コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

被害者はスペシャルサンドのようなもので殴られ、

 時々菓子パンが食べたくなる。

 普段パンを食べるときは、近所のスーパーの中に入っているパン屋まで買いに行く。市販の菓子パンより若干割高ではあるが、塩パンとカレーパンが美味しいからだ。

 予測変換で「市販の菓子パン」を出そうとしたら、「師範の菓子パン」になってしまった。菓子パンの中にも模範的な存在はあるのだろうか。

 私の中で師範の菓子パン的市販の菓子パンは、、フジパンから出ているピザパンと、ヤマザキから出ているスペシャルサンドだ。この2つがスーパーの品ぞろえにあった場合、購入率はグンとあがる。

 ピザパンは、チーズとマヨネーズと玉ねぎで構成されている。ピザと言うには具が心もとない気もするが、ちゃんと美味しい。ピザにはよくサラミやコーン、ピーマンがのっていることが多いが、私はピーマンが苦手である。何で苦いのかがわからない。粉薬の擬野菜化ではないだろうか。具だくさんになるほど苦手な物が乗る可能性が高いため、これくらい具が少ないほうが安心して食べられるのだ。

 味もさることながら、量もそこそこあるので、満足度も高い。総菜パン界は「まるごとソーセージ」「大きなハム&たまご」などパワーヒッターが多く存在するが、ピザパンも負けてはいない。師範の菓子パンと言えるだろう。

 スペシャルサンドは最初食わず無関心をしていた。スペシャルサンドって大層な名前を貰っておきながら、見た目はただのコッペパンだ。期待外れになると思って他のパンを買っていた。

 しかし、ある時母親がスペシャルサンドを買ってきた。期待せずに食べてみると、美味しい。クリームとあんずジャムが入っていて甘酸っぱいし、真ん中は丸いゼリーが鎮座している。ゼリーの正体は分からないが、スペシャル感が出ている。確かにこれはスペシャルサンドだ。疑って申し訳なかった。

 他の菓子パンを開拓するときもあるが、結局ピザパンとスペシャルサンドに戻ってくる。味で冒険したくないときは重宝する。師範の菓子パンは安定感が大事なのだ。

 この間もスペシャルサンドをスーパーで購入した。夕飯を作る前だったため、冷蔵庫に入れておいた。

 2日後の昼、お腹が減って起きた。そういえば冷蔵庫にスペシャルサンドがあると思い出し、取り出した。

 なぜかカチカチになっていた。そういえば私の家の冷蔵庫は、1番上の段の奥だけ冷えやすく、食べ物を入れると凍ってしまうことがあったのだ。何も考えずにスペシャルサンドを1番上の段の奥に入れた結果、凍ってしまったのだ。

 持つだけで分かる固さ。とりあえず机に向かって振り下ろしてみる。ガンという鈍い音が出る。試しにスペシャルサンドで頭を殴ってみる。そこそこ痛い。食べ物で人の頭を殴ったのは、中学生の時に、美術の授業で使ったキュウリ以来だ。スペシャルサンドは凶器にもなるらしい。事件の凶器として時々出てくる、鈍器のようなものの2%はスペシャルサンドを凍らせたものではないだろうか。ナイススティックでも十分凶器になりそうだ。

 凍ったスペシャルサンドは凶器としては使えるかもしれないが、食べ物としては適していない。扇風機の風をあててとけるのを待つ。1時間経過したところで手に取ってみるが、まだ固い。結局スーパーに行き、ピザパンを買って食べてしまった。これからはスペシャルサンドを冷蔵庫の1番上の段の奥に入れるのはやめよう。欲しいのはほどよく冷えておいしいスペシャルサンドであって、凶器ではないのだ。

買い物バーサーカー

 最近まで、ほとんどビジネスホテルを使った事がなかった。存在はよく見聞きするのだが、中に入った事がない。そのため、ビジネスホテルの形態をした建物があったとしても、本当に中がビジネスホテルなのか疑わしかった。

 もしかしたらビジネスホテルの形をした食人植物なのかもしれない。ホテルの形をしてサラリーマンや旅行者をおびき寄せ、ベッドで寝ている間に食べてしまうのだ。ビジネスホテルを使った事のある友人は無事生還していたが、たまたま食人植物がお腹いっぱいで、食べられなかった可能性だってある。

 私の中で都市伝説のような存在になりつつあったビジネスホテルに、先日2回ほど泊まる機会があった。1回目は仙台へ旅行に行った時だった。高校生の修学旅行以来のビジネスホテル。テンションが上がる。中に入ってみると、そこには部屋が広がっていた。ベッドとテレビとユニットバスとその他もろもろ。普通にビジネスホテルだ。もっとすごい高価な所に泊まれば感動もひとしおだったのだろうが、安く済ませたため、感動するまでは至らなかった。

 その日はお酒を飲んでいたため、日付をまたぐ頃にいつのまにか寝てしまったようだった。

 次の日、7時前に目が覚めた。生きていた。体も消化液で溶けていない。ビジネスホテルに化けた食人植物ではなかったのだ。一安心する。もしかしたら消化液で元の体は溶かされ、新しい体に今までの記憶が埋め込まれているかもしれなかったが、そこまで心配するとキリがないのでやめた。

 別の機会にとまったビジネスホテルには空気清浄機がついていた。また、テレビの画面も大きめだった。これにはテンションが上がり、寝るまでずっと通販番組を見ていた。キャイーンの天野くん(くん付けしたくなる芸能人って何人かいませんか? 例を挙げると妻夫木聡とかさかなクンとか)がミキサーを持って、人の家で料理を作っていたところで記憶は途切れている。私はよく、買うわけでもないのに通販番組を見てしまう。

 ビジネスホテルに泊まるとき、どうしてもコンビニで食べ物を買って持ちこんでしまう。財布のひもがどうしても緩んでしまうのだ。普段手を出さないような商品まで買って食べてしまう。空気清浄機付きのホテルに泊まった時は、コンビニのはしごをして、生ハムを買ってしまった。生ハムとカフェオレは合わなかった。1人だとほとんどお酒を飲まないのでカフェオレを買ってしまったが、かなりの失敗だった。

 ビジネスホテルが食人植物でないことは分かったが、別の説が頭の中に浮かんだ。ビジネスホテルには魔力があって、宿泊者をコンビニなどで食べ物や飲み物をたくさん買わせるバーサーカーにしてしまうのだ。おそるべし力だ。

 他にもバーサーカーポイントは存在する。渋谷のTSUTAYAだ。CDレンタル売り場に行くだけで動悸がする。そして5枚もしくは10枚借りてしまうのだ。

 この間も渋谷に用事があったため、帰りがけに渋谷のTSUTAYAに行った。借りたいCDを思い出そうとするがなかなか思い出せない。お酒を飲んでいたからだ。バーサーカー状態でお酒を飲んでいたら、思考力や記憶力はかなり乏しくなる。なんとか思いついたアルバムを5枚借りて、家に帰る。

 次の日、借りたアルバムと借りたいCDリストと照らし合わせる。ほとんど間違いは無かった。渋谷のTSUTAYAに無かったCDは買いたいCDリストに移動する。次はどのCDを買ったり借ったりしようか。ワクワクする瞬間である。

 私はTSUTAYAで借りたCDをインポートしながら、CDのライナーノーツを流し読みする。欲しいCDは限りなく無限で、いつ終点に達するかわからない。各駅停車で先の見えない終点まで、のろのろと進んでいくのだ。

 

恐怖の透明感

 よく飲み物を買う。

 いつも飲み物を持ち歩いていないと、不安になるのだ。喉が渇いたときに飲み物が無いだけで、干乾びて死んでしまうような感覚になる。早く飲み物を買わないと干物になって焼かれてしまう。いそいそとコンビニか自動販売機へ向かうことになる。

 飲み物の存在を忘れるほど何かに熱中している時は構わないが、気が付いてしまうと大変だ。思考は飲み物のことでいっぱいになる。そういった状況を防ぐためにバッグの中には大抵飲み物が入っている。

 この思考のせいで、飲み物代はかさむばかりだ。バッグに入った飲み物が少なくなってくると、新しい飲み物を買ってしまう。バッグはどんどん重くなる。ひどい時だと、飲み物を2つ持った状態でどこかに行き、目的地で飲み物を貰って3つ持ち歩くことになる。

 満タンのペットボトルAに半分ほど入ったペットボトルB、そして目的地で貰うペットボトルC。回復系の魔法しか使えないパーティだ。モンスターと出くわしても攻撃力が無いため、ジリ貧の戦いになりがちである。

 このブログを書いている今も、ポカリスエットと蓋つきの缶コーヒーが存在している。どちらも半分ほど入っている。ここまで来ると喉の渇き恐怖症とでも言えるのかもしれない。

 あまりジュースやコーヒーばかり飲んでいるのも健康に良くないと考え、最近はお茶を買うようになった。お茶は飲むとスッキリするので良い。他にスッキリできるものは麻薬ぐらいではないだろうか。

 コンビニやスーパーに、味付きの水が置かれていることが非常に多くなった。「いろはす みかん味」「ヨーグリーナ&南アルプス天然水」など様々な味付きの水が売られている。

 味付きの水が怖い。何で透明なのに味が付いているんだ。半透明くらいなら分かるけど、どうみても水と同じ透明さなのに味が付いている。恐ろしい。

 1回「いろはす みかん味」を飲んだことがある。水のように透明なのにオレンジの味がする。視覚と味覚が一致せず、脳が混乱する。子どもの頃オレンジ味の粉薬を水と一緒に飲んだ時の味がよみがえり、1口しか飲めなかった。

 その後、友人に「いろはすみかん味は味の産業廃棄物」と失言したところ、かなりの論争になった。それ以来、食べ物を批判する際の言い方は柔らかくなっている。産業廃棄物はさすがに言い過ぎだ。

 透明なものでも味がついている場合があると、かなり怖いことになる。お店に食べに行ったとき、目の前に注がれている水が本当に水なのか怪しくなる。もしかしたらみかん味やいちご味、トマト味かもしれない。今のところ水なので助かってはいるが分からない。

 透明な液体は無味であってほしい。炭酸水なら甘いのかなと想像がつくが、パッと見ただの水では味がついている想像がしにくい。いきなり味がやってきたら受け身も取れない。通り魔にあったのと同じだ。

 サイコパスは混入物への警戒心からか透明な水を選ぶ、と心理テストに書いてあった。知り合いにサイコパスがいないため、真偽のほどは定かではない。この文章を呼んでいる方のまわりにサイコパスがいたら是非聞いていただきたい。ちなみに私は色付きの水を選んだので心理テストによればサイコパスではないらしい。

 透明な液体でも味がついているのだから、サイコパスには生きづらい世の中になったものだ。サイコパスに幸あれ。

アマチュアハングリー精神

 スマートフォンのモバイルバッテリーを購入した。スマートフォンを購入したのが2013年の3月下旬だから、おおよそ3年半モバイルバッテリー無しの生活をしていたことになる。

 友人たちは大体モバイルバッテリーを持っている。スマートフォンは色々なことができるが、色々な事をやろうとするほど充電を多く食べる。文明を凝縮した小さな塊を持っているわけだから皆色々な事をやりたがる。その結果スマートフォン本体の充電だけでは足りなくなり、モバイルバッテリーを購入するのだ。

 私もスマートフォンで様々な事をやった。天気を見たり、家計簿を付けたり、プロ野球の速報を見たり、麻雀をしたり、猫を集めたり、SNSを起動したり......書き上げればキリがない。しかし、充電はゴリゴリと減っていく。あっという間に15%を切り、画面に「充電が足りないよ」と警告文が表示されるようになる。

 不幸なことに、私の持っている機種は充電の減りが早いことで批判されていた。早食いが過ぎる。そんなに食べるのが早いと充電がのどに詰まってしまう。健康にも良くない。よく噛んで充電を味わうべきだ。

 今まで、充電をめぐる厳しい戦いを行ってきた。東京に行く用事があり、電車に乗る。乗換を調べ、Twitterを開いて寝ていた時間のタイムラインをさかのぼる。しばらくして充電を確認すると「76%」と表示される。満タンの状態で使ってからまだ1時間もたっていない。というよりも1時間ずっとスマートフォンを使っているわけではない。せいぜい15分くらいで、後は音楽を聴いて本を読んでいた。これでは夜まで到底充電はもちそうにない。電車の中でスマートフォンを使わないことを誓う。

 誓いの9割は破られるものである。その後もちょくちょくスマートフォンを操作し、目的地に着くころには65%程度になっている。充電がもつかビクビクしながら電車を降りる。

 用事が終わり、夕方になる。その間スマートフォンは使っていない。今日は何とかなりそうだと思いながら電源をつけ、唖然とする。充電が40%ほどになっているのだ。20%どこで使う要素があったんだ。アプリの自動更新も切ってあるんだぞ。ちゃんと報告してくれないと困る。

スマートフォン「今から充電を20%消費します」

私「え、困る」

スマートフォン「ムシャムシャモグモグ」

私「困る」

 報告されても困る。焦る気持ちを抑えながら電車に乗り込みスマートフォンをいじる。Twitterを開いてタイムラインを1分流し読みするだけで4%充電をもっていかれる。慌ててスマートフォンをしまう。電車の中では老若男女がスマートフォンを操作している。彼らは充電切れの恐怖におびえていないのか。きっと充電が切れたら皆がモバイルバッテリーを取り出す。しかし、私は持っていない。私のスマートフォンだけが静かに死んでいくのだ。本を読む気にもならず、ひたすら眠る。

 家に帰るころには充電は残り5%になっていた。ギリギリの生活が体にいいわけがない。

 そんな焦りの日々を続けていたが、なかなかモバイルバッテリーを購入しなかった。買うお金はあったのだが、その場その場の欲求に負けるのだ。ラーメンを食べたり、CDを借りたり。モバイルバッテリーはその場その場の欲求にかき消され、後日必要性を痛感する。同じことの繰り返しだった。

 そんな日々から脱却するきっかけは、仙台への旅行であった。旅行先でスマートフォンが使えなくなると少々厳しい。1日目に友人に頼み、ヨドバシカメラに行ってもらう。仙台である意味がない。もっと早く買えばよかったと思う。

 モバイルバッテリー売り場に行き、適当に購入する。ついでにコンセント付きUSB充電ポートも購入する。これで社会の仲間入りだ。

 今までモバイルバッテリーを持っていなかったことを友人に言う。「ハングリー精神だね」と返される。私はハングリー精神の持ち主だったのか。そうか。ハングリーか。ハングリー精神のプロやハングリーガチ勢に言ったら怒鳴られそうだ。

 その後、スマートフォンの充電を気にすることはあまりなくなった。心に余裕ができたからだろうか。それに、心なしか充電の減り遅くなった気がする。心に余裕ができたからだろう。 

腹痛のチケット

 最寄り駅前のすぐ近くに、ラーメン屋が存在する。最寄り駅の近くにあるラーメン屋というだけでポイントは高くなるのだが、私にとっては美味しいラーメン屋なので、さらにポイントは高くなる。

 そのラーメン屋はいわゆる家系と言われるジャンルに属している。家系について雑に説明すると、豚骨醤油のスープに鶏油が浮かんでいて、海苔とほうれん草が乗っているラーメンだ。また、オプションとして、麺の固さ・味の濃さ・油の量をある程度客側が指定することができる。カスタマイズ可能なラーメンである。自分好みにラーメンをカスタマイズさせ育てたり、通信対戦で他のラーメンと戦ったりするのだ。

 最初に訪れた時は、家系というジャンルの存在も知らず、また食べた事も無かったので、ビックリしたものだ。体には悪いと思うが、おいしい。この世には、体に悪い食べ物ほど美味しいという真実が存在する。

 美味しいラーメンなので、その後も何回も訪れるようになった。しかし、年月が過ぎるにつれ、1つ気付くものがあった。

 昔より量が食べられなくなったということだ。

 その店には量が3つあり、並盛・中盛・大盛の順で増えていく。最初は大盛を頼んでいたのだが、ある日を境にかなり苦しい思いをしないと完食できないことに気づいた。そのラーメン屋に行くときは大抵の場合電車かバスに乗ることになるので、公共交通機関で苦しい思いをすることになる。 

 ちゃんと腹八分目にしなければならない、もう沢山食べれば満足する年でもないのだからと思い次からは中盛に半ライスをつけることにした。今考えると、あまり大盛と大差ない。満腹中枢への攻撃方法が多少変わっただけである。

 その後、中盛と半ライスを食べると辛いという事が分かった。大盛の時は1年近く気づくのに時間がかかったが、中盛と半ライスの時は2ヶ月で済んだ。頻繁に行くわけでないため、気づくのに時間がかかる傾向がある。

 現在は中盛のみを注文するようになった。これにより腹九分目くらいですませることができる。人間は失敗を繰り返して学ぶ生き物なのだ。

 しかし、新たな問題が発生するようになった。その店のラーメンを食べると、高確率でお腹を壊すということだ。

 今までは二郎系ラーメンを食べると高確率でお腹を壊していたのだが、範囲が広がってしまった。どうやら油が多いものを多めに食べるとお腹の調子が悪くなるらしい。

 この問題はなかなか難しく、解決策としては油を少なめにしてもらうしかない。しかし、まだ試した事がない。油少な目でお腹を壊したら、もう解決策がその店のラーメンを断つ以外に無くなってしまうからだ。使える手札がなくなってしまうのが1番怖い。

 美味しいラーメンを食べたい。しかしお腹は壊したくない。電車に乗っている最中にお腹を壊せば、かなり厳しい事態になる。また、数百円だして腹痛のチケットを買うのは損をした気分になる。

 腹痛のチケットを貰わないためには窓口に近づかない事が必要だ。しかし、ラーメン屋で量を食べようとすると、勝手に窓口に案内されてしまう。量を食べれば満足と高校生時代の考えが抜けきっていない。

 私は大人にならなければならない。これからは1番少ない並盛を油少な目で食べるしかないのだろうか。真の大人になるためには、楽しみを犠牲にしなければならないのか。厳しいものである。

好きなアルバム紹介その5『群馬ハイヌーン』

 深夜にテレビを見ながら横になっていると、ふと起きている世界と寝ている世界が混ざり合って、音声が意味をもたなくなる時がある。そして大体の場合そのまま寝落ちしてしまう。

 最近はテレビを見る機会がめっきり減ったが、パソコンで動画を見ている時に寝落ちをすることがしばしばある。その時もぼんやりと形を失った音声が流れているような感覚になる。これは動画に意識が向いていないために起こる現象だろう。

 深夜に起こりがちなこの感覚を能動的に発生させるのは難しい。発生させる条件として、寝落ちをすることが挙げられるが、寝落ちは意図的に発生させることが難しい。疲れていないと延々とテレビや動画を繰り返し見ているだけになってしまうし、疲れすぎていると寝落ちに入る直前の感覚をすっ飛ばして眠ってしまう。程よく疲れている状態で動画をある程度長い時間見なければならない。

 寝落ち寸前になり、意味を失った音が降り注いでくる時、起きている状態では体験できないような状態になる。この状態を体験したいが、寝落ちを伴った睡眠から覚醒した時の「やってしまった」という絶望感は味わいたくない。この感覚を疑似的に体験するものはないか。今回は寝落ち寸前の感覚を疑似的に体験できるアルバムを紹介する。 This Program is Brought to You, Bye.の『​群馬ハイヌーン』である。

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 奇妙なタイトルである。群馬の正午。何を指しているのだろうか。結論から言うと、おそらく何も意味はない。

 このアルバムはヴェイパーウェイヴ(Vaporwave)というジャンルに属する。ヴェイパーウェイヴについて簡単に説明すると、昔の大衆的な音楽やスーパーでかかっていそうなBGM、CMを素材にして、それらを加工(テンポを変える、ぶつ切りにしてループさせる)した音楽の総称である。当ブログにもヴェイパーヴェイヴに関する記事があるので、そちらも紹介しておく。

komugikokomeko.hatenablog.com

 また、ヴェイパーヴェイヴの特徴の1つとして、「曲・アルバムのタイトルやアーティスト名にちぐはぐな日本語が使われている」ことが挙げられる。今回紹介する『群馬ハイヌーン』も、とりあえず日本語を使っているだけで、意味は無いと思われる。

 『群馬ハイヌーン』は、CMやテレビ番組からサンプリング(過去の曲の一部や日常の音を引用し、再構築して新たな楽曲を製作する音楽製作法・表現技法)された素材が大量に使用されている。素材例としては、『さわやか三組』のオープニング曲、天気予報などが挙げられる。Aメロやサビなどはほぼ存在せず、素材が時々テンポを変えながらループするばかりである。このアルバムを聴いて、テンションが上がったり、心を揺さぶられて泣いたりする人はほとんどいないだろう。

 私としては、このアルバムは正座してしっかり聴くものではなく、夜中にぼんやりと聴くほうが合っていると思う。布団にもぐりながら聴いていると、ループする素材が蒸気のように漂っていき、寝落ちする寸前の感覚を味わえることだろう。聴く際に体力を使うような音楽でないところも、眠る前に聴くのに最適であるポイントの1つである。

 また、このアルバムには映像がついている。Youtubeニコニコ動画で見ることができるので、見てみるといいかもしれない。深夜にぼんやりとテレビを見る感覚が一層思い起こされることだろう。

 ちなみに、『群馬ハイヌーン』はBandcampで無料ダウンロードが可能である。アルバムをアップロードしているレーベルであるChilodiscでは、他にも様々なアルバムをアップロードしているので、気になる方はそちらも聴いてみてほしい。

 

 寝落ち寸前トリップ音楽、なかなか無いジャンルかもしれない。

 

chilodisc.bandcamp.com

 

[CHILO-002] 群馬ハイヌーン by competor 音楽/動画 - ニコニコ動画

 

www.youtube.com

大きいサツマイモへの嫉妬

 世界には沢山の表現であふれていて、おそらく星より圧倒的に多く存在する。日本語というカテゴリーだけにしても、まだまだ星より多いだろう。色々な事がやり尽されている世の中で、まだまだ日本語を使った表現は尽きそうにない。誰かが「もう尽きただろう」と言っている横で溢れ出たりしている。

 そんな沢山の表現であふれかえっている世界に生きていると、おのずと自分の心に刺さる表現が現れる。それはテレビを見ている時かもしれないし、本を読んでいる時かもしれない。友人と喋っている時だってあり得るし、誰とも喋っていない時に、不意にどこかから聞こえる事もある。勝手に自家鋳造されることもたまにある。

 自分の心に刺さる表現を目にすると、こんな表現があるのかと一種の感動を覚える。前々から欲しかったけど絶盤で手に入りにくいCDが中古ショップで見つかった時の感動とは違うものだ。あっちはあっちで良いものがあるけれど。表現に感動した人々は誰かに言いたくなったり、ノートや心に書き留めたりする。Twitterで名言集やポエムが人気になり、沢山の人々がRTやお気に入りをするのと同じことである。

 私も自分の心に刺さる、新しい表現に出会うと感動を覚える。語彙力は少なくなる。本当に感動した時に語彙力が少なくなるのは、自分の説明できるキャパシティを超えているのと、いくら自分の語彙力を駆使して説明したところで、その感動を相手にそのまま伝えることができないためだろう。一人一人表現に対する感動のストライクゾーンは違うからだ。

 とてつもない表現に遭遇する。感動を覚える。すごいとしか言えなくなる。しかし同時に、私の心の中では別の感情が芽生える。

「悔しい」

 感動がドアを開ける時、同時に嫉妬も部屋に入ってくるのだ。同じ日本語を使っている人間なのだから、自分が先に見つけることも可能だったのではと思うのだ。先に財宝を掘り当てられたような気分になる。私はサツマイモとじゃがいもしか掘った事がない。

 掘り当てた大きいサツマイモを持っている人を遠くから眺めながら、やられたなあ悔しいなあ先に掘り当てたかったなあとひとしきり悔しがった後、でもすごい表現だよなと感心する。背反する2つの感情。どっちが本物なのか。おそらくどっちも同居可能だろう。

 最近の事例を紹介する。短歌をイラスト付きで紹介するツイートを見ていた時に、素晴らしい短歌に遭遇した。

 

 縦書きの国に生まれて雨降りは物語だと存じています(飯田和馬)

 

 とてつもなく大きいサツマイモだ。感動を覚えると同時に「やられた!」とも思う。雨降り、縦、物語、ああああああ。何で早く気が付かなかったんだろう。逃したさつまいもはとてつもなく大きく、押しつぶされてしまいそうだ。

 他にも好きな歌の「喉ぼとけ鳴らす音程」、フォロワーが何の気に無しに呟いた(戸思われる)「スズランテープみたいな咳」など、大きいサツマイモはそこかしこで収穫されていった。それを見ながら私は、自分のカゴに入っているサツマイモを見る。何と小さなサツマイモだろうか。

 変な対抗意識だとは自分でも思っている。素直に感動すれば良いと思っている。しかし、負けず嫌いな性格であるため、直すことは到底不可能な気がする。私も大きいサツマイモを手に入れたいと思う。

 

 今日も大きいサツマイモを掘り当てた人がいないかビクビクしながら、私は畑を掘り進めるのである。