コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

ZINEフェス文芸-詩歌と日記-に参加しました

 とりあえず、会場の空調がちゃんと効いていて良かったということに尽きる。

『ZINEフェス文芸-詩歌と日記-』というイベントにメゾン文芸部というサークルで参加してきたので、イベントについて思い出しながら感想を書いていきたい。

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 ZINEフェスというものの存在を知ったのは今年の春頃だった。調べてみるとZINEフェスは様々な場所やテーマで開催されているらしい。その中の一つに『ZINEフェス文芸-詩歌と日記-』というものもあった。短歌冊子や合同小説集の在庫とともに日々を送っていたので、少しでも在庫を他の人のもとへ送り出したいという気持ちは常に持っている。時期的にも締め切りなどに追われるタイミングではなかったため、参加を決意した。だが決意が行為に変わるのに時間がかかり、気がつくと一般受付は終わって初出店のブースのみ受付可能な期間になっていた。私のサークルはZINEフェスに初出店だったためどうにか網に引っかかり、予約を完了させた。

 ZINEフェスには「告知協力プラン」という、指定された時期に宣伝を行うことで出店料が安くなるプランがある。宣伝自体は特に苦ではないのでそのプランに申し込み宣伝を行った。既刊だけなので特段新たに用意するものもなく当日を迎えた。

 電車に乗り込んで一息ついたあと、会場での設営について考えはじめる。設営には布や立体本棚が必要で……と思ったところで足の周りが妙にスッキリしていることに気付いた。設営道具と短歌冊子を入れたスーツケースがない。電車がちょうど駅に着いたタイミングだったため急いで降りた。お腹が締め付けられる中、乗り換え案内を検索するために指は素早く動く。幸い最寄り駅を出発して10分かからずに異変に気付いたため、サークル開場時刻から40分遅れで会場に着けそうだ。頑張れば開催時刻の11時にギリギリ設営が間に合うかもしれない。とりあえず一緒に参加する友人に謝罪のメッセージを送る。そこからスーツケースを回収し、もう一度目的地である浜松町に向かって出発した。気持ちを落ち着かせるためにグリーン車の切符を買いゆったり座ろうと思ったが、見回しても空席は見当たらなかった。結局グリーン車のある両で立ったまま時をやり過ごす羽目に。ふにゃふにゃになった心をNUMBER GIRL『NUM-HEAVYMETALLIC』を聴いて鋭角にしながら目的地へ。

 

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 駅から会場までの道は歩いて5分とそこまで遠くはない。しかしスーツケースを持ったまま1秒でも早く到着しようとすると話は別だ。そういうレースが地方のどこかで村おこし的に行われているのかもしれない。体力のなさを呪う。この世は何をするのにも体力があったほうがいい。友人と合流し、急いで設営を開始。机に布を敷く、立体本棚やポスター立てを組み立てる……テキパキとこなしていく。その結果、10分ちょっとで設営を終わらせることができた。既刊かつ短歌冊子しか今回は用意しなかったため、レイアウトに時間を取られなかったことが要因だろう。その後定刻になっても特にアナウンスがなく、あれ?と思っていたところに主催者からのアナウンスがあり開場。拍手をするのはどのイベントでも共通なのだろう。

 両隣のブースの方と時々談笑をしながらやってくる人々を眺める。会場の規模がとても大きいわけではないため(『ZINEフェス文芸-詩歌と日記-』、同フロアで同時開催の『ZINEフェス写真』を合わせるとが250組前後とのこと)、片っ端からブースを見ていく人がそこそこいたように思う。そのため、手にとってくれる頻度は文学フリマ東京よりも多い気がした。13時〜14時あたりは人が少し多くなったが、それでも混みすぎずゆったり見るのにちょうどいい来場者数なのかなと感じた。

 今回頒布した短歌冊子の中には4~5年前に作ったものもある。そのときはまだ連作を作るときにあまりコンセプトを固めていなかったので、冊子の説明をしづらい感覚があった。短歌に関する考え方も今とは異なっているため、今の自分と多少距離ができてしまっている。無邪気な時期だったと思う。それでも「ゆかりのない土地で作った短歌を収録しています」「記憶の風化をモチーフにした短歌が入っています」など、一言二言で説明できるような文言で見本誌を読んでくださる方に声をかけた。声かけの是非はずっと課題として持っていたが、最近は本の紹介を簡潔にして、あとは質問されたら答えるというスタンスをとっている。

 今回は基本的に立って接客をしていた。座って接客をすると、ポスターとかぶってしまって相手の顔が全く見えないからだ(下記画像参照)。

 また、来場者と同じ目線になるため、ブースをちらちらと伺っているとき声をかけやすいというメリットもある。この接客方法も今年になってからスタンスがようやく固まった。イベント出店から約9年の歳月が経っていた。やたらめったら待たされるコロッケは何年待つのだろう。

 

www.asahiya-beef.com

 

 46年待ちだった。

 今回は4種類冊子を持っていったが、そのうち2種類は1、2冊しか在庫がなかったため、早い段階で売り切れになった。残ったのは4~5年前に出した短歌冊子が2種類。こちらもぽつぽつと売れていった。結果、15時頃には残りの冊子も売り切り、完売となった。完売を経験したことはこれが初めてだったため嬉しさがはみ出てしまい、友人とハイタッチ。両隣のブースの方からも祝福の声をもらった。

 

 

 嬉しさが蘇ってきたので、落ち着くために餃子を包んでいる安部公房の画像を貼る。

 

 

 16時になりイベントが終了。その後は撤収作業を行い浜松町を後にした。夕食は打ち上げも兼ねて牛タンを食べた。電車で気絶するくらいの疲れはあったもの、ご飯をおかわりした。家に帰ると体力の限界で、部屋の電気もつけっぱなしで眠った。

 今回ZINEフェスへの参加は初めてだったが、途中で会場を一通り巡り、目星をつけていたブースをメインに回りつつ、偶然性に身を任せてブースの見本誌を手に取ることができた。規模感も来場者数もちょうど良いように思う。また機会があったらZINEフェスに参加したい。友人もZINEフェスに好意的な反応だった。

 直近の予定では10月頭に文学フリマ福岡12に出る予定だが、詩歌のジャンルで申請しているのに短歌が載った冊子が1つも在庫がない状態だ。そのため個人誌の『なるほどね』を少部数再版しようと思っている。また、11月の文学フリマ東京43では個人誌の新刊が出せればと思っているが、そこまでのキャパシティが今の私にあるかは微妙なところだ。今の段階では、新作の短歌を何かしらの形で出せればいいということにしたい。

文学フリマ東京42に参加しました

 とりあえず、晴れて良かったという感想がまず初めにくる。

 

 5月4日。文学フリマ東京へ出店するために東京ビッグサイトへ。文学フリマにはもう13回目の出店になる(東京12回、札幌1回)。当日朝に必要物品の印刷や買い出しをするような、開催前からへとへとになるスケジュールを組んでいたのも昔の話で、今はただ会場に行くだけでいい。成長だ。

 もう8年以上出店していることもあり、ブースの設営もかなり早くなった。11時30分には設営も完了し、Xに設営完了の旨を投稿したあとはダラダラとしていた。

 今回新作と言えるものは短歌と短文のフリーペーパーのみで、Xでも反応が今ひとつだったのでどこまで捌けるのか不安だった。開場後も1時間ほどはあまり人の流れがなく、例年売れ行きが伸びない時間帯ではあるものの、このままだと半分近くフリーペーパーを持って帰らないといけないぞという焦りが募っていく。

 この状況を打開しようと、1時間ほどしてから立って接客をするようにした。サークルにはA3のポスターが2枚あるのだが、ちょうど我々の顔を隠す位置にしか置けないため外から見ると出店者の顔が見えなくなる。また、ブースの前で立ち止まっている方がいてもこちらからは気付きにくい。この作戦が功を奏したのか、見本誌を手に取ってくださる方が増えたように感じた。

『なるほどね』という個人誌には短歌とエッセイ、そしてわんこそば攻略法が書いてある。短歌とわんこそば攻略法が載った冊子はどこにもないはずだ。お客さんと話しているとわんこそば攻略法への食いつきが良かった。そばをたくさん食べる行為には、何か惹きつけられるものがあるのかもしれない。攻略法について話したことで個人誌を買ってくださる方もいた。120杯食べた甲斐がある。ネットでもわんこそば攻略法をいくつか見たがここまで詳しく書いているサイトは無かったので、興味のある方はぜひ。

 

 

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 フリーペーパーに関しても、「取っていっていいですか?」と聞いてくださる方が結構いたので、Xでの複数回のリポストは意味があったのかもしれない。いいねとリポスト数でしか反応を測れず、それらの数が少ないとどうしても不安になりがちだが、あまり一喜一憂しすぎないほうがいいのかもしれない。

 フリーペーパーは近いうちにネットプリントとしても配信しました。文学フリマ東京42に来られなかった方もぜひ。ここ最近作った連作の中で一番ワクワクしたので。

 

 

 小説と短歌について一通り説明できるのが私だけだったため、ご飯も食べずにブースの中にいた。持ってきたのはキャラメルと麦茶だけだ。隣のブースの方や友人にお菓子をもらうことでどうにか空腹を紛らわした。

 友人からもらったお菓子に『米沢牛ステーキ味棒』というものがあった。ステーキは食べたことがあったが、ステーキ味は食べたことがない。ステーキ味とは何か。牛肉の味やソースの味が思いついた。しかし口の中に入れたそれはそのいずれにも該当しない味だった。うまく説明できない味の例として他にはバーベキュー味がある。

 

栗をまだ知らない犬につけられたマロンという名やバーベキュー味

 

 こういう短歌を作ったことがあり、接客中に歌の意味を問われる機会があった。ここで種明かしはしない。

 もらったお菓子だけではお腹がどうしても減ってしまったので、カロリーメイトを友人に買ってきてもらった。ぼそぼそとしたチョコ味が口に広がると、中学生の頃に陸上部の大会中テントで食べていた記憶が蘇ってくる。大会で食べるカロリーメイトは特別な感じがしたが、今はただ空腹を満たすための食料だ。栄養補助食品ということもあるのか、カロリーメイトを食べてからは耐えがたい空腹はやってこなかった。

 会場で流れるBGMがだんだん壮大になっていき、文学フリマ東京は終了。終わった後は打ち上げで焼肉へ。低温調理された肉ばっかり注文したせいで、網の下で燃えている火を見つめるだけの時間ができてしまった。

 

 今回の文学フリマ東京で学んだことはいくつかある。まず、お互いの顔が見える形で接客した方がいい。先述の通り、A3のポスター2枚と立体本棚があると座っている状態では前が見えなくなってしまう。そうすると見本誌を手に取ろうか迷っている人がいても分からず、声かけのタイミングも逃してしまう。

 次に、ブースにあるものを全部説明できる人がいたほうがいいことにもようやく気づいた。どういう小説・短歌が入っているのかを伝えることで本に対するイメージが膨らむこともある。収録されている内容をある程度頭に入れている人がいないと、質問をされても答えられなくなってしまう。当サークルの課題としては短歌冊子は自分しか関わっていないので、歌の意味などを問われると自分しか答えられる人がいないことだ。サークルに貼り付いていないといけなくなってしまう。

 他にもブースに長い間いる場合は、パンやおにぎりをしのばせたほうがいい。今回初めてずっとブース内にいたため、昼食を買いに行くタイミングを失った。会場に行く途中で買ったキャラメルを過信してはいけない。炭水化物はあったほうがいい。

 新刊らしい新刊もない状態での参加が初めてだったため、自サークルの対応で精一杯になってしまい、他のブースに顔を出すことができなかった。文学フリマに対してあまり良い関わり方ではないなと思ったので、次回はブースを回る時間を取りたい。開場直後はほとんどお客さんも来ないので、そのタイミングで買いに行くことも検討したほうがいいのかもしれない。

 今後販売数を増やしていくには、ファンをコツコツ増やしていく必要があるだろう。SNSに短歌を定期的にあげていき、普段どういう短歌を作っているのか認識してもらう必要もある。文学フリマ東京だとブース数の関係でなんか良さそうだから買ったというパターンが少ないように思う。1つ1つのブースがあるというよりは、巨大なブース群があるようなイメージだ。圧倒されてしまう。

 多くの人に短歌を読んでもらいたいという気持ちがあるので、今後も策を練っていきたい。策だけでなく短歌も作っていければと思う。時々小説も作っていきたい。

 

 

本を読めるようになる/短歌の種を知りたいけれど

 診察とメンタル関連の薬を貰いに病院へ。精神状態が悪くなってから本を読むことができなくなっていた。読もうとしてもそのために支払うべき気力を持ち合わせておらず、電車内でやることといえば流れていく景色を眺めるか眠るくらいであった。最近になって本が少しずつ読めるようになり、電車でもようやく本を読めるようになった。休憩を挟みつつ佐々木朔『往信』を読み進める。

 まだ一気に何十分を本を読むことはできない。読み終えた本はブログなどにメモを残しておいてもよさそうだ。感想を書くと意気込んでしまうと、それなりに分量がある立派なものを書かなければ行けないような気がしてしまい、書き終えることは遅れ続ける。メモと言ったほうが肩の力は抜けるような気がする。

 病院の時間まで30分ちょっとある状態で最寄り駅に到着。散歩をする気にはあまりなれず、駅近くのカフェに入る。ツイストドーナツとコーヒーを注文。揚げパン的なものに対して、子どもの頃から好意的な気持ちを持ち続けている。小学校の給食の週1回あるパンの日。その中でたまにしか出てこない揚げパン。給食で出てくるパンの中で唯一揚げるという工程が入ってくるところも特別感を演出しているのかもしれない。コッペパンタイプの揚げパンはもう10年以上食べていない。ここでも本を少し読み進める。

 病院では待っている間に短歌を作ることにした。他の人が短歌を作っているところを見たことがないのでどういう作り方が一般的なのかは分からない。どうやって短歌を作っているかを人に聞いてみたい気持ちはあるが、種明かしを強いているような側面もあるためなかなか聞きづらい。もし聞くとすれば、短歌の作り方を皆で言い合う会を企画してクローズドかつ口頭で完結させるのがいいのかもしれない。

 最近は短歌を作っているときに、自分の短歌が意味に寄りすぎているような気がしていて、もうちょっとテクスチャを意識したいと思っている。しかしそのためには短歌を作るときの考え方自体を変えないといけないのではないだろうか。様々な事情により去年は歌会に1回しか参加できず、その結果人と短歌の話をすることも無くなってしまった。そろそろ歌会にも顔を出したい。

 薬を貰い、駅に向かって歩いていると落ち込んでくる。精神を回復するために病院にやってきたのに、終わるといつも暗い気持ちになっている。自分が病院を必要としている事実と真正面から向かい合うからだろうか。今までは何とかやっていくしかないという気持ちで進んでいたが、やっていく精神だけではどうにもならなくなってからはどういう気持ちをもって進んでいけばいいのか分からないままでいる。あらゆることに指針を求めすぎなのかもしれない。

エッセイ以後の話

 昨年、なるほどねという個人誌を作った。中には短歌連作2つとエッセイ、わんこそば攻略法が入っていて、通販もやっている。

 

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 その中のエッセイでは家族が大病にかかったり、私が精神的に不安定になってしまい、価値の無さや希死念慮に苛まれたりといったことも書かれている。エッセイは11月の頭までのことの状況について書かれていて、それ以降のことについては私がここやSNSで書かない限り不特定多数には明かされない。SNSに関しては自分の思いついたことや短歌を毎日1つずつ投稿する専用機みたいな使い方をしているので、現在の状況を書くとするとブログしかないわけである。

 エッセイ以後の生活についてようやく書く気力が出てきたので書いていくが、12月以降は大病を患った家族が別の大病にかかり緊急搬送され、しばらくは耐えていたものの最終的に死というただただ不可逆な結末をたどることになった。家族が緊急搬送されたあたりで私自身の精神状態も悪化してしまい、12月〜1月にかけては自責の念と希死念慮がそばを離れないような状態になってしまった。まだ死ぬべきでない家族が死に、精神状態の悪化も相まって価値を認められない私が生き続けている。この事実は受け入れがたかった。思い浮かぶのは後悔ばかりで、あの時私がこうしていれば、こういうことをやらなければということを今も何もしていないと考えてしまう。家族の死と私の行動に直接の関係がないことは複数人から言われたものの、そういった言葉は免罪符のような効き目をもたらしてはくれなかった。

 仕事を休むことに決め、メンタルに関連する病院に定期的通院してからもしばらくは今までできていたことがほとんどできず、日中横になっている時間が多かった。本も読めなくなっていた。しばらく経って薬が効きはじめたのか本を少しずつ読めるようになり、短歌も作れるようになってきた。文章も書けるようになった。頭の中で何かを思いつけるようにもなった。回復は少しずつしているものの、まだ自責の念や希死念慮は自身を離れてはくれない。

 不可逆な経験をした今、元気だった頃には完全には戻れないだろう。今までの自分を可能な限り取り戻すことはあきらめ、新しい自分を時間をかけて構築していくといったほうが適切かもしれない。新しい自分は本を読み、短歌を作り、文章を書けるようになってきた。現在のところ今までの自分とあまり変わりはないような気がする。

ネタのネタバレ/在庫の皮算用/通販のお知らせ

 漫才やコントを見るのにも気力を使っている感覚がある、の日々が続く中、M-1グランプリの準々決勝の動画が公開された。

 十九人が良かったというポストがXにちらほら流れてきたので見る。

tver.jp

 M-1の準々決勝の動画はそのうち削除されるので、この文章の上にはそのうち空き地みたいなリンクに変わっていることだろう。

 見た数時間後にXでネタの核になる部分が流れてきたので、タッチの差でネタバレを回避することができた。話題になったものは早く確認しておかないと情報が入りすぎてしまう。十九人のネタも面白い場面があったのだが、言ってしまうとネタバレになってしまうので、興味のある人は私がざっくりとした話題にとどめているうちにチェックしてほしい。

 他にも話題になっていたラパルフェや、好きだけどYouTubeに全くネタ動画がアップされていないコーツのネタを見る。そこで気力が尽きてしまい、それ以上はチェックできていない。気力が尽きていると、見てもいつもみたいに楽しめないだろうなという気持ちが入り込んでしまい動画までたどり着けない。公開が終了するまでに気力が回復するのを待つしかないのだろう。

 

 休日にサークルや個人で作成した小説合同誌・個人誌の在庫確認を行った。もともとそこまで冊数を刷っていないので、在庫が段ボール1箱で済んでいる。文学フリマ東京では既刊もちょこちょこ売れていて、あと何回かイベントに出店すれば数年前につくったものは全部捌けるのではいう皮算用をしている。短歌に関しては『Liminal』という連作を2022年に作っているのだが、それ以前に作った短歌は今後歌集を作る機会があったとしてもあまり載せないようにしようと考えている。そのため今残っている在庫が無くなった場合はそれっきりという形におそらくなるだろう。

 文学フリマ東京41で出した新刊に関しては、いくつかのイベントに出店して売っていければと思う。来年の1月にはもじのイチというイベントに出店予定だ。

mojino1.com

 初めての参加なので、どういう雰囲気なのかは全くわからない。あくせくしていなければいいなと思う。近くなったら宣伝をしていきたい。

 また、新刊に関する通販のページも公開した。

komugikokomeko.booth.pm

komugikokomeko.booth.pm

 よろしければリンク先を見てもらい、興味があったら購入していただけると励みになる。どれくらい励みになるかというと、

大の字で寝る人のイラスト(男性)

 これくらいの大きさの励みになる。身体で表現するとなると限界があると思う。

文学フリマ東京41に参加しました

 すっきり晴れない。

 秋の文学フリマ東京にはなんとなくそんなイメージがある。今年の文学フリマ東京も曇りがちだった。

 

 電車に1時間以上揺られて会場へ。車内ではOneohtrix Point Never『Tranquilizer』を聴いていた。個人的には『Rodl Glide』という曲が、遅回しはおそらくしていないものの、Vaporwaveのもやがかかった遅さを思い出させてくれて好きだ。

youtu.be

 

 キャリーバッグのタイヤカバーが見るたびにいくつか外れかけているというちょっとしたトラブルはあったものの、無事会場に到着。東京ビッグサイトには1年ぶりだった。南1・2ホールはただただ広く、くまなく回ろうという気持ちを最初の段階でへし折ってくる。去年参加した文学フリマ東京では、人混みで気分が悪くなってしまった。今回はどうだろうか。

 自分たちのブースに行き、設営作業へ。新刊・既刊の入ったダンボールはどちらも無事に届いていた。段ボールを開けて、新刊を確認している瞬間が一番テンションが上がる。「形」になっているといつも思う。10回以上イベントに参加しているとさすがに設営も洗練されてきて、今回はスタート30分前には設営が完了していた。当日に印刷や見本誌ラベルの書き込みなど、設営以外の作業をしないことが心を穏やかにするのだろう。スタートまでのんびり過ごし、拍手に加わった。

 

c.bunfree.net

c.bunfree.net

 個人誌の『なるほどね』は「個人誌を作っておかないといけない」という気持ちに突き動かされて、短い期間で一気に作ったものだ。今まではそんなことなかったのに、今回に関しては個人誌を作れなかったら悔やみつづけるという気持ちをなぜか持っていた。短歌とエッセイ、それにわんこそば攻略法が載っている。

 小説合同誌の『シュッ』は、「猛スピード」をテーマにした作品が収録されている。私は『駆け抜けるのは』という小説を書いた。色々な場所で心の中の犬を放つ小説になっている。

 真っ先に買いにくるようなサークルではないという認識なので、スタートしてもまったりとしていた。それと対比するように早歩きで会場の奥へずんずん進んでいる人が遠くに見える。今回初めて見た光景のように思う。

 今回店番をしていてうれしかったのは、自分の短歌が好きだと声をかけてくださった人が何人かブースに立ち寄ってくれたことだ。ずっと自分の短歌が本当に外へと届いているのか不安だったので、確かに届いているんだなと安心する。と同時に、自分の好きな作品を作ってくれる人に対して、できるだけ言葉を発さないといけないなという気持ちにもなる。

 ぽつぽつと売れていくのを見届けたあと、昼ごはんと買い物のために店番を交代。昼ごはんは迷った末にハンバーガー。私は生野菜が苦手なので、レタスやトマトが入ったハンバーガーを避けた結果2つしか選択肢が残らなかった。そのことを友人に話すと「なんでハンバーガーを食べようと思ったのか」と返される。友人はSUBWAYで照り焼き系の何かを食べていた。SUBWAYは生野菜がたくさん入っているイメージなので、私は注文時に立ち尽くしてしまうかもしれない。

 買い物はあらかじめチェックしていたところを中心に回る。文学フリマ東京は偶然の出会いが減っているように思っているが、私もそこに加担してしまっている。人とブースが多くなるほど、計画的に動く必要が出てくる気がする。計画的に動かないとブース群という大きな塊に押しつぶされてしまいそうだ。

 ブースに戻ると、新刊・既刊ともに何部か売れていた。私たちのサークルのピークはどうやら14時半〜15時半らしい。その時間を過ぎると再びまったりした時間が続く。会場を歩き回った疲れもあるのか、なんだか眠くなってくる。

 その後もぽつぽつと売れていき、17時になると同時に拍手が自然と起こり、文学フリマ東京41は終了した。打ち上げではサークルメンバーで焼肉を食べた。私はレバーが苦手なのだが、低温調理したレバーを初めて食べた。ごま油とネギが大量に乗っかることで後味がマスキングされるのか、食べることができた。ごま油によって噛みしめるのではなく滑るように喉に入っていくのも、後味を感じずに済んだ要因の一つなのかもしれない。

 

 毎年帰り道に、どうすればもっと頒布物を手に取ってもらえるのだろうと考える。大量のブースがあると、よほどインパクトがない限り初見で手に取ってもらえる可能性は低い。となると、やはり地道に作品を公開してより多くの人に見てもらうのが良いのだろう。コンスタントに作品を発表し続けていないと、よほど才能のある人でない限りは忘れ去られてしまうし、新しく読んでくれる人も増えない。文学フリマ東京の前まではあまり動かしていなかったXのアカウントがある。ホコリをもう一度はらっておく必要があるのかもしれない。

 また、東京以外の文学フリマや、文学フリマ以外のイベントにも出店していきたい。イベントによって雰囲気や人の流れも違うだろうし、そのイベントに参加したからこその偶然もあるかもしれない。

 現在私を知ってくれている人が、興味を持ち続けてくれるような作品を作っていきたいし、現在私を知らない誰かが、来年には私の作品を読んでいてくれればと思う。

短歌の日大賞:4/24テーマ詠「自転車」の選評(橙田千尋)

はじめに

 こんにちは。橙田千尋(とうだちひろ)です。自分のブログで自己紹介をしたり、普段の記事と違ってですます調で書いていると、なんだか自分の部屋でよそ行きの服を着ているような気持ちになります。

 『短歌の日大賞・毎日選評2025』について、4/24のテーマ詠である「自転車」に関する短歌の選評を行いました。詳細は以下の通りです。

  • 特選1首、入選2首、佳作3首を選んでいます
  • 入選・佳作としてピックアップした短歌は順不同です
  • ピックアップ時は短歌だけを読み、コメントや作者名は伏せました
  • 敬称略です

 

【特選】

向こうからおでこ近づく向こうから見ればわたしもおでこ自転車/後藤たり

 今回たくさんの自転車の歌を読んだ中で、最終的に「おでこ自転車」が記憶に残りつづけたように思います。語感の良さに加えてこのフレーズには、絵本に出てくるキャラクターを思わせるようなユーモラスさがあります。

 「自転車」同士ですれ違うときの歌だと読みました。「向こうから」誰かが近づいてきて、「おでこ」に視線が置かれる。三句・四句で相手の視線が想像され、結句で相手と「わたし」がどちらも「自転車」に乗っていたことが明かされる。この語順も面白かったです。

 人間を構成するパーツの割合として「おでこ」はそれほど大きくありません。それでも、歌に出てくる人物の中ではおでこが印象に残っているようです。相手のパーツのうち印象的な箇所だけが残り、それが「自転車」と組み合わさることでキャラクター性の獲得まで到達できるのだなと、この歌を読んでいて思いました。

 

【入選】

自転車でこけた私のすぐ横を通っていった車の赤さ/せんぱい

 様々な状況を引き連れてくる「赤さ」という単語が、歌の魅力を支えていると感じました。

 歩いて転ぶよりも、「自転車」で転ぶほうがより痛そうです。怪我の具合が深刻すぎると、その印象だけで歌が止まりそうですが、この歌では「こけた」を使うことで読み手に必要以上の深刻さを与えずに三句以降を読み進められるように思います。

 歌を読む限り、「自転車でこけた私」に気づいた人はいたとしても、声をかけた人はいなかったように思います。私を気にかけずに「すぐ横を通って」いく「車の赤さ」は、「こけた」ことで負ったであろう傷の赤さや、道端で「こけて」しまったことによる恥ずかしさを同時に想起させます。そういった様々な「赤さ」を、通った車の色だけでこちらに伝えてくるところがこの歌の魅力的な部分だと感じています。

 

前カゴのゲームボーイが跳びはねて夏休みって全然ながい/きいろい

 2つの異なる時間の長さが重なっていくところが印象に残りました。

 自転車の「前カゴ」は不安定なのになぜか精密機器を入れがちです。歌に出てくる人物も、精密機器を入れているという意識が薄いからか「ゲームボーイが跳びはねて」います。上句ではこの跳びはねた瞬間が切り取られています。

 対して下句では、「ゲームボーイ」が跳びはねる瞬間を包むように幼い頃の夏休みの果てしなさが詠われています。2つの異なる時間が重なることで、瞬間と果てしなさの両方を味わうことができました。

 子どもの頃の夏休みは確かに「全然ながい」ですね。大人になってからと比べて中身も詰まっている気がします。「全然ながい」というフレーズによって、短い夏休みを知った現在が入り込むような印象も受けました。

 

【佳作】

わたくしがわたくしの帆を揚ぐるとき駐輪場のひだまり静か/有為

「わたくしがわたくしの帆を揚ぐる」という表現が魅力的でした。

 上句の意味を取るのに少し時間を要しましたが、自転車で上半身が伸びるような体勢をとっていると解釈しました。上半身が「帆」に喩えられることで、伸び上がる体の様子だけでなく、身体が受けている風まで想像させるところが面白いと思います。

 下句の「ひだまり静か」も、自分以外誰もいない駐輪場に陽がさしている様子を思い起こさせてくれます。個人的に、静けさを帯びているものは涼しい/冷たいものが多いような気がしています。しかし歌の中の情景がはっきりと浮かぶため、確かにひだまりも静けさを帯びているよなと認識することができました。

 

前カゴに花をのせればあなたへと駆ける花瓶に変わる自転車/もりなこ

 歌から想像できるスピード感と、「花瓶」が「自転車」に変わるという言い切りの強さが相乗効果を生んでいるように感じました。

「花瓶」は多くの場合、安定した場所に置かれます。また、水を入れることもあるので漏れ出さないような材質になっています。対して「前カゴ」は地面の形状によって揺れますし、水は漏れるので「花瓶」からは遠いもののように思えます。

 それでも「花をのせれば」「花瓶に変わる」と言い切る。その強さに「駆ける」がもたらすスピード感が合わさって、読んでいて「自転車」は「花瓶に変わる」んだなと納得させられました。韻律もスピード感を損なわない形で歌に味方していると思います。

 

自転車で日ごと遠くへこぎゆけば父の目を見て話せなくなる/山口絢子

 「自転車で日ごと遠くへ」行くようになることと、「父の目を見て話せなくなる」こと。この二つが接続されるところに面白さを感じました。

 成長するにつれ、行動範囲は広がります。遠くへ出かけることで気分が高まる感覚は、自分にも覚えがあります。しかしどんなに遠くへ行っても、自宅に戻り家族とコミュニケーションをとることになりますし、鬱陶しさを感じるようにもなります。

 歌の中に出てくる二つの状況は、直接的な関係を持ちません。しかしポジティブ/ネガティブな感情を生み出す状況が歌の中で接続されることで、思春期・反抗期に起こる心の揺らぎが、歌の中で表現されているように思いました。

 

終わりに

 以上が今回取り上げた6首になります。自転車に関する歌をたくさん読んでいくと、詠みたくなる状況や光景に関する大まかな傾向が分かって面白かったです。
 たくさんの短歌を投稿してくださり、ありがとうございました。