コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

サザエさんが消えた日

 私の実家では大体テレビがかかっている。実家に帰省するたびに、何らかの番組がリビングを賑やかしている。休日になると時代劇がずっと流れていて、大体1時間置きに誰かが斬られ、主人公たちが立ち上がり、悪を成敗している。

 ここ1,2年で若干実家のテレビ事情に変化が現れた。「サザエさん」を見なくなったのだ。実家暮らしをしていたときは、毎週必ずサザエさんが流れていた。しかし、ある時を境にサザエさんはリビングで流れなくなった。

 長年見ていた番組を急にやめてしまうこと理由が気になり、父に尋ねてみた。すると父は「同じパターンの繰り返しで飽きた」と言っていた。サザエさんってそういうものじゃないのか。そういうものが売りではないのか。

 確かにサザエさんは同じようなパターンになることが多い。更に数年間見続けていると、「あれ? この題材去年もやっていたな」と思うようになる。例えば、8月の後半の日曜日は大体カツオが宿題に追われている。変化に乏しい。

 しかし、その「変化の無さ」が「安定感」として、見る人々を安心させているのではないか。サザエがカツオを殺したり、タマが車に轢かれて死んだり、アナゴさんが突然ステップアップを求めて他の企業に転職したりすることは無い。無いと分かりきっているからこそ安心してみていられるのだ。そういうありえない展開はネットのパロディSSくらいで十分だ。

 サザエさんに変化を求めるのは酷である。パスタ専門店に来てパスタしかねえのか、ラーメンを食べさせろと言っているようなものだ。パスタ専門店はパスタが売りなのだから、フォークを使ってパスタを食べているのがあるべき姿なのである。

 よくよく考えてみれば時代劇も「変化の無さ」を指摘することができる。ある程度話のフォーマットは決まっているのが時代劇である。特にシリーズ物は顕著である。水戸黄門は代表例で、水戸光圀ご一行が人と出会い、人が持っている問題に直面し、解決しつつ悪を成敗して印籠を出すというパターンが繰り返されている。しかし、それらは見るものに余計な不安を感じさせない効果がある。

 サザエさんと時代劇、どちらも変化が少ないという弱点があるのに、どうして一方を好んで一方を嫌うのか、なぜ差別は生まれるのか、なぜ人は争うのか、なぜ我々は生きているのか、そして我々はどこに向かうのか。こういった疑問は数え切れないほどある。

 本棚に大量に積んだ疑問が全て解決し終わったとき、我々はどうなっているのだろうか。多分死んでんだろうな。そしてカツオはまた宿題をやらずに遊びに出かけて、波平に叱られているんだろうな。