コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

趣味は武器ではなく、趣味である

 お元気ですか?

 

 秋と言えば何を思い浮かべるだろうか? 食欲、スポーツ、芸術など様々あるが、読書の秋というものも割とメジャーなものとして存在する。というよりも、食欲、スポーツ、芸術、読書以外に「○○の秋」という使い方をしない気がする。もしかしたら、自分が知らないだけで「野菜の秋」「目薬の秋」「二段階右折の秋」などが存在しているのかもしれないが、今回はスルーしていく。

 読書の秋は誰が言いだしたのかはわからないが、秋の夜長とよく言うし、夜の間暇で暇で仕方がない人々が、じゃあ読書でもしようと言って、広まっていったのだろう。本来読書に旬はないのだ。

 では、本を読むとき、私たちは何を思って読もうとするのか。興味がある、勉強のため、自己啓発のため、その他色々あるだろう。しかし、ほんとうに理由がなければいけないのだろうか。というよりも、理由なんてないほうが良いのかもしれない。理由に縛られて、読書が読書でなくなってしまう気がするからだ。読書と言う仮面をかぶった、何か別の物になってしまう気がする。私も読書だと思っているものが、実は偽物かもしれないと思いながら、そしてそれは嘘だと振り払いながら、本を読んでいる。

 読書は崇高なものではない。読書を趣味カーストの上位に位置付けたがる人々がよくいるが、結局それは趣味ではなく、ただ自分の優位性を顕示したいだけだとおもう。読書は相手に威圧感をあたようとするための武器ではない。読書は読書だ。

 本を読んでいると、「何読んでいるの?」と聞かれることがある。そのときに、妙に恥ずかしくなるのは私だけだろうか。本の題名で、相手を威圧しているのではないかと、自分に嫌気がさしてしまうのだ。別に題名は題名であって、武器ではないはずなのに。「東野圭吾」「小林秀雄」「フョードル・ドストエフスキー」(どんな作家が入っても構いません)はいきなり尖って、相手の心臓を突き刺したりはしないのだ。

 趣味には、微量の救いが含まれている。しかし、趣味に何かを求めすぎたり、剣の代わりにして相手の喉元めがけて突き刺したりするのは違う。いずれは全ての趣味カーストが崩れ去り、全部フラットな気持ちでいられるようになれば大団円なのだが、到底無理な事だろう。だが、趣味に貴賤はない(モラルを侵すものや犯罪行為は別である)という気持ちをもっていないと、いずれ趣味は黒ずんでしまうのではないだろうか。あまり趣味に色々なもの背負わせすぎないようにしなければいけない。いずれ重くなった趣味に殺さないためにも。