力を持ったものに対して、生身の我々は為す術がない。しかし、脅威を理解することができたのならば、そこから自らの意思で退くことができる。もし、理解できないのであれば、無理やり下がらせるしかない。

 そう解釈していくと、この短歌は、何か上の存在からの警告じみたものに見えてくる。理解できる人は自ら下がる。理解できない人は警告によっておそらく下がることになる。こうして人は「快速電車」の持つ脅威的な力の犠牲にならずに済むのだ。

 

 この短歌の作者である中澤系(敬称略)は、2009年に亡くなっている。しかし、遺された短歌は短歌集『uta0001.txt』としてまとめられ、私たちのもとに届いている。私がこの短歌集を買ったときは絶版になっていて、神保町にある古書いろどりで最後の1冊を入手した。

 しかし、今年に入ってから出版社を変え、再版された。紹介した歌は、この短歌集の1首目を飾っている。Amazonでも購入可能だ。

 この短歌集は今年を含めて、2回再版されている。それだけ中澤系の短歌を人々は読みたいと思っているのだろう。是非手に取って読んでほしい。

新潟の空き瓶歌会に参加しました

 私は現在、仕事の関係で新潟に住んでいる。新潟って皆さん知っていますか? 武器にするとリーチが長そうな県です。

 移り住んでからだいたい1年が経ち、社会に殺されないように日々やり過ごしている。皆さんは社会が好きですか?

 大体の皆さんと同じように、私は1日の大半を仕事と睡眠に費やし、残り少なくなった1日を何とか最後の最後まで絞り切って、やりたいこと、やっていて楽しいことに没頭している。

 やっていて楽しいことの1つに短歌がある。基本私は飽きっぽく、子供の頃も色々計画を立てて、すぐ放棄することを繰り返していた。計画を立てるのは楽しいのだが、実際にやってみるとなかなか続かないのだ。そういった気質は、今も変わらない。しかし、短歌に関しては2年前から始めて、どんどん熱中具合が上がっている。ずっと頭の片隅にあるような気がして、それに救われたり苦しめられたりする。これは恋を発症したときにあらわれる症状と類似性がある。

 私はうたの日というサイトに短歌を投稿していて、それらの結果が発表されてからTwitterに転送している。ちなみに私は橙田千尋という名義で存在している。

うたの日

 ネットに短歌を投げるパターンが存在するのと同時に、現実で何人かで集まって、短歌を読んで評しあう場も存在する。それらは歌会と言う。

 現実空間で存在を露出させるのは結構勇気が必要で、短歌をやっている人の中には歌会に行くのが怖い、自分の作った短歌をけちょんけちょんにされたらどうしようと思っている人もいるだろう。

 今回は橙田千尋という人物を例に挙げて、歌会がどんなものなのかを紹介していくことにする。しかし、私も1種類の歌会にしか参加したことが無いので、おそらく他にも様々なタイプがあると思う。1つの例として参考にしていただければ幸いである。

 

 短歌をいくつかの媒体に投稿していたある日、歌会たかまがはらというネット配信をしている歌会で投稿した短歌を取り上げていただいた。それと大体同じ時期に、新潟に空き瓶歌会という会が存在することを知った。1回行ってみようと思ったが、迷っているうちに締め切りが過ぎてしまい、行かずじまいだった。とあるVtuberの方の言葉を借りるとすれば、やらなければ、はじまらないのである。私はその時やらなかったので、はじまらなかった。

 その後、空き瓶歌会をTwitterでフォローしたところ、代表の方から新潟在住のメンバーで行っている小瓶歌会(空き瓶歌会のミニバージョン)にお誘いいただいた。私はすぐに参加したいとDMを送った。

 こうして、去年の11月に初めて歌会に参加することが決定した。基本的に私はインターネット上に浮かんでいるので、実質蒸気のようなものである。実体を持って現実の催し物に参加したことはほとんどなかった。

 小瓶歌会では題詠と自由詠を1首ずつ用意しておく必要があった。何とか2首作り、提出した。

 数日後、詠草一覧が送られてきた。小瓶歌会/空き瓶歌会では1首ごとに必ず全員が発言をするようになっているため、ノートに読んだときのイメージや抱いた感想を書いて当日に臨んだ。ちなみに、歌会によっては惹かれた歌を選び、票がたくさん入ったものから順番に評していくものもある(むしろそういったタイプのほうが主流なのかもしれない)。興味のある歌会に参加してみたい場合は、事前にどういうシステムなのか主催者に聞いてみるといいだろう。

 寝たり起きたりするうちに、いよいよ歌会当日になった。蒸気だった私は何とか肉体を用意して、外に出た。昼ご飯を食べていなかったので、立ち食いそば屋でたぬきそばを食べた。たぬきそばにはきゅうりの入っているものと入っていないものがあり、前者だと著しくテンションが下がってしまうのだが、そのそば屋は後者だったため、精神が保たれた。

 会場は砂丘館という場所だった。趣のある建物だったため、「趣~」となってしまった。皆さんは普段趣いてますか? ちなみに砂丘館から少し歩くと日本海が見える。私も時間があったので海を見にいった。日本海を見たときにくるりの『日本海』という曲を聴いていたので、「日本海日本海を聴いてるな~」という気持ちになった。

  時間が迫ってきたので、砂丘館に入る。中も趣きだった。歌会の会場になっている部屋に入ろうとしたが、どうも足が上手く進まず、様々な廊下を通った。中には短歌の鬼みたいな人がたくさんいて、ボコボコにされるのではないかとも思った。どこかに「この部屋に入るものは一切の希望を捨てよ」と書いてあったかもしれない。色々考えながら歩くこと数分、ついに部屋の中に入った。

 結論から言えば、私はボコボコにされずにすんだ。口が上手くまわらず、自己紹介の時に住んだことの無い場所のイントネーションで喋ってしまったことを除けば。数時間にわたり、何人かの短歌を読み、評を述べる体験をした。

 なかなかネット内にいると、他人から評や感想をいただく機会は少ないのだが、歌会では必ずと言っていいほど評を貰えるので、自分の歌がどういった感じで解釈されるのかが分かり、かなり参考になった。

 歌会が終わった後は懇親会があり、今後も参加しようという思いで帰路に着いた。

 その後も何回か小瓶歌会に参加し、先日行われた空き瓶歌会にも参加した。私は以下の歌を提出した。

 

遠足のおやつは200円以内ひらがなはさ行まで認めます

 

 ゲスト選者の方を含めた数人から評をいただいた。鋭い評が多く、今後評を述べる時の参考にしていきたいと感じた。

 歌会の後は懇親会があった。

 

 

 歌会に出ることによって、自分の歌がどういう解釈をされるのかを確かめることができる。歌会は東京で行われるものが多いが、地方で開催されるものもある。どこでどんな歌会が開催されているかは、hiroki asano(Twitterアカウント名をそのまま引用)さんのツイートが参考になると思うので、引用したいと思う(問題があればこの部分は削除します)。

 

  

 様々な歌会があることが分かる。Twitterアカウントやブログ、ホームページを持っている歌会もあるので、まずは調べてみて、気になったところとアポイントを取ってみるのが良いだろう。

 

 歌会は短歌を詠む/読む場所の1つである。歌会に行く行かないは自由だ。しかし、やらなければ、はじまらないこともあるので、この記事を読んで、歌会に行ってみたいけど勇気が、と言う人の参考になれば幸いである。

 宣伝をしておくと、新潟の空き瓶歌会はゆったりとした場所、雰囲気で行われている。新潟は食べ物も美味しいので、短歌をやっている(興味がある)方は是非旅行がてら参加してもらえればと思う。

 

 これからも頑張るぞ!!

幸福の液体は自販機で売られている

 私は同じ食べ物・飲み物を毎日摂取する人間である。

 学生の頃はひたすらポカリスエットを飲んでいた。アクエリアスではダメだった。時々、運動をしていないのにやたらとスポーツドリンクを飲む人があなたの周りにもいなかっただろうか。それはたぶん私である。

 また、ある時は団子をひたすら食べていた。毎日毎日団子。みたらしとこしあんをひたすらにループしていた。時々三色団子も食べていたが、あれはローテの谷間みたいなもので、結局はみたらしとこしあんに落ち着いた。

 団子を同じ店で毎日買うため、たまに団子を買わない時があると、「あれ、団子は買わないの?」と言われるようになった。おそらく団子を食べないと死ぬ病気にでもかかっていると思われていたに違いない。今はあまり団子を食べなくなったが、死んでいない。

 定期的にある食べ物・飲み物を執拗に飲んでいる私が、ここ1年くらい飲んでいるものは、濃いめのカルピスである。自分で作るのではなく、自販機やコンビニで売っている、雪塩を使っているものである。

 もともと私は、カルピスは濃ければ濃いほど上手いと考えている人間だった。そのため、市販のカルピスは薄く、味気なかった。しかし、去年の夏ころに濃いめのカルピスが発売され、生活は一気に華やいだ。私は見かけるたびに濃いめのカルピスを買った。世界は私を中心に動いているようだった。

 そんな生活も長くは続かなかった。夏が終わると、店頭や自動販売機からは濃いめのカルピスが消えていた。おそらく私のアンチの仕業に違いない。世界は私を中心に動かず、前と同じように太陽を中心に回っていった。

 失意をひきずったまま秋が終わり、冬が来た。ある日、自販機を見かけると濃いめのカルピスと言う文字があった。テンションがぐぐぐっと上がっていく。しかし、よく見ると雪塩ではなくはちみつが入っていた。テンションは上り坂から平坦な道へと変わった。試しに買って飲む。違う。美味しいけど何かが違う。テンションは下り坂を進んでいた。憧れの人が見ない間に変わってしまったような気持ちを覚えた。

 やがて春が来て、はちみつ入りのカルピスも姿を消した。私は照りつける社会の中をひいひい歩いていた。

 幾度目かの夏。自販機を見ると、憧れていた文字が目に飛び込んできた。

『濃いめのカルピス 宮古島の雪塩使用』

 憧れの人が憧れのまま、帰ってきたのだ! 世界が色を帯びていく。すぐに買って飲む。味も変わっていない。むしろ、はちみつ入りを経験したことで、さらに美味しく感じる。幸福を液体にしたら、こういう味なのだろうと思う。

 幸福はいつ終わるか分からないので、見かけるたびに濃いめのカルピスを買っている。どの自販機で売っているのかも、自分がよく通る道は全て把握している。コンビニであれば、セブンイレブンに売っている可能性が高い。

 雪塩を使った濃いめのカルピスは液体の幸福である。幸福をペットボトルに詰めて売っているのであれば、どこかに幸福が湧き出る泉があり、そこから汲み取っているのだろう。このまま汲み続けると、泉は枯れるかもしれない。そういう後ろめたさを感じながらも、私は飲むのをやめることができないのであった。

2018年に購入/レンタルしたアルバム紹介②

 気が付いたらお金が無くなっていた。

 東京に遊びに行き、中古CDショップやTSUTAYAタワレコを回り、美味しいものを食べた後、財布を見るとお金が無くなっていた。なぜ楽しいことをするとお金が無くなるのだろう。なぜ辛いことをしてもあまりお金は増えないのだろう。

 去年を上回るペースでアルバムを購入しているため、どんどん積紹(積紹とは、紹介するものがどんどん積まれていくこと)が増えていく。定期的に書く癖をつけたい。定期的にすることがあまり得意ではない。

 今回は以下のアルバムを聴いた。

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  左上から時計回りに、

 

米津玄師『Bootleg

椎名林檎『逆輸入 ~港湾局~』

フィッシュマンズ『空中キャンプ』

Kendrick Lamer『DAMN.』

椎名林檎『逆輸入 ~輸入局~』

 

である。前回はVaporwaveで占められていたが、今回は有名どころが多い。

 

Bootleg』に関しては、なかなか手を出せずにいた。私は1stアルバムの『diorama』の内省的な雰囲気が好きだったので、アルバムを重ねるごとに好みの範囲から被らなくなってしまった。発売後、Twitterにも評判が届き、概ね高評価だったのと、クロスフェード動画で聴いた限りでは前作より好みだったので、聴いてみることにした。

 結果として、良いアルバムだと思った。バラエティにも富んでいて、なおかつキャッチー。1stの頃の薄暗い雰囲気から少しずつ外の世界に向かっていき、このアルバムでついに外の世界で自分らしさを作り出したのではないだろうか。1stの時は違うところにいるんだろうなと感じる。個人的には『砂の惑星』と『Moonlight』が特に良かった。

 

『逆輸入 ~港湾局~』『逆輸入 ~航空局~』は椎名林檎が他アーティストに提供した曲をセルフカバーしたアルバムである。『逆輸入 ~港湾局~』は1曲1曲違う編曲家が起用されていて、『逆輸入 ~航空局~』は斎藤ネコ村田陽一、名越由貴夫、朝川朋之という、椎名林檎を追っていると時々見かける人々(特に斎藤ネコ)たちと編曲を行っている。

『逆輸入 ~港湾局~』では、SMAPTOKIO広末涼子などに提供した曲が収録されている。編曲家が曲ごとに違うために、様々な表情に富んだアルバムになっている。個人的には遊園地っぽさを押し出したヒャダイン(前山田健一)編曲の『プライベイト』、原曲よりストレートにポップな小林武史編曲の『カプチーノ』が好きである。

『逆輸入 ~航空局~』では、石川さゆり高畑充希、Doughnuts Hole (松たか子満島ひかり高橋一生松田龍平)などに提供した曲が収録されている。このアルバムはアレンジャーが統一されているため、落ち着いた大人の雰囲気の曲が揃っている。

 ともさかりえ『少女ロボット』という曲は、原曲、東京事変版、そして今回のセルフカバー版が存在する。カバーを重ねるたびに、ロボットと言うよりは精巧なアンドロイドになってきたように思えるのは気のせいだろうか。少女もどんどん大人になるにつれ、落ち着いたアレンジになってきている。

 

『空中キャンプ』は浮遊感を味わうことのできるアルバムである。空や海に漂って寝ころんでいるような感覚になれる曲が揃っている。ボーカルである佐藤伸治の声は独特だが、このアルバムの雰囲気に合っている。特に収録曲の1つである、『ナイトクルージング』はピアノの綺麗さとかき鳴らされるギターの歪んだ音が混ざり合ったものすごい曲で、このアルバムのハイライトになっている。夜に聴くとかなりハマると思う。

 

『DAMN.』はアメリカのラッパーであるKendrick Lamerの4thアルバムである。3rdアルバムの『To Pimp a Butterfly』は色々な媒体で絶賛されていた覚えがある。私も聴いたが、その時はラップへの経験値が足りなかったため、いまいち分からなかった。

『DAMN.』は個人的に前作よりも好みだった。どこが違うのかは、ラップへの経験値が不足しているため、上手く言葉にできない。前作よりは音楽的にはシンプルになっているような気がする。あとリリックとかもしっかり読んでいかないといけないなと感じた。2曲目の『DNA.』は後半のサブベースだけになって声ネタが乱打されるところがとかなりカッコいいので聴いてみてほしい。

 

最後に音源を以下に貼っておく。

www.youtube.com

 

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フィッシュマンズ『空中キャンプ』は公式動画が見つからなかったため、リンクを貼っていません。

 

 

読書感想文:せきしろ×又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』

 咳をしても一人/尾崎放哉

 分け入っても分け入っても青い山/種田山頭火

 

 これらは自由律俳句と言われるものである。

 私のパソコンはガタがきているため、「自由律俳句」と打ち込んでスペースキーを押すと「自由律は行く」に変換されてしまう。こういうタイトルのブログが頭の中に現れる。中高年が運営していそうだ。自由律はどこに行くのだろう。

 俳句は通常5・7・5に季語を入れたものを指す。しかし自由律俳句は定型が存在せず、季語を入れる必要もない。

 俳句は生活の中で触れ合う機会が多少存在する。テレビ番組では芸能人が俳句を詠み、先生に斬られている。また、松尾芭蕉正岡子規などはよく知られている。

 対する自由律俳句はどうだ。私の記憶では教科書に自由律俳句は載っておらず、国語便覧の片隅に載っていた気がする。

 私は国語便覧を読むことが大好きだった。国語は国語便覧を読むためのものだと言っても過言ではなかった。社会科の資料集も大好きで、授業中ずっと読んでいた。こういうサブテキスト的なものは、様々な情報が所狭しと載っているから、見ていて飽きない。

 俳句には有名な俳人がいるが、自由律俳句には有名な人はいるだろうか。私は尾崎放哉と種田山頭火しかしらない。一人も知らない人がいてもおかしくはないだろう。

 現在、あまり自由律俳句に触れ合う機会はほとんどない。いや、なかった。自由律俳句に触れ合うことができる本が数年前に日本へと放たれている。

 今回はせきしろ×又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』を紹介していく。

  

 

 作家であるせきしろ氏と相方が海外進出している又吉氏。元々自由律俳句を作っていたせきしろ氏が、又吉氏を自由律俳句の世界に誘ったのがきっかけとなり、我々のもとに、500以上の自由律俳句といくつかの散文が届けられている。2人が作る自由律俳句とはどんなものなのだろうか。以下に2人の自由律俳句を3句ずつ引用する。

 まずはせきしろ氏から。

 

 手羽先をそこまでしか食べないのか

 現地集合現地解散なら行く

 黒い雪ならまだ残っている

 

 続いて又吉氏。

 

 ほめられたことをもう一度できない

 まだ何かに選ばれることを期待している

 便座は恐らく冷たいだろう

 

 これらの句は、世間一般の人が思い描く風流な句世界とは遠いところに位置するものである。自意識と世界を少し斜め下から見たような視点。これこそが2人の自由律俳句の肝となっている部分だと私は思う。

「現地集合現地解散なら行く」という句を取り上げてみる。おそらく何らかのイベントに主体(俳句の中の私)は誘われているのだろう。イベント事態に惹かれる部分はある。しかし、主体には引っかかるものがある。それは、行き帰りだ。

 おそらく現地に向かうとき、近場の人々と集まっていくことになる。帰りも同じだ。しかし、行き帰りに誰かと一緒にいることがなんとなく気まずい。二人とも別行動をしていればいいのかもしれないが、それも何か後ろめたい。行き帰りが一緒になる人は、気の置けない友人とは言い難いのかもしれない。様々な考えが頭をめぐり、頭の中で出した主体の結論が「現地集合現地解散なら行く」なのだ。

 続いて「便座は恐らく冷たいだろう」を取り上げる。場面はトイレで、おそらく自宅のものではない。駅か、何らかの施設の中かは分からないが、個室トイレの中にいる。そして、ズボンを下ろしながら便座を見て思う。「便座は恐らく冷たいだろう」と。冷たいと思われる便座にこれから座るのだ。お尻は不快な冷たさに触れることになる。しかし、座らなければならない。一種の諦めに近い自由律俳句だと思う。

 自由律俳句に出てくるものは、どれも身近なもので、特別感の欠片もない。時々はさまれる作者2人による写真も、日常によくある風景のように思える。また、主体の感情が表れる自由律俳句も、どこかくすぶっていて、自意識過剰気味である。

 歌人穂村弘氏は、『はじめての短歌』という本の中で、せきしろ氏や又吉氏の自由律俳句に触れていて、そこで「自分は社会的にダメだ、サバイバル力が低いってことを知っている」と評している。そして、そういった人間は「小さな死によく遭遇する」と言う。

「小さな死」とは、例えば「飲み会の席を選ぶ」ことである。飲み会に行ったとき、どうにか自分が話しかけやすい人が近い席に座ろうとする。そのために、頭を滅茶苦茶に働かせる。こういった行動をとるのはなぜか。それは、もし自分が話しかけやすい人が近くにいない席に座ってしまうことは、「小さな死」だからだ。社会的にダメだと感じている人ほど、「小さな死」が世の中にたくさん存在し、それらを避けようとする。

「現地集合現地解散なら行く」も、「小さな死」を避けたいという主体の想いが滲み出ている。完全には親しくない人と行き帰りが一緒になるのは、「小さな死」なのだ。

 また、穂村氏は「社会的にはぜんぜん意味がない」ものに詩は宿ると述べている。「黒い雪ならまだ残っている」が良い例だろう。雪と言えば空から降ってくる白い物体である。それらが積もると、世界が白く染まる。雪は白いものであり、小説や短歌、俳句でもほとんどの場合雪は白いものとして登場する。

 しかし、せきしろ氏は黒い雪に焦点を合わせている。土やほこりなどが付いた状態で日陰にたたずむ黒い雪は、雪としてあまり価値をなしていない。しかし、黒いからこそ自由律俳句になり得るのだ。

 

 小さな死をなんとか避けつつ、社会的には意味のないものに焦点を合わせる。それらから生み出された自由律俳句は、単なるあるあるではなく、詩になる。あるあるは平面的で、そこで完結してしまうが、自由律俳句は背景に奥行きをもたせ、余韻を残す。俳句や短歌も面白いけれど、自由律俳句だって忘れてはならない。

 自由律俳句の間に、散文がいくつか挿入されている。そこではやはり、小さな死を避けようとする、自意識が過剰な世界がある。特に「オハヨウは言えなかったサヨナラは言おう」で書かれている又吉氏による散文は是非読んでほしい。

 

 小さな死を避け続けている自覚がある人、自由律俳句がありますよ。

ここ数年、温かいそばを能動的に食べていない

 時々そばを食べる。

 時々って言うと皆さんはどれくらいの頻度を想像するだろうか。時々の尺度は一人ひとり違うだろう。皆さんが思う時々の頻度を、私の文章にも当てはめていただきたい。

 数年前までは家でよくそばを食べていたのだが、引っ越しをしてからは家でそばを食べることはほとんどなくなり、大体立ち食いそば屋が主になった。最寄りのスーパーであまりおいしそうなそばが無いためだ。

 少し話は変わるが、冷凍のうどんはかなり美味しいのに、冷凍のそばはなぜあんなに微妙(個人的に)なのだろう。冷凍技術が麺類間で共有されていないのか、麺を構成している物の違いか。そういうもやもやとした思いを抱きながら、日々生きている。

 皆さんはいつもどんなそばを食べるだろうか。盛りそば、天ぷらそば、カレーそば、たぬきそば……など様々なそばがあるだろう。温かいものと冷たいものもある。今の季節だと温かいそばを食べたくなるだろう。

 私は冷たいそばしか基本的に食べない。季節も関係ない。

 別に温かいそばが苦手だったり、冷たいそばこそ至高と考えているわけでもない。なんとなく冷たいそばしか食べない。能動的に温かいそばを食べたのは、ここ10年くらいで片手で収まる数だと思う。一番最近だと、大学生の時にかきあげそばを食べたことだろうか。美味しくなかったことだけ覚えている。

 大みそかには年越しそばという風習があり、その時期実家に帰っている私は家族と一緒にそばを食べるのだが、わたしだけ冷たいそばである。ちなみに弟はそばをいやいや食べている。おそらく前世でそばを食べすぎたのか、そばに殺されたかに違いない。そばに殺されるとすると皆さんはどういう死因を思い浮かべるだろうか。私はそばが首に巻かれたことによる絞殺である。皆さんもそばに殺されるとしたらどういう死因か、家族と話し合ってみましょう。

 よく降りる駅には立ち食いそば屋があり、値段もそこそこ安いため頻繁に利用するのだが、そこでも私は冷たいそばを食べ続けている。1回食券のボタンを間違って押してしまい、提供されるまできづかず、動揺うどん(動揺うどんとは、意図せずうどんが出てきたために動揺しながら食べるうどんのことです)になったのだが、それ以外は冷たいそばを食べていた。冷たいそば好きの男に憑りつかれているのかもしれない。

 日本海側に住んでいるため、関東より寒く雪も降る。それでも冷たいそばを食べる。体は温まらないので、店から一歩外に出ると寒さが体を刺す。それでも食べ続ける。

 そんな生活を続けていたある日、お昼ご飯を食べようと立ち食いそば屋に入った。比較的新しい店で、一回も入ったことが無かったため開拓のつもりだった。食券の前に立つ。数秒後、恐ろしい事実に気が付いた。この店、冷たいそばがないのだ。

 

 私の眼は食券を一目ひとめ見るや否や、あたかも硝子で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立に立ち竦すくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました。そうして私はがたがた顫え出したのです。

 

 どうにか気力を保ちながら、代替案を考える。かきあげそばが安かったため、かきあげそばにする。数分後、そばがやってきた。食べてみるが、あまり味が分からない。動揺しすぎているのかもしれない。かきあげも、あるなあという感想しかなかった。頭が真っ白になりながらそば屋を後にした。そばでこんなに怖い思いをしたのは初めてだった。

 ちなみにうどんは冷たいのを好むが、温かいものも食べる。家では大体温かいうどんだ。なぜそばだけ、と思う方もいるかもしれないが、個人的な感覚なので説明ができない。

 今日はサーモン漬け丼を食べた。