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【私の好きな短歌その1】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

 好きなものを紹介するのは難しい。語彙力が減ってしまうからだ。Twitterを眺めていると、好きなものを紹介している人は語彙力がその時だけ消えてしまう傾向があるように見える。

 私も好きなものを紹介するとき、上手く伝わってないんだろうなと思う時が多い。嫌いなものは理由を付けていくらでも書くことができるのに、好きなものはなかなか思うように進まない。

 だからと言って好きなものを表明していないと、なかなか好きなもの集めが捗らない。誰かが「こういうものがあり、好きになるかも」と教えてくれる機会が無いためだ。私たちは何か新しい良さを得るためには、定期的に好きなものを表明しておく必要がある。

 今回は好きな短歌について紹介し、どういうところが好きなのかを書いていきたいと思う。上手く伝わるかどうかは分からないが、短歌についてあまり知らない人がこの記事を見て、興味を持ってくれると幸いである。

 最近短歌に関する記事が多い。年々Twitterもブログも方向性が変化しているように見える。理由としては、人間だからである。

 

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

 

 短歌を読んでいるとごくまれに、「正解じゃん」と思う短歌に出会うことがある。上の短歌は、自分が初めて正解だと思ったものである。

 場所は駅のホームである。歌の前半は駅で流れるようなアナウンスと同じような形である。快速列車が通過するような駅なので、あまり大きな駅ではないのかもしれない。それから、「3番線」というチョイス。なぜ、1番線や2番線にしなかったのだろうか。短歌は原則五七五七七にする必要がある。2番線や5番線にすれば音数は守られる。しかし、作者は3番線を選んだ。駅長室から少し離れたところにある場所である理由は何なのか。

 これに関しては、柳本々々氏が以下のブログでこのように指摘している。

yagimotomotomoto.blog.fc2.com

 

「JRが国鉄だった頃は、駅長室から近い順に1番線、2番線、3番線とつけていったそうです。

だからまあもし3番線で死ぬとしたら、駅長からちょっと離れたところで死ぬことになるんですよ。駅長を電車の〈父親的なもの〉だとするなら、そういうものから少し離れた場所でしぬことになる。もっと言えば、だれにもしられず、父親が管轄できないシステムのすこし外でしぬことになる。父親は意味を与えるものですから、意味も与えられずに、です。「三番線」はその意味で、〈父なる領域〉から少しはずれたところにある。意味のすこしだけ彼岸に。(上記ブログより引用)」

 

 <父なる領域>から少し外れたところにある「3番線」。3番線は、人間の手から離れた場所を指しているのかもしれない。

 電車のアナウンスのような上句から一転し、下句は「理解できない人は下がって」とある。電車が通過するとき、人は黄色い線の内側へ下がる。しかし、この歌では「理解できない人」に対して警告じみたものが発せられている。

 通過する快速電車に乗り込むことはできない。無理やり乗り込もうとすれば、おそらく死が待っているだろう。この「快速電車」も、私たちの手からは届かない、脅威となり得る力を持ったものだと言えないだろうか。

 脅威的な力を持ったものに対して、生身の我々は為す術がない。しかし、脅威を理解することができたのならば、そこから自らの意思で退くことができる。もし、理解できないのであれば、無理やり下がらせるしかない。

 そう解釈していくと、この短歌は、何か上の存在からの警告じみたものに見えてくる。理解できる人は自ら下がる。理解できない人は警告によっておそらく下がることになる。こうして人は「快速電車」の持つ脅威的な力の犠牲にならずに済むのだ。

 

 この短歌の作者である中澤系(敬称略)は、2009年に亡くなっている。しかし、遺された短歌は短歌集『uta0001.txt』としてまとめられ、私たちのもとに届いている。私がこの短歌集を買ったときは絶版になっていて、神保町にある古書いろどりで最後の1冊を入手した。

 しかし、今年に入ってから出版社を変え、再版された。紹介した歌は、この短歌集の1首目を飾っている。Amazonでも購入可能だ。

 この短歌集は今年を含めて、2回再版されている。それだけ中澤系の短歌を人々は読みたいと思っているのだろう。是非手に取って読んでほしい。