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備忘録と不備忘録を行ったり来たり

【印象に残った短歌】どこまでが夢で、あそこまでの梅、ここから桜。さくらがきれい。/山中千瀬

どこまでが夢で、あそこまでの梅、ここから桜。さくらがきれい。

/山中千瀬『さかなのぼうけん パート2』(『率 8号』、2015.5.4)

 

 夢と現実、そしてその狭間を想像させてくれる歌だと思う。

 まず<どこまでが夢で、>で夢の存在と、現実の存在、そしてそれら2つの狭間の存在が暗示されている。<あそこまでの梅>で主体に見えているある一定の範囲まで梅が咲いていることが分かる。

 そして<ここから桜。>で梅と桜の境界が現れる。どちらも同じ春の花で、色合いも似ているが、ここではくっきりと違ったものとして提示される。今まで読点だったのが句点に変わるところも、ここで何かが変化したことを思い浮かばせる。

 最後の<さくらがきれい。>であるが、桜の表記がひらがなに変わっているところはかなり重要で、桜という様々な意味や象徴を持った花が、ひらがなになることで少しぼかされるように思えた。そのぼけ方が夢か現実か判然としない空間と合わさって、意味や象徴としての桜のイメージは淡くなり、目の前に見えている光景がきれいだということだけがわたしの心には残る。

 

 この歌は<どこまでが夢で、><あそこまでの梅、><ここから桜。><さくらがきれい。>という4つのフレーズに分けることができるが、57577に即して読むと<どこまでが/夢で、あそこ/までの梅、/ここから桜。/さくらがきれい。>という形になる。

 フレーズと読む際のリズムに差異があるのだが、下句になるとフレーズとリズムが一致する。ポリリズムの曲を聴いているときの、2つのリズムが一致したときの気持ちよさのようなものが、この歌にはあると思う。

吉澤嘉代子『サービスエリア』をよく聴く/スリップダメージを減らす

2月26日(金)

 吉澤嘉代子『サービスエリア』を最近よく聴いている。

 

www.youtube.com

 

サービスエリア(初回限定盤)

サービスエリア(初回限定盤)

  • アーティスト:吉澤嘉代子
  • 発売日: 2020/11/25
  • メディア: CD
 

 

 途中からドラムが入ってくるところや、Bメロで声に力が入ってくるところのスピードの上がり方、サビに入る直前にアクセルが1回離されてサビで一気に踏まれるところが楽しい。

 また、2番のAメロの歌詞に惹かれた。

 

www.uta-net.com

 

「自動ドアのまばゆさに引きよせられ力つきた夜の羽を見た」の光と闇の位置移動と融合が面白かった。街灯に虫が引きよせられる現象は、夜の中に光があり、光の中に虫が引き寄せられていく。上の歌詞だと、一番外側にあった夜が一番内側に移動して、虫と融合している。その結果、まだ一番外に残っているはずの夜が視界から消えるようになっている。

  この歌を聴き始めてから今に至るまでに情報は更新され、この曲が入っているアルバムもリリースされた。早めに購入したいところだ。

赤星青星(初回限定盤)

赤星青星(初回限定盤)

  • アーティスト:吉澤嘉代子
  • 発売日: 2021/03/17
  • メディア: CD
 

 購入したいアルバムが増えてきているのだが、今年は出費がかさみそうな予定があるため、セーブしなければいけない状況が続いている。聴きたい音楽を全てアルバムという形態で購入していくと、生活のための資金を侵食しかなければならなくなる。気になる音楽をもっと気軽にチェックするために、そろそろ音楽のサブスクリプションも検討していく必要があるのかもしれない。

 

3月22日(月)

 日記を書くためにつけているメモが約1か月間空いた。3月は仕事が繁忙期だったため、メモをつけるということを忘れていたのだろう。

 そしてようやくメモのことを思い出したこの日に書かれていたことは「想像力の枯渇」だった。

 大学生の頃は想像力の蛇口が緩かったような気がする。サークル活動に精を出しながら、Twitterでひたすらネタをつぶやいて、時々小説を書いていた。

 ある時期を境にネタはほとんど思いつかなくなって、ネタを絞り出すようになった。ツイートをいじくり回すことで時間を浪費していた。フォロワー数が自分の背丈よりもはるかに多くなってしまった結果、いいねにとらわれすぎていたことに気が付くまでかなり時間がかかった。

 今はネタを絞り出すのをやめて、思いついたこと呟くようにしている。一見して絞り出しているのか思いついているのかは見分けがつかないが、よく分からないスリップダメージは減ったような気がする。

 いかにスリップダメージを最小限にしていくのかが、あらゆる面で今後も課題になってくると思う。

乗代雄介『最高の任務』を読んだ

2月18日(木)

 乗代雄介『最高の任務』を読み終える。ブログは時々読んでいたが、小説を読むのは初めてだった。

最高の任務

最高の任務

  • 作者:乗代 雄介
  • 発売日: 2020/01/11
  • メディア: 単行本
 

 

 この本には『生き方の問題』『最高の任務』の2つが収録されている。

 

『生き方の問題』は、<僕>が<貴子>という2歳年上の従姉に書いた手紙という形式をとっている。長さの違う過去の記憶が書かれているのだが、僕は持って回った言い回しを多用する。言い回しに関しては<僕>も自覚的で、<貴子>が途中で手紙を読むのをやめてしまうのではないかという推測を何度もしている。途中で自分も振り落とされそうになったが、そのまま読み進めていった。

 夏に起こった出来事、<貴子>に対する執着をからませた<僕>の文章は、じとっとした空気を絶えずまとっている。

片付けを終えた両親が一息つくのを慎重に待ってから部屋に戻り、急いで引き出しを開けると、手紙の端に丸文字で書かれた僕の名前の向こうから貴方が眩しく笑いかけている、そんな情景をつくって二つが一緒に滑り出てきた。(『生き方の問題』p.15) 

  <貴子>のDVD(ジュニアアイドルをやっていた)と差出人不明の手紙の重なり。しかし、手紙はラブレターだったことが読み進めていくとわかるが、ここでは貴子を際立たせるための装置としてしか<僕>には機能していない。

つまるところ「ごまかさなきゃいい」という以上に大事なことなんて何一つとしてない。(p36-37)

 

『最高の任務』は卒業を控えた<景子>の日記と亡くなった叔母、卒業式の後に家族に半ば強制的に連れていかれた小旅行が中心になっている。

 何気ないエピソードの質感の丁度よさが印象的だった。蟹炒飯に関する決意を語る弟や、<景子>が絶賛する弟のヨッシーのものまねを母に見せた時の反応など、現実がちゃんと地に足が着いた状態で起こりうる少し印象的な場面が、心に留まった。

今度はマドレーヌ*1の上にくっついてたアーモンドスライスを飛ばしてきて、それがちょうど、私が目を落としてる、今まさに書こうと鉛筆を構えてたところに落ちた。カッとなったその一瞬で、私はその下に「マドレーヌ」を書き置くことを思いついた。そして、その素晴らしさに免じて弟を許してやることにした。だからつまり、本物のアーモンドスライスが、この日記の最初の「マドレーヌ」(点をつけたやつ)の上にはのっかっていたのだ。(『最高の任務』p99) 

 思いつけたらその日は確実にうれしいと思う。

 

 ラストの部分は自分も涙の水位が上がっていて、全てが完結していくときになんだか泣きそうになる(その後に決定打がきて泣いてしまう)のは私も覚えがある。

 

自分を書くことで自分に書かれる、自分が誰かもわからない者だけが、筆のすべりに露出した何かに目をとめ、自分を突き動かしている切実なものに気づくのだ。(p.174)

*1:本文ではマドレーヌの部分は傍点が打たれていて、アーモンドスライスがこの部分に落ちたことが示唆されている

【短歌の紹介】ステンレスのシンクがきれい ほんとうは二十世紀はなかったんだね/宝川踊

ステンレスのシンクがきれい ほんとうは二十世紀はなかったんだね

/宝川踊『サイダー』(『率 8号』、2015.5.4)

 

 短歌で見かける構造として、「<言葉A>・一字空け・<言葉B>」が挙げられる。言葉Aから言葉Bへ進むとき、視線は一字空けを跳びこえていく。跳び越えた先にあるBにある景色はAと似通っていることもあるし、全く違うこともある。上記の短歌は、かなり景色が違っていると言える。

 まず<言葉A>にあたる<ステンレスのシンクがきれい>から見ていきたい。シンクの多くはステンレスでできていて、光沢をもった銀色が特徴的だ。手入れがされているシンクは光沢が強く、そういったものに遭遇したときに<きれい>という感想をもつことは割と自然なことだと思える。

 対して<言葉B>にあたる<ほんとうは二十世紀はなかったんだね>は、<言葉A>とは全く景色が違う。<言葉A>では室内での光景が描かれていたが、こちらは空間が特定できない。限定された空間→特定できない空間への変化が、歌の世界をぐっと広げている。なんだかいきなり家の壁が開いたような気持ちになる。

 景色は一字空けの前と後で違うが、引き継がれているものもある。ステンレスがもつ<きれい>さは、一字空けによってステンレスという具体的な物質のイメージを薄めながら、<ほんとうはニ十世紀はなかったんだね>に接続されていく。

 もしかしたら主体は二十一世紀生まれ、もしくは九十年代後半に生まれで、ニ十世紀に関する記憶をもっていないのかもしれない。記録としての二十世紀はあっても、実感の伴う二十世紀は存在しない。

 

 主体には、シンクを通して一体何が見えているのだろうか。

記録が引っ張り上げる記憶

1/18(月)

 日記を書くためのメモには、「全てがわるいところへ向かっているのでは?という不安」とだけ書かれていて、その前後の文脈に関しては全く分からない。

 気分の浮き沈みが激しいタイプなのだが、楽しい方向へ気分が振れることが年々少なくなっている気がする。気分を1から10で評価した時に、前までは1から10に振れていた気分が、今は1から7くらいまでになっている。楽しいとはどういうことなのか、充実しているとはどういうことなのか。年々定義が難しくなっていく。

 気分が1になると死や逃走についてしか考えられなくなってくる。逃走の中に死は含まれているので、結局同じことを定期的に考えているだけなのだろう。どんなに苦しんだり精神がまいっても虎になることはできない。

 

1/26(月)

 暇なときに時々、『ペナントシミュレーション3』というフリーでできる野球シミュレーションをやっている。架空のプロ野球チームを1つ選んで、試合をこなしたり選手を獲得していくゲームだ。

 采配をある程度指定することはできるが、毎試合采配を振るっていると時間がかかりすぎるため、試合の経過と結果だけをひたすら見ていく形になる。パワプロのように試合中に選手自らと化して打撃や投球をすることはできない。ただひたすら、打ってくれる/抑えてくれるのを願うのみだ。

 それだけで面白いのかと思う人もいるかもしれない。これが結構面白い。打率や防御率など、様々な記録が進むたびに記録されていくのでストーリーを想像できる。ドラフト1位で入ってきて、なかなか活躍できずに戦力外になる投手。最初の5年は鳴かず飛ばずだったが、急に覚醒し打線の中軸を担う野手。隔年で活躍と不調を繰り返す選手。数字だけでもかなりの広がりをもたせることができる。

 数字から様々な世界を想像できるところが、シミュレーションの良いところだと思う。

 

 数字を記録して振り返ることが年々好きになっている。

 睡眠時間はもう4年近く計測しているし、リングフィットアドベンチャーを始めてからは体重と体脂肪率を記録し、始めた時とどれくらい変化したかを見返す。仕事に関する勉強時間も昨月と比較してどれくらい増減があるかを確認し、次の計画を立てる。ブログや短歌を作る時間も最近記録し始めた。

 様々な数字を記録するのは、多くのことをいつの間にか忘れてしまうことを防いでいるように思える。数字はその時期の出来事をある程度くくりつけていて、思い出させてくれる。多くのことを忘れてしまって、もはや実行しなかった/存在しなかったことと同じになってしまうことを恐れているのかもしれない。

カービィを描くRTA動画(音量注意とタイトルにも記せば大丈夫だろう)

1月11日(月)

 Twitterカービィを描くRTAの動画が流れてきて、何回か繰り返し見てしまった。

 

 音量が大きいので気を付けてください

 音量が大きいので小さくしてください

  I'm looking for a perfect sky 

  I'm looking for a perfect sky 

 

  

www.youtube.com


 カービィを描くRTA動画なのに丸を何度も書き直したり、数式が一瞬現れたり、描いているであろう人物がやけに切羽詰まった顔をしていたり、全体的に音が割れていたりと、突っ込みどころが多い。大音量と勢いでどうにかするタイプの動画は、海外のミーム動画でもよく見かけることがあり、この動画もミーム仕草に則って作られている可能性が高そうだ。

 ミーム動画と同じ街に住んでいるアカウントとして、『No Context Humans』が挙げられる。ハプニングやおかしなことをしている人々の短い動画がいくつもアップされていて、夜中に見ると寝不足になる。

twitter.com

 こういったものを見ていると、英語が理解できるともっと楽しいんだろうなと思うが、この手の動画やミームは、国やミームの生まれた掲示板がもつ特有の文化を理解していないと面白さが減ってしまうことも多い。

 英語を読める/書ける/話せる利点を数えきれないほどあるのだろうが、自分の興味と紐づけられた瞬間しか利点は目に入ってこない。以前も、RAというエレクトロミュージックに関する記事が集まっているサイトの、アルバムのレビューを読めるようになりたいと思った時期があった。結局進化し続けている翻訳サービスによって、その熱意は水びたしにされてしまった。技術は私の熱意を奪っているのかもしれない。

jp.ra.co

 

 熱しやすく冷めやすい性格で、1回取り組むと数日~1か月程度は続くが、それ以降パタッとやめてしまうことがしばしばある。大体2か月を超えると熱はずっと続く。そうして続いているものはTwitterに短歌や小説、それと転職のための勉強、このブログも6年以上続いているから含めてもいいだろう。

 文章を書いたり何かを作ったりするのが続いているのは、楽しいというよりはやめてしまうと鬱々とする時間が長くなってしまうからかもしれない。抗不安薬みたいなものだ。

トップをいつでも取りに行く

1月9日(土)

 休みで特に出かける予定もなかったため、歌会に参加した。久しぶりにトップ票を取ることもできた。参加する全ての歌会でトップ票を取りに行っているけれど、1年近くとれていなかったので安心した。

 

 歌会でトップ票を狙うことの可否がたまーーーにTwitterで流れていて、数多ある議論と同じように正解はないのだが、私はさっき書いたとおり、参加する選ありの歌会全てでトップを狙っている。理由は単純で、負けず嫌いだからだ。トップという概念があるものに関しては、できるだけトップをとりたい。

 これは歌会に限った話ではない。時々短歌の賞に連作を出すことがあるのだが、そこでも賞がとれなければ悔しい。以前はネットで実施されている短歌の投稿欄にも短歌を出していて、そこで自分の名前が載っていなかったらテンションがかなり下がっていた。最近は仕事が忙しくなってしまったのと、題詠やテーマ詠が年々苦手になっていくのもあり、出さなくなってしまったけれども。短歌以外でも、友人とプレイするゲームは全部勝ちたいと思っている。勝ちたさは私を動かす原動力の一つだ。

 トップ票を取りたい理由には感情以外にもあり、コメントを多くもらうことができるという点も挙げられる。

 歌会でよく見かける流れとして、選が多く入ったものから評をする、というものがある。選が多く入れば、それだけ他の人からコメントを多くもらうことができる(肯定的な意見がどうしても多くなってしまい、それ以外の意見が少なくなりがちというデメリットはあるが)。他の人からのコメントによって、自分が作った時に予想していなかった読みを聞けることがあり、参考になることも多い。

 

 これだけトップ票を取りたいトップ票を取りたいと連呼していると、トップ票を取れるような短歌を作って歌会に出しているのかと思われてしまうかもしれないが、そういうことを意識すると短歌のフォームがおかしくなってしまうし、トップ票は狙ってとれるようなものでもない。狙ってとれるのなら、何度も悔しい思いをして東京から電車で実家やアパートに帰ることはなかったと思う。基本的には、自分が最近作った短歌で一番納得できるもの、見てほしい/読んでほしいものを歌会に出すようにしている。この段落の最初らへんで、夢屋まさるを思い出した。と同時にトム・ブラウンのみちおも思い出した。

 納得できるもの、見てほしい/読んでほしいものを出すことで、自分自身に緊張感を持たせる。選が全く入らず、ほとんどコメントが無いまま終わるかもしれない。そういったことを考えることで、惰性で歌会に参加することを防いでいるのかもしれない。

 

 ここで書いてきたものは、歌会に歌を提出して他の人に読んでもらうという、読まれる側の視点からの話だ。実際には他の人の歌を読む側の視点も歌会には存在し、むしろそちらのほうが重要である。

 

 今後も全ての歌会でトップ票を取るつもりで歌会に参加していきますので、よろしくお願いします。