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集団自殺はフラッシュモブに成り得るか

 最近、Twitterを見ていると「フラッシュモブ」という単語がよく出てくる。どうやらYahoo知恵袋に投稿された「昨日の結婚式、フラッシュモブのせいで最悪でした」という書き出しで始まる質問(愚痴)が話題になったらしい。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 内容を簡単に説明すると「フラッシュモブが大嫌いなのにされてしまいヤバい。離婚するかも」という感じだ。本当の話かどうかは証明のしようがない。結果として分かることは賛否両論の意見が飛び交ったということだけである。

 フラッシュモブ否定派とフラッシュモブ否定否定派がネット上には存在する。フラッシュモブとは何かネットで検索すると、「インターネット上や口コミで呼びかけた不特定多数の人々が申し合わせて雑踏の中の歩行者として通りすがりを装って公共の場に集まり前触れなく突如としてパフォーマンス(ダンスや演奏など)を行って周囲の関心を引きその目的を達成するとすぐに解散する行為」という定義らしい。

 私も海外のフラッシュモブ動画は見たことがあるが、結構インパクトがあった。しかしネット上にはフラッシュモブに対する否定的な意見が多い。これはフラッシュモブ自体に対する嫌悪感というよりも、「感動を強制するタイプのフラッシュモブ」に対する嫌悪感だろう。

 上にも書いてあるが、フラッシュモブはもともと周囲の関心を引くという目的の元行われている。感動させるというよりは、日常の中に、大勢の人々が突如ダンスを行うという現実離れしたインパクトを与える趣向が強い。しかし、海外からフラッシュモブでプロポーズを行う動画などが投稿され、結果として日本ではなぜか「フラッシュモブは感動に重きをおいたもの」だとスタイルを変えて輸入されてしまったのではないだろうか。

 この「感動」が曲者で、我々は周到な準備がなされたサプライズには感動するべきだという風潮が存在する。感動するかしないかは人それぞれで、プロポーズや結婚式の場でフラッシュモブが行われても別に感動する必要はない。「へえ、すごいな」くらいで十分なのだ。

 しかし、どこかの輩が「こんだけこっちは準備したんだから感動しない奴はどうかしている」みたいな思想を持ちこみ、空気感染してしまう場合がある。特に結婚式は感動を要求される場なので性質が悪い。

 つまり、フラッシュモブに嫌悪感を抱いている人は、行為そのものではなく、「感動の押し売り」をされることを嫌っているのだ。感動の強制をされると冷めてしまうのである。

 まあ、結婚式で新郎新婦のためにサプライズをしようというのは分かる。しかし、私にも理解できないことがある。それは、入社式でのフラッシュモブだ。イマイチ意味が分からない。流行っているからと言って状況を考えずなんでもかんでも採用するのはどうなのだろうか。社員たちが練習した時間、給料が出ているのだろうか。

 

 私がここ数日考えていることがある。それは「公の場での集団自殺フラッシュモブに成り得るか」ということだ。

 定義をもう一度確認してみる。フラッシュモブとは、「インターネット上や口コミで呼びかけた不特定多数の人々が申し合わせて雑踏の中の歩行者として通りすがりを装って公共の場に集まり前触れなく突如としてパフォーマンス(ダンスや演奏など)を行って周囲の関心を引きその目的を達成するとすぐに解散する行為」である。

 インターネット上で自殺志願者を呼びかけ、雑踏の中の歩行者として通りすがりを装う。そして公の場で前触れなく突如としてパフォーマンス(毒入りのカプセルを飲み一斉に自殺する)を行う。当然集団で人々が倒れ苦しめば周囲の関心は嫌でも引くだろう。そして自殺という目的を達成した人々はすぐに現世から解散する。フラッシュモブの定義からは外れていないのでは。フラッシュモブは別にプラスの意味で使われる必要などないので、集団自殺フラッシュモブ説、いけるのでは。

 一般的なフラッシュモブは緻密な準備などが要求される。しかし集団自殺は緻密な準備に加え、相当なエネルギーが必要ではないだろうか。そして、相当なエネルギーが放出される集団自殺が公の場で行われるとすれば、かなりインパクトのあるものになるのではないだろうか。

 生から死へと飛び出していく時、かなりのエネルギーを使うと私は考えている。生のステージから死のステージに自ら上げるためには、心のどこかにあるまだ生きたいという気持ちを抑え、命の電源を自らの手で落とす必要がある。電源はすぐ手が届く位置にあるが、どうしても押せないものだ。それでも自殺者は電源を切る。相当なエネルギーと引き換えに。

 

 集団自殺フラッシュモブ説について語ってきたが、推奨はしていないので間違えのないように。死ぬためのエネルギーがあるのなら、生きるためのエネルギーだってきっとあるはずだ。

 

 かなりシリアスな話になってしまったのでダジャレで締めたいと思います。

気温差に怒るビートたけし「カンダン(寒暖)馬鹿野郎!」

 

終わりです。