朝、目が覚める。しばらく布団に包まってから、朝食を済ませにリビングへと向かう。
「今日は遅いじゃない。大学に間に合わないわよ」
母が味噌汁を持って来ながら言った。
「いいんだよ。箱に任せておいた」
「またあんたは楽をしようとして。そんなんじゃ就職できないわよ」
「その時は就活を箱に任せればいいよ」
母は呆れた顔をして、キッチンの奥へ引っ込んでしまった。
世界には便利な物ができた。
箱である。しかし、ただの箱ではない。「代わり」をしてくれる便利な箱だ。誰が作ったのかは忘れてしまったが、この箱は商品化されると安価であることも手伝って爆発的に売れた。今では街を歩けばそこかしこに箱がある。
例えばコンビニでは箱が店番をしている。アルバイトが面倒臭くなって置いたのだろう。箱がレジを打ったり商品の補充をしたりできるのかと疑問に思うかもしれないが、何とかなっているらしい。事実僕がコンビニに行ったとき、普通に商品を買う事が出来た。
学校もひどいことになっていた。生徒が箱を置き授業をサボるようになったため、教室中が箱だらけになっている学校も多いという。この状況に嫌気がさした先生が授業の始まる前に箱を置くため、教室の中に箱しかない学校もあるとニュースで紹介されていた。そのニュースを紹介するアナウンサーも箱だったため、よく分からないことになっていたが。
僕は家でゲームや漫画で暇をつぶした後、お菓子を買いにコンビニに行くことにした。自転車にまたがり、コンビニに行く間にも何個も箱を見かけた。駐車場の誘導をする箱、人気ラーメン店の順番待ちをする箱、様々である。
コンビニに着くと、店内には箱しかいなかった。店番をする箱、レジの順番待ちをする箱、なかには立ち読みをしている箱もいた。世の中には立ち読みをするのを面倒くさがる人もいるみたいである。
コンビニから帰る途中、友人Aに会った。中学からの同級生で、今は同じ大学に通っている。
「大学終わったの?」
「うん。そういえばお前、女の子連れて喫茶店いたけど、あれ彼女?」
「え?」
僕はびっくりして、思わず声を出してしまった。今日はコンビニに行っただけで、あとは家にいただけである。
「いや、俺今日は大学に行ってないぞ」
「じゃあ見間違えかな。そういえばお前先週彼女ほしい彼女ほしいって飲み会で叫んでたもんな」
「うるせえな。まあ多分人違いだろ。じゃあお疲れ」
友人と別れた後も、僕の心は晴れなかった。どうしてこんなことを言われたのだろうか。
そういえば、1つ思い当たることがある。大学には僕の代わりをしている箱がいるはずだ。あいつがまさか……。いや、考えすぎだろう。僕はそれ以上考えることをやめた。
何日か大学を箱に変わってもらい、家でやることも少なくなってきた。そろそろ箱が僕の代わりに大学でうまくやっているのかを確かめに行くことにした。
大学に着くと、僕は講義が行われる教室へと向かった。教室に着くと、やはりたくさんの箱があった。あたりを見回すと、真ん中あたりに僕の代わりをしている箱があった。箱をたたんで席に座ると、友人A、の代わりをしている箱が話しかけてきた。
「お前、頭良いんだな」
「いきなりどうしたんだ?」
僕は怪訝そうな顔をして答えた。今までそんなことを言われたことは一度も無かったからだ。
「昨日お前に教えてもらったフランス語の訳、完璧だって教授に褒められたんだ。ありがとな」
僕は昨日一日中家にいた。これも箱がやったことだろう。
講義が始まった。やはり眠くなってしまう。気が付くと居眠りをしていて、教授に寝ているのはお前だけだと注意された。当たり前だ。やる気のない学生はとっくに箱に変わってもらっているし、何人かのやる気のある学生は居眠りなどしないはずだ。
講義が終わり、サークルに顔を出すことにした。僕の所属しているサークルはイベントを企画している。一時期面倒くさくなり、箱に任せていたのだった。
サークルを行っている教室に着いた時には、もう集まりが始まっている時間になっていた。ドアを開けると、誰かが熱心に話している。何かのイベントのアイデアを話しているらしい。よく見ると僕の代わりをしている箱だった。座っている人々も時折頷きながら話を聞いている。
急に居場所がなくなったような感覚になり、ドアを閉めて元来た道を歩き出した。
箱は僕の代わりを、僕以上にやっている。事実僕の評判は少し上がっているみたいだ。しかし、僕がやったことではない。すべて箱がやったことなのだ。現実の僕は怠惰な大学生だ。自分の役割が、居場所が、存在が箱に奪われている気がして、いや、事実箱に奪われ始めていて、背筋が寒くなった。
大学近くの喫茶店に入り暇をつぶすことにした。店員の代わりをしている箱が注文を聞いてくる。この店員は、自分の居場所がすでに浸食されていることに気づいていないのだろうか。
コーヒーを飲みながら近くにある雑誌を読んでいると、日が沈んでいた。僕は家に帰ることにした。
帰る途中、見覚えのある箱が歩いていた。僕の箱だ。しかも隣には女を連れている。同じサークルのCだ。何であいつと2人きりで歩いているんだ。僕はCに多少の好意を抱いていた。あの箱は僕の代わりだ。代わりが上手くやっているなら本来は喜ぶべきかもしれないが、あれはオリジナルではない。僕は何とも言えない怒りと無力感に苛まれながら、1人と1個の後ろをついていった。
十数分歩いた後、とあるアパートの前でCたちは止まった。灰色の、古いのか新しいのかよく分からないアパート。Cの住んでいるアパートだ。まさか、入っていくのか。確かCの部屋は2階の一番奥だ。階段を上って……。2階の廊下に入った。奥へ奥へと歩いていく。そしてついに一番奥まで行って……。それ以上僕は見ることができなかった。僕は暗くなるまでCの部屋を見続けて、そして……
ここで筆が止まった。そういえば、まだオチをどうするか決めていなかった。私は息を吐くと、ペンを乱暴に机に転がし、座椅子にもたれかかった。
編集は隣の部屋で何時間も原稿の完成を待っている。募る焦燥感で座っていられないのだろう、部屋の中を歩き回る音が時々聞こえる。私としては耳障りなので注意したいのは山々なのだが、焦燥感を味あわせている張本人が私なので、何も言う事が出来ない。
いくら考えても、筆は進まない。タバコも切れかかっている。編集に買いに行ってもらおうとも思ったが、気晴らしついでに自分で買いに行くことにしよう。しかし、外出でもしようものなら、編集がまた部屋の中でドタドタと歩き回るのが目に見えている。
私は机の下から、箱を取りだした。ただの箱ではない。「代わり」をしてくれる便利な箱なのだ。この箱のおかげで、私は編集の目をかいくぐって、自由に外出ができるのだ。私がこの小説を書き始めた頃、偶然考えていたものが商品化されて少し困惑したが、使ってみると意外と優れもので、今では箱は日常生活に欠かせなくなっている。
私は箱を椅子の上に置いて、歩き回る編集を尻目に玄関へと向かった。