コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

表現の変換機械と酵母

 お元気ですか?

 次の月曜日に東京に行くことができるようになった。文学フリマに行くためだ。特に私は何か出店しているわけではない。ただただ物見遊山のために行くようなものだ。文学フリマに行くのは今回が初めてなので、最初は空気を感じに行く。空気が自分と合うようなら今後もいく事になるだろう。空気感は、人がそのイベントのリピーターになるかどうかの重要な要素だと私は思う。

 Twitterでフォローしている人も何か出すらしく、興味のある冊子もいくつか目星を付けた。購入して読み、なるほどこいつはすげえなと膝を打ちたい。そのために1ヵ月前に音が良く出る材質でできた膝に交換したのだ。割と値が張ったので、交通費を捻出するのに苦労する羽目になった。今では膝を交換しなければ良かったと後悔しているが、後の祭りである。
 人の表現を見るのは面白い。文章は、隠しきれない個性や影響が出るものだと個人的には思っている。同じような内容でも、同じような文章になることは無い。文章に影響を受けて、その影響の積み重ねが所謂文体というものになるのかもしれない。特に比喩はその人のもつ感覚がはっきりと出る。比喩は自分の感情や思考を、他の要素に変換する作業である。変換を司る機械は一人一人違う部品でできている。そのため、機械は何一つとして同じものは無い。更に、同じ人物が所有する機械でも、年を経るごとにアップデートされていく。15歳の頃に、自分の感情や思考を機械に入れるとズッキーニになったのに、30歳になるとピクルスになっていた、ということはざらにあるのではないだろうか。私は感情や思考を何に変換できるのか説明はできない。おそらく取扱説明書を持っていないからだと思われる。

 最近短歌をしばしば作るようになった。興味があって、素人なりに考えて作っているのだが、なかなかに楽しい。月並みな感想だが、文字数の制約がやはり大きな要素を担っているのだろう。文字数の制約の面白い所は、それが思考や表現の制約とイコールで結びつくわけではないというところだ。文字数の制約があるからこそ、新しい表現を思いつくのかもしれない。誰かが、締め切りがないと文章が書けないと言っていた。自由に書いてくださいと言われるよりは、こういうルールがあるぞと決められているほうが、アイデアの酵母は活性化する場合もあるのかもしれない。自由と制約はどちらも一長一短があるので、場面によって酵母の状態も変わるだろうから何とも言えないが。
 短歌はTwitterに時々あげているので、興味のある人はどうぞ。興味のない人、お寿司は美味しいですよ。寿司を食べに行ってください。