コムギココメコ

忘れてもいいことを書くので不備忘録

フィクションを散歩する

お元気ですか?

 

久しぶりに散歩に出かけた。散って歩くと書いて散歩だ。全く意味が分からない。意味は分からないがまあ散歩はいいものである。

まず、色々考えることができる。散歩中に思い付いたことをブログに書いたりすることは多々ある。

他にも歩くと健康にいい。私は普段移動するときは自転車を使うので、あまり歩かない。そのため散歩をすると、「健康なことをしているなあ」と思い、自尊心度が1上がる。

その他にもいろいろ良い所はある。みんなで探していこう。

 

散歩中に空き物件をいくつか見つけた。空き物件には建物としてのアイデンティティが存在しない状態である。例えば、コンビニならコンビニ、居酒屋なら居酒屋としての個性が建物内にある。例え外見からは分からないとしてもだ。しかし、空き物件は中身がない。たまに、「これ絶対セブンイレブンが入っていただろ」という建物を見ることがあるが、これは外見だけ個性の残骸があり、中身が何もない状態だ。人間に当てはめるとかなり厳しいものがある。私は空き物件人間になっていないだろうか。ひどく心配になる。

 

ここからフィクションの部分には、文の後に(フィクション)と書かれます。

同じく散歩中に猫を見かけた。猫は私の右からやってきて左へ通り過ぎて行った。堂々とした歩き方だった。私は気になって、追いかけることにした(フィクション)。猫を追いかけていくと猫の住む町に行けるかもしれない、など空想しつつ(フィクションをもとにした自分の考え)。どんどん猫は歩いていく(フィクション)。しばらく歩いてみると、猫は家と家の隙間にひょいと、入ってしまった(フィクション)。猫を追いかけたからと言って、映画のように猫の住む町に行けたり、何か面白いことが起こったりとはならない(フィクションをもとにした考え)。現実はただの現実である(フィクションから展開されていく考え。もちろん散歩中に考えたものではない)。妙に残念な気持ちになり、私は家路についた(フィクションの気持ちではあるが、家路についたのは事実である。もし家路についていなければ、私は今も路上を彷徨っていることになる。家があるのは純然たる事実である)。

 

フィクションの部分に(フィクション)と書かれる ココマデ

 

私はtwitterをやっている。Twitterのフォロワーの中には小説等の文章を文学フリマ等で売っている人もいる。こういう人々を見ると、自分もぼんやりしてないで文章を不特定の人に投げてみるぞと、ある種の勇気が湧く。こうして今ブログを書いている次第である。

 

終わりです。