コムギココメコ

備忘録と不備忘録を行ったり来たり

ドラえもん展や来ないバスや

8月2日(日)

 新潟で行われているドラえもん展を見にいく。万代島美術館という場所で開催されていて、少し距離はあるが新潟駅から歩いて行くこともできる。川やスケートボードを地面に置いて喋っている人々を横目に見ながら向かっていく。

 ドラえもん展では、20人以上のアーティストがドラえもんをテーマにした作品を作っていた。

 最初に気になったのが蜷川美花(敬称略。以後のアーティストも同様)の写真の展示で、最近撮影されたものと、2000年に撮影されたものが並べられていた。女性とドラえもんがデートをしているという設定で撮られた写真は、過去と今ではいくつかの差異が見受けられる。最近撮影されたものには自撮り棒が写っている(ような記憶がある)し、施されたメイクも雰囲気が違うように思う。

 次に気になったのは会田誠の作品だった。有名なアーティストということは知っていたが、ほとんど作品を見たことはなかった。Laurel Haloというミュージシャンがリリースした『Quarantine』というアルバムのアートワークに、作品が使われていたことだけ覚えている。

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 このアルバムのおかげで、「検疫」という意味の英語を知ることができた。

 Laurel Haloのアルバムでは、『Chance of Rain』というアルバムが一番好きである。

 しずかちゃん・しずちゃんしずちゃん派もいるため、両方とも記載する)のシャワーシーンが描かれたものだが、人の体は描かれておらず、湯気でできたシルエットだけになっている。シルエットだけでも認識が可能になるほど、私たちにはドラえもんのキャラクターが刻まれているのだろう。

 他に記憶に残っているのが、どのアーティストの作品だったかは忘れてしまったが、食品まつり a.k.a foodmanが音楽を担当していたことだ。

 上記アルバムの『Ahan』という曲がアクセルを踏んでいくのが想像できて好きだ。
 一通り作品を見た後に、昔オモコロでドラえもんの一部分を抽出する記事があったことを思い出した。

omocoro.jp

 改めて見返してみると、ウソ800の下半身ってそこなのか、という発見があった。

 行ったことのない場所に行く時よりも戻る時の方が体感時間は短く感じる。どこまで進んだのかが分かるからだ。しかし、帰りは目的地に辿り着けるのかという心配をしなくて済むせいか、他のことを感じる/考える余裕ができてしまう。そのため、一番暑い時間帯だった行きよりも、少しだけ気温の下がった帰りの方がとても暑く感じた。

 疲れたのでバスで帰ろうと思ったが、予定時刻になってもやってこない。諦めて徒歩で帰ることにする。数分後、バスが私を追い抜いていった。バスは来て欲しい時には来ないし、既にどうでも良くなった時にやってくる。まるで〇〇みたいだと思う(〇〇に入る表現について、家族で話し合ってみましょう)。

この世はでっかい炎のマーク

7月20日(月)

 今住んでいる家には天窓がついていて、光が入りやすい部屋の設計になっている。

 それ自体はとても良いことだと思うが、窓を開ける(もしくは光の加減を調整する)ための紐が居室に思いっきりぶら下がっていて、体調によっては首吊り用の紐に見えてくる時がある。

 幸いなことに(本当に幸いと言えるのだろうか)、首を吊るためには高さが足りないため、設計者の意図かどうかは分からないが死ぬために使われることは薄そうだ。この建物で死人が出たと言う話は聞いたことがないし、大島てるを見ても炎は上がっていない。少し説明をすると、大島てるというサイトでは、何らかの死者(事件や孤独死など)が出た物件には、炎のマークがつく。

 地球では数え切れないほどのアパートで火のマークがついていて、宇宙から見れば一つの大きな炎に見えるのかもしれない。この世はでっかい大島てる。

 精神的にかなり沈んでいる時期に、天窓の紐を首にかけてみたことがあったのだが、首に触れる金属の冷たさが妙に記憶に残っている。

 真似をしているだけでも、向こう側に引っ張られそうな気がしたため、首にかけるのはその時だけに留めている。

 

7月26日(日)

 たにゆめ杯という、インターネット内で行われた短歌の賞の結果が発表された。私が応募した作品はコンプライアンス賞だった。コンプライアンス賞? どうやら審査員賞みたいなものらしい。大賞だとAmazonギフトカードが貰えたので悔しい。

 なんとなく良いところまではいくんじゃないかなという予感がしていて、その予感が外れて自分のことを嫌にならずに済んだので安心した。

 発表されて少しした後、この賞の審査員を務めていた御殿山みなみさんに全首評をいただけたのでうれしい気分になった。

 以下のリンクより連作を読むことができる。個人的には連作の中で漫才師の歌が一番気に入っている。

  この文章を書いているのは11月末なので、連作を作って4か月ほど経過しているが、遠い昔のような気がする。

 連作が出来上がってしまうと自分の身から離れたような気持ちになる。今は年に1回短歌冊子を作って連作の整理をしているため思い出す機会があるが、作らなくなると自分の連作を管理しなくなるように思う。

 もしかしたら既に、私の記憶から消えかかっている、以前私が作った連作がインターネットを漂流しているのかもしれない。

悔しさや面倒臭さをまとって

7月6日(月)

 退勤した後にTwitterを開くと、短歌研究新人賞の結果が発表されていた。

 結論から言えば、私は箸にも棒にも引っかからなかった。7月時点では未来の話だが、私は予選通過だった。昨年が佳作だったため、一つ下がってしまったことになる。

 短歌の賞とM-1を結び付けて考えてしまう癖がある。新人賞(大賞)が優勝、次席が最終決戦進出、最終選考に残ったもので丸が付くと決勝、付いていなかったら準決勝……といった感じだ。

 短歌やお笑いは勝ち負けで測れるものではないけれど、大賞が取れないことはやはり悔しい。そういう悔しさは大賞を取れるまで持ち続けていたいと思う。

 

7月11日(土)

 行ったことのないBOOKOFFに行ってみたのだが、中古CDコーナーで目ぼしいものが全く見つからなかった。

 行きは場所を把握しきれていなかったため物理的に時間がかかったが、帰りは精神的に時間がかかった。同じ時間はひとつも存在しないように思える。

 途中で交通安全に関する標語が植え込みに飲み込まれている場所があり、行きは植え込みに飲み込まれてるの面白いなあと思ったのだが、帰りは何で飲み込まれてるんだよと思う。

 駅で電車を待っていると、BOOKOFFに傘を忘れてきたことに気づく。幸い雨はもうあがっていた。

 駅からBOOKOFFまでは約10分かかる。傘がないことへの不便さと、元来た道を繰り返すことの面倒臭さを天秤にかけた結果、そのまま電車に乗ることにした。気が向いたときに取りに行けばいい。

 こういう面倒臭さと天秤にかけた結果、物を手放す・後回しにすることは時々ある。傘の放置から4か月後の11月、スーパーでボックスティッシュサッカー台に忘れてきてしまったのだが、家から出るのが億劫すぎたためそのまま取りにいかなかった。

 こういったことを続けていくと、肉体を誰かに奪われてしまった時に、取り返すのが面倒でずっと精神体として生活を続けていくようなことが起こり得るのかもしれない。

 

7月20日(月)

 Tame Impalaの『The Slow Rush』に収録された曲をYoutubeで聴き、これはすぐにアルバムを手に入れなければ、という気持ちになった。 

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 超現実的なジャケットも良い。

 

youtu.be

 もちろん曲も良い。『Is It True』という曲が収録されているものの中では一番好きだ。最初に出てくるベースラインを後半まで押し進める割とシンプルな曲だ。ベースラインが好みなので、それだけで何回も聴き返すことができる。

 

 ネットで調べてみると、新潟にあるタワーレコードに在庫があったので向かうことにする。電車とバスを乗り次いで1時間弱かかった。しかし、ネットの在庫情報が古く、買うことができなかった。仕方が無いので翌日に届くAmazonで注文した。

 インターネットは最悪で最高だ。

麻雀の勉強を始める/終える

7月1日(水)

 久しぶりに麻雀の勉強を再開することにした。

 暇な時に麻雀のアプリでオンライン対戦をすることがあるのだが、時々異様にモチベーションが高まることがある。今回もそのパターンだった。

 基本的に負けず嫌いなので、いかに負けないようにするかを考えだすことになる。漫然と打つのではなく、どうしてその選択をしたのか考えながら打った方が上達は早いだろう。しかし、選択の基準になるものを知っていないと、判断に根拠を持たせることができない。

 以前少しだけ麻雀の勉強をしたことがあり、牌効率などは少しかじっていたのだが、全然牌効率が身についていないと感じ、基本から学ぶことにした。購入した本は以下の通りである。

これだけで勝てる! 麻雀の基本形80

これだけで勝てる! 麻雀の基本形80

 

  基本的な形や考え方が載っている本で、何切るの形で学ぶことができる。作者の言い回しに癖があるため、それが合わない人は読んでいてしんどくなる部分があるかもしれないが、載っている戦略自体は非常にためになる。麻雀をある程度やっていると必ず出くわすであろう手牌の形がいくつも載っていて、受け入れ枚数を踏まえた最善手が解説されている。個人的に麻雀は、状況を判断しながら常に最善手を目指していくゲームだと思っているので、あらかじめ戦略の大枠を学べていると最善手を選びやすくなる。

 実際に麻雀をしている際は捨て牌などを考慮する必要があるが、前提となる部分が分かっていれば応用することができる。本に書かれていることを意識しながら打つだけで、麻雀アプリの初心者が多く存在する層(天鳳なら一般卓、雀魂なら銅の間)は早々に抜けることができるはずだ。

 しかし、麻雀は運要素が強めのゲームでもあるため、どんなに最善手を打っていても相手に負けることがある。そういった負けが何回も続くこともしばしばだ。そうなってくると負けず嫌いの私にとってはメンタルを沈ませる原因にもなってしまうし、負けた悔しさで何回もプレイすることで睡眠時間や作業に充てるべき時間はどんどん削れていく。

 1か月ほど麻雀を続けた後、低調な試合が何回か続いた時期が訪れた。こういったことでメンタルを崩されたくないと思うようになり、友人とオンラインで麻雀を打つ以外はきっぱりとやめることにした。11月現在も友人以外とは打っていない。

 こういう不調の時のメンタルコントロールが上手くできて、絶えず勉強を続けていける人が麻雀のプロになるのだろうなと感じた。麻雀プロになれない私は、せめて私自身のプロになりたいと思っている。

 

ペットボトルのためのサイコキネシス

6月21日(日)

 冷蔵庫から焼肉のタレを取り出そうとしたら手が滑ってしまい、床へと落下した。
 キャップが落下の衝撃で緩み、タレがこぼれてしまう。落下することで液体が出てくる現象、何らかのメタファーな気がしてあまり良い気分にならない。
 幸いなことにタレはフローリングに落っこちてくれたため、拭き取るだけで済んだ。もし近くに敷いてあったカーペットに落ちていたら、処理に数倍の時間がかかったことだろう。運が良い。
 しかし、ここで運の良さを消費してしまったことで、他の場面で運が悪くなるのではとも思う。確率は基本的にある数値へ向かって収束していく。
 かといって運が悪いと、この後運が良くなるとは思えない。これ以上話を進めていくと人生観に関する話になってしまうため、やめておきたい。

 焼肉のタレを発端に、最終的に人生観について話をもっていけるとは思わなかった。Wikipediaの記事は6回遷移していくと基本的にどのページにも辿り着けると言う話を聞いたことがあり、それらと同じ原理なのだと思う。

 

6月28日(日)

 普段部屋で作業をする際、飲み物を用意している。コップに市販のお茶を注いで作業中に飲んでいき、無くなったら冷蔵庫からお茶を取り出して再び注ぐ。飲み物が近くにないと不安になるため、私の近くにはいつも飲み物が置いてある。
 自分の作業スペースから冷蔵庫までは何歩か歩かなければならず、億劫なことも多い。一度座ってしまうとなかなか立ち上がるのには気力を要する。
 気力をいちいち使いたくなかったため、お茶の入ったペットボトルを近くに置いておくことにした。冷たさは冷蔵庫に入れっぱなしにしている時よりは劣るが、いちいち立ち上がらなくて済むようになる。
 これは画期的な案だと思いながら、数日を過ごす。すると、新たな問題点が浮かび上がってくる。ペットボトルを置いていることを忘れてしまうのだ。自分の後ろに置いているため、記憶からペットボトルの存在が薄れていってしまい、結局冷蔵庫にある水の入ったペットボトルを取り出して注いでしまう。
 作業が終わり、さあ寝ようと思って立ち上がったときにようやくペットボトルの存在に気づく。当初の目論見は外れ、ただただ部屋の中にぬるいお茶を鎮座させているだけだ。

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「鎮座」で検索をかけると、何かが座っている画像や寺関係の画像はほとんどなく、代わりに鎮座DOPENESSがたくさん出てくる。ライフハックとして是非ご検討いただきたい。
 その後も何回かぬるいお茶を部屋に鎮座させただけの日があり、結局は冷蔵庫から都度お茶を取り出して注ぐ従来のパターンに戻った。
 今のところの解決策は、サイコキネシスを使ってお茶を取り出す方法を身につけるしかなくなったため、通信教育などで学べるところがないか探していきたい。

誰もいない花鳥風月の本番

6月9日(火)

 安部公房『死に急ぐ鯨たち』を読み終える。エッセイと対談から構成された本だった。

死に急ぐ鯨たち (新潮文庫)
 

  エッセイでは儀式に関する話が印象に残っている。集団の安定化を図るための儀式めいたもの、結婚式、葬式、入学式、果てにはオリンピックまで……。涙などを利用しながら、足並みを揃えていくことで物事を集団として共有できるものへと変質させていく。1986年に発行されたものだが、今の社会にも当てはまる部分は少なくない。

 対談では主に『方舟さくら丸』に関する話が多くされている。まだ読んだことが無いため、購入することを決意する。

 文章の間に写真も載っている。文章との関連性は直接的には無いし、唐突に挿入されるのだが、かえって本の中で存在感が際立つような気がした。

 この文章を書いているのは10月なので、読み終えてから約4か月経過したことになる。本の感想は読んだ直後に書いたほうがいい。早く日記が現実に追いつくようにしていきたい。

 

6月12日(金)

Seiho『Collapse』というアルバムがある。

  実験色が少し強い電子音楽で、ノンビートの部分も散見される。

 アルバム自体もちょくちょく聴き返すが、特に好きなのはアルバムのキャッチコピーかもしれない。

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『2020年。誰もいない花鳥風月の予行演習。』

 誰もいない花鳥風月というワードが、何かが滅び去ったようなイメージを想起させる。

 このアルバム自体は2016年に発売されていて、今は2020年だ。誰もいない花鳥風月を迎えた世界を我々は生きているわけである。

 

6月19日(金)

 はじめて塩焼きそばを食べた。カップ麺売り場に行くたびに塩焼きそばの存在が気になってはいたのだが、食べ慣れているソース味の焼きそばを結局買ってしまう。さらにはカップ麺自体あまり食べなくなってしまったため、塩焼きそばは近くて遠い存在になっていた。一人暮らしをしている人の両親みたいなものだ。

 今回意を決してインスタントの塩焼きそばを食べてみたところ、案外普通だった。レモンなどをかけるとサッパリしてさらに良いのかもしれない。これで食べていないものが一つ減り、食べ物図鑑の情報が1つ増えた。全ての食べ物をコンプリートしたら、オーキド博士のところへ向かう予定だ。

 

 

空き瓶歌会、好きなGIF、ブックオフ(2)

5月30日(土)

 普段新潟で行われている空き瓶歌会のオンライン版に参加した。

 コロナウイルスの影響で対面で歌会を行えない日々が続くが、オンラインのツールを用いることで地方でも東京や大阪などで行われていた歌会に参加することができるようになったし、逆に地方で開催されている歌回に首都圏の人も参加しやすくなった。

 コロナウイルスが落ち着いてくれば(楽観的すぎるかもしれないが)また対面式の歌会はボチボチ開催されていくと思うが、オンラインでも参加できる場が残ってくれると地方在住の者としてはうれしい。

 今回の司会はユキノ進さんだった。空き瓶歌会の創設者でもある。現在は関東圏にいらっしゃるため、空き瓶歌会の司会は約6年ぶりとのことだった。

 創設者という響きは、なんだかかっこいい。私も何らかの創設者になってみたい。一番身近な私自身でさえ、創設者は私ではない。

 歌会では新潟の風景や有名な食べ物を背景にされている方がいた。私は背景を設定すると背景と一体化してしまうため、自室を映していた。もう少し物質を減らしていきたい。

 終始和やかな雰囲気で歌会は進んだ。基本的に空き瓶歌会(や定期的に行われていた、新潟県在住の人が中心で行われていた小瓶歌会)は和やかな雰囲気であるが、オンラインでもあまり変わらないのは選無しというシステムなのか、それとも別の要因なのか、はっきりとは分からない。

 歌会が終わった後は軽く雑談をして、解散となった。

 

5月31日(日)

 メモにはブックオフに行ったと書いてあるが、なぜ行こうと思ったのか、行って何をしたのかはもう分からない。この文章を書いているのが9月中旬だからだ。

 

6月5日(金)

 好きなGIFについて考えた。

 私が一番好きなGIFは、猫が歯磨きをされているGIFだ。

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 凛々しい顔をした猫が歯磨きをされていくうちに、どんどん困惑していく。衝撃的だったり、すごく笑えるわけではないが妙に印象に残っている。インパクトがほどほどだったため、風化の速度が遅いのかもしれない。インパクトの強いものは短期的に強い印象を与えるけれど、風化の速度もかなり速く、1ヶ月後には考えもしなくなった、ということもしばしばだ。

 猫が歯磨きをされているGIFを題材にして、短歌を作ったことがある。

 

了解の代わりにねこが歯みがきをしているGIFが送られてくる
/橙田千尋

 

 今度、皆さんが好きなGIFと私の好きなGIFを戦わせてみませんか?

 

6月6日(土)

 メモにはブックオフに行ったと書いてあるが、なぜ行こうと思ったのか、いって何をしたのかはもう分からない。この文章を書いているのが9月中旬だからだ(2)。